山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

龍馬街道⑤熊本・四時軒

海舟は熊本城を熊城と記している。
去年の九州弾丸ツアーの際に熊本はかなり観てまわったので、今回はスル―のつもりで外港へと急いでいると、左・四時軒(横井小楠宅)4Kとの表示。
4時にはオーシャンアローの乗船受付が始まる。これからだと、駆け足で拝観して何とか間に合う。
ところで横井小楠とは何者かと言えば、
1809〜1869(文化6〜明治2)本名横井平四郎。

熊本城下、内坪井に生まれる。開国論を唱える思想家として知られる。安政5年から文久3年にかけて、越前藩に招かれた。藩主、松平春嶽の参謀として藩政改革をすすめる。

その後、松平春嶽の政治総裁職の顧問として、「国是七条」を建議し、参勤交代制の廃止など、幕政の改革を進めるが、横井小楠襲撃の、いわゆる「士道忘却事件」で、肥後藩より士籍剥奪の処分を受け、志半ばで、肥後沼山津の「四時軒」へ引きこもる。

維新後は、士籍を回復され、新政府の参与(国務大臣)として登用され たが、明治2年、京都で、尊攘派浪士に暗殺された。

ぺリーの来航、ロシアやイギリスなどによる条約締結の要求、尊王攘夷運動の広がりの中で、幕府の閉塞状況を、世界的な情況の中で、捉え直そうとした。その開明さは、勝海舟坂本竜馬らに影響を与えたが、肥後藩では却って危険視されたのか、重用されなかった。

だそうで、勝がわざわざ龍馬子を面談に行かせたのを含めて、龍馬はここ沼山津・四時軒を3度訪れている。
おまけに、長崎よりの帰りに再び立ち寄り小楠の養子・横井佐平太、義弟・横井大平、肥後藩士・岩男内蔵之允3名を神戸海軍操練所生徒として預かっている。

額・四時軒は松平春獄公書。
 
龍馬と小楠が面談した四時軒の客間。当時そのままとか。

45年来の怨念か

一年下、17回亀井貫一郎君は現役の頃はプレーイングマネージャーで、我が同期の名マネージャー・則君と同じ西舞子・石川家の下宿人だった。
卒業後郷里の名古屋・富士パンに勤務、たしか支配人との名刺をもらったことが有る。いまも系列の保険会社にお勤めとか。
その亀井君が去年の80周年総会に参加以来、中部地方のOB会の幹事も務め始めるなど積極的に淡水サッカーに協力を頂くようになった。
今回も私の横に席を取り、なにやらもじもじ。というのも、現役のころから分かっていたことだが、どうも私に並々ならぬ怨念と遺恨を持ち続けているらしい。
私に身に覚えが有るかと聞かれれば、勿論個人的な経緯は皆無で、専らサッカー部でのこととなる。
となれば練習時の個人的な行きがかりが有ったのかどうなのか。私が4回生になって主将を仰せつかってから、人変わりしたように激しいトレーニングにのめりこんだのは事実だが、そのあおりを食ってしんどい思いをしたのは部員全員。
貫一郎一人を攻めた覚えはない。有るとすればリーグ戦後半、レギュラー負傷のため、サイドハーフに起用しての試合中、私の叱咤激励・罵詈雑言の洗礼を受けたかもしれないな。
今も、ビールを煽りながら、小声で[津野さんの葬式には必ず行きますから、呼んでくださいよ。」を繰り返す。
叶わんな、俺が死んだら君を呼べないよと答えながらも、なにやら淀んでいる怨念の深さに驚かされた。
こうなりゃ意地でも貫一郎より先には死ねないな。