書物蔵

古本オモシロガリズム

関根喜太郎自殺説の検証

大澤(2005)により明らかとなった文献上の自殺説。
これについて分析を加えてみたい。
なんでこんなことをするかといえば。

自殺説は一般にアヤシイ

自殺説って結構あやしいことが多い。たとえば、田中稲城(初代帝国図書館長)は自殺したと、一度、『図書館雑誌』に衛藤利夫によって書かれ(1942)、それがまた西村正守による略伝にそのまま引かれ(1983)、(たしかそれを見た遺族がクレームをつけて)問題になったことを知っておるからじゃ。
最近の話題でいえば、酒井七馬(アニメーター)なんかの末路もそれ。電球で暖をとりコーラで飢えをいやしつつ死んだなんて、オモシロすぎて結局は事実ではなかったわけだしね。
さて。その文献なのじゃが。

ここでは

文献上の自殺説に考察をしぼる。ぱるの「アナ人名事典」(2004)でも「自殺したとも伝えられている」と伝聞形で典拠なく、この伝聞はおそらくここ十数年のうち存命の方からの話だろうと仮定すれば、それよりここでとりあげる文献のほうが古いんで、この文献が震源地である可能性もあろうかと。

文献

宮沢賢治全集』第7巻月報(1973.5) p.3-5 にある、高橋新吉ダダイズム詩人)の文章がそれ。

私は「春と修羅」を、賢治の生前出版した関根喜太郎氏には、度々あっている。刀江書院の支配人のような位置に、晩年関根氏はなって、神田の駿河台にあった店に通勤していた。私の「戯言集」を、沖縄の人與座弘晴氏が発行したのは、関根氏のはからいであった。私は関根氏の自宅へも行ったこともある。まもなく関根氏は、自殺して果てた。

ってのが関係部分すべて。 
我々は戦後も関根喜太郎が活躍したことを知っている。だから、文中に関根の「晩年」とあると、「あゝ、この回想文は戦後を回想しとるのね」と無意識的に思ってしまう。だから大澤氏も、戦前であることがほぼ確実な刀江書院の記述を、「これは戦前のことではないか」(p.65)と自然に判断している。「これ<は>戦前」、つまり「全体は戦後のことを記述しているのに、まちがって戦前のエピソードを高橋が混入させている」と考えてしまうのが確かに我々にとっては自然なのだ。
が。
ちとまたれよ。もうすこし分析的に読んでみよう。上記のエッセイを命題的に書き直してみると。
1)私、高橋は関根にたびたび会っていた。
2)私、高橋は、刀江書院に関根はいたと憶えている。それは関根の「晩年」である。
3)関根の「通勤」先は、神田駿河台である。それは関根の「晩年」である。
4)私、高橋の『戯言集』は、関根の関与で與座弘晴が出してくれた。
5)私、高橋は、関根の自宅へも行ったことがある。
6)関根が自殺したのは、5)か、あるいは1〜4)(あるいは5)を含む)できごとの「まもなく」後である、と私、高橋は記憶している。
どうでしょか。
1)度々会っていたのが戦前なのか戦後なのか、厳密には不明な書き方である。が。そもそも関根について思い出しているのは、とりもなおさず大正13(1924)年、生前に唯一でた宮沢賢治の本にからんでである。
2)刀江書院にいたのが戦前であることは、残された史料などから確実。とすると…
3)関根の戦後の会社、文教は小石川。星光は杉並。だいたい社主が社にでるのを「通勤」とは言わんだろう。刀江書院は、といえば、神田区甲賀町23(出版年鑑S5)、つまり、駿河台北甲賀町にあったのだ。
4)戯言集 / 高橋新吉. -- 読書新聞社, 昭和9 しかNDL-OPACに見あたらないですが。おなじくNDL-OPACによれば、内田, 鉄洲 (1898-1940) ‖ウチダ,テッシュウ ← 与座, 弘晴‖ヨザ,コウセイ
5)いつか不明な書き方。
6)「まもなく」後。
もう答えでたかしら。
これを再度くみなおしていくと。
1)いつか不明、2)昭和前期、3)刀江書院時代?、4)昭和9年、5)いつか不明
と5つの文がならんで、「まもなく」自殺したという6)が書かれている。
自殺したのが戦後のことであれば、1)〜5)のうち、明確に戦前ともくされる3つを間違い、誤解とせねばならない一方で、明確に戦後とかんがえられるものは、ひとつもない。
いっぽうで、6)の「自殺」は、1)〜5)のいづれかの「まもなく」後なわけである。
とゆーことは。

高橋新吉は、関根の自殺を戦前のこととして語っている

(×o×)。
でも、そう考えればどれも自然な記述になるじゃないですか(゚∀゚ )アヒャ じつは高橋の記述は、どれもこれも戦前の話だったのである。これがなにを意味するかといえば。(この項おわり)

追記(2011.10.2)

オタどんが4年ぶりにこのエントリに言及しちくれたので、上記、この項おわり、のつづきをひとこと。
結論だけど、自殺説の唯一の確からしい文献的根拠が、実は戦前についての回顧文だったんで、戦後の関根の活躍を知っとる我々には、自殺説を間違いとして棄却せざるをえんということである。
もし、ほんたうに、宮澤賢治春と修羅』初版本を山ほどゾッキに出しちった関根喜太郎の最後を知りたければ、戦後の住所をもとに調査するとよろし(=゚ω゚=)