6時間


午前、御手洗いに入る前に、昨日の奇妙な雲を思い出し、
「ふみ、揺れたらソファーにいるのよ、本棚の前とかはダメよ」

「わかってる」

そうよね、奇妙な雲がなくても、いつも言ってることだからね。


御手洗いに入り、で、ズシンと、揺れが。


「ふみ〜」

「ソファーにいるよ、ママの声のほうがこわいよ」


だって。


そっか、月に一回避難訓練してるのは、ふみたちだもんね。

茨城南部の震源。東京は震度3。


宿題を済ませ、ふみと電車に乗って両国へ向かう。


今日は、福祉大相撲を見に行くことに。

チケットは去年にとって、その時は、まだまだ先のことだと思ってたら、早いこと、もう今日になった。
実は前回もチケットを買ったが、不祥事によって、去年の福祉大相撲、取り止めになって。


12時からの入場なので、うちでお昼を食べてからだと、どうしても時間が合わない。

両国駅でお昼を食べることに。

そこのマクドナルドにした。
時間かからないし、暮れ以来、まだ食べてないし。

マクドナルドの二階の窓から、両国国技館の入り口が見える。もうたくさんの人で賑わってる。

大きい荷物を持って、いかにも新幹線から降りてきたばかりの方とか。


そうね、全国のファンだもの。ふみと電車で20分で来てるなんて、贅沢な話しだ。


行列に並び、入場待ち。


急に道が開けて、拍手が聞こえ、力士が一人歩いてきた。
西洋っぽい顔して、少し照れ笑いして、
わたしは思わずふみの腕を持ち上げて、その力士に差し伸ばして、

2メートル近くあるその力士、よく、ひざあたりのふみの小さい手を見つけて、
微笑んで、ふみの手を握ってくれた。


力士が通って、ふみは、しばらくその後ろ姿を見つめて、
見えなくなってから、その握られた手を拳にして、片方の手でそれ覆って、「ひひひひ」と笑う。


「ふみ、なんというお相撲さん?」

カイセイ」

カイセイ?どこの出身?」

「ブラジル。後ろのは、カイセイの子分」


「子分と言わないよ、付人と言うのよ」

後で調べて見たら、魁聖関、確かにブラジルの日系人三世。


入場したら、正面の枡席の結構前のほうじゃありませんか。
本当はパパとふみが来る予定だった。去年から楽しみにして、結局、お仕事で、半日のこの休みも、取れなかった。
ご苦労さま。

枡席なので、4人一組。

間もなく、わたしたちの枠に、おじさま二人やってきた。

片方がボストンバッグを引っ張ってる。
(@_@)

座蒲団4枚のスペースだけど、そのボストンバッグ、どうするおつもりでございましょう。


そのおじさま、窮屈そうにそのバッグを抱えて、なんとか座った。

こりゃ、どれぐらい時間持つかしら、最後までずっとこの姿勢のおつもり?考えにくいけど。


相撲甚句

若い力士何人か輪になって、順番に歌う。
みんないい声してらして、昔ながらの懐かしいメロディー、なんとなく悲しげなものがあって、聞き入るわたし。


土俵に集中していたら、
おじさま、ふみと、ひそひそ喋り始めて。

おじさまが、ふみに「これなら高くて見えやすいでしょう?ね?」と、どうやらこのボストンバッグの上に座らないか、との交渉のようだ。

ふみは喜んでるが、
「でも、中身は大丈夫でしょうか」とわたしが聞くと、
「大丈夫大丈夫、これなら両方助かる」


おじさまは座蒲団をボストンバッグの上に敷き、ふみに座り心地を確めさせる。

「いいね、見える見える」とふみはお尻に何回も力を入れて座り込む。


ソファーじゃないんだから。

「ふぅぅーー、こりゃラクだ。お前、冴えてるね、たまに冴えてる時もあるんじゃない、こりゃいい案だ」とおじさまは肘で隣のおじさまをツンツン。

「へへ、へへ」


ところが、視野が高くなったふみ、かえってじーっとしなくなったよ。


ネジネジ、くねくね、登って、降りて、足を伸ばしたり、あたりを見渡したり。


「ふ〜み」

「いいじゃないか、いいじゃないか、この歳でよく座ってくれてるよ」と後ろからおじさま二人が。


容認されたふみは更に手足の動きの派手さを増す。


ボーン、チャラ〜ン、「ぎゃー」


ふみは、お茶のペットボトルを蹴り、そのペットボトルは一段下の席に転がり、
そこに立ってるビール瓶に的中、ビール瓶が倒れ、隣のご婦人のコートの裾と、座蒲団に、泡混じりの液体が広がる。


(」゜□゜)」


「すみません。申し訳ないです、申し訳ないです」とわたしはバッグからティッシュを出して、一生懸命拭く。

頭の中、真っ白。

帰ろうかな、まだ始まったばかりよ、この調子じゃ、後はどうなるか。


頭は真っ白、手は機械的に携帯を取り出してパパに告げ口。お仕事中なので、もちろん返事はもらえないが。


返事がもらえない携帯を握りしめ、わたしは下を向いたまま固まってた。
クリーニング代を渡したほうがいいでしょうか、そのご婦人に。でも、ご婦人は一回も振り向いてくれてないから、どういう方か見当つかない、へたに渡したら、かえって怒られるのでは。


「いいよいいよ、ビール瓶を置いたほうが悪いよ。」
「うん。狭いところだし、蓋のないものは」

おじさまふたりは、ひそかに慰めてくれてる。


ふみは涼しい顔で土俵を眺める。


時間、早く過ぎてくれないかな。今が帰りの電車なら、わたしはどんなにラクなんでしょう。


時間が過ぎると共に、さっきの一幕は、まるで最初から無かったのように、全て平静になった。
それともわたしの頭が勝手に現実を修正してるのかも?


いつの間にか、わたしも何事もないように、休憩時間に、ふみと手を繋ぎ、トイレ行って、売店を覗く、
「この人形、ほしい」
「こんな大きいお相撲さんの、どこに飾るのよ、ダメダメ」
「じゃ、焼き鳥買って」
「なんでよ、食べたばかりじゃない」
「焼き鳥、買って。焼き鳥」

国技館の地下は、巨大な焼き鳥工場、美味しい焼き鳥は、大相撲のお土産にもなってる。

「ね、ママ、焼き鳥」
「わかったわかった、帰りに買おうね」


席に戻ったら、今日は満員御礼のはずなのに、わたしたちの隣に、奇跡的に桝席が空いてる。急用ができて、来られなくなったかしら。

休憩時間のあとも、そこが空いてるの見て、ふみとそこに移動。

これでおじさまも、ボストンバッグも、のびのびできるしね。



「ちびっこ力士 関取に挑戦」
ふみは、これは言われなくとも集中して見てた。

「ふみ、土俵に出たかった?」

「う…ん、でもちょっとこわいや」

そうでしょう、把瑠都関の前で、少年たち、まるで玩具のようだもん。


演歌歌手が何人か、力士と歌って、お相撲さんって、なんでみんな歌がうまいのだろうか。癒しの声で、魅力的。


魁聖関と歌うのは、あるアイドルグループ。
十代にしか見えないその女の子たちが歌いだした途端、場内の何ヶ所かで急に叫ぶような声援が始まった。

はっ?なにがどうしたのでしょうか。


わたしのところからは、ちょうど二階席の一組が見える。

男性二人、ピカピカと光る棒を持って、半端じゃない踊りで、歌いながら「♪ちょっと待って、ちょっと待って」、その動きは、舞台の少女たちと同じだが、ずっと激しい。

しかも何ヶ所からの掛け声がまったく同じで、みなさん、リハーサルでも励んだのかしら。


へぇ〜、どんなアイドルも、かならずこんな強烈のファンがついてるんだ。
彼ら、このために大相撲を見に来たのでしょうね。


横綱、綱締め実演。


4:30過ぎからは第三部、
幕内土俵入り

横綱土俵入り

幕内取組

ほぼ全ての力士の四股名を正確に覚えてるふみは、パンフレットを見ながら言ってるわたしを、たびたび訂正してくる。

「キタタイキだよ、ダイジュはなによ」
北大樹と書いてるもん。



終わってから、もう6時過ぎ、焼き鳥は売り切れ、ふみは泣きそう。



帰りの電車、目の前に立ってるのは、引退した力士。

顔は知ってるものの、四股名はどうしても思い出せない、ふみに聞いたら、最近のじゃないので、顔すら知らない。

ふみは現役か、大昔のが、強いもんね。