続篇?

Stephen Bates “The Catcher in the Rye 'sequel' to be published” http://www.guardian.co.uk/books/2011/jan/12/catcher-rye-sequel-jd-salinger


サリンジャー*1 The Catcher in the Ryeの「続篇」、 60 Years Later: Coming Through the RyeをFrederik Coltingという瑞典の作家がJohn David Californiaという筆名で書き、2009年に瑞典と英国で刊行されたが、サリンジャーが亡くなるちょうど半年前にサリンジャーの弁護士が米国での刊行の差し止めを求めて訴訟を起こした。最近和解が成立したが、それによると、 The Catcher in the Rye著作権が切れるまで(50年後?)、 60 Years Later: Coming Through the Ryeを合衆国及びカナダで刊行することはできないが、その他の国で刊行することはかまわない。但し、その際にサリンジャー或いはオリジナルの The Catcher in the Ryeに言及してはならない。既に6か国の出版社が関心を示しているという。この小説は、76歳になったホールデン・コールフィールドが老人ホームから脱走して紐育を彷徨うという筋であるらしい。

『水の眠り 灰の夢』など

CDを買う。

Indigo Girls Despite Our Differences

Despite Our Differences

Despite Our Differences

Jonathan Richman Not So Much To Be Loved As To Love
Not So Much to Be Loved As to Love

Not So Much to Be Loved As to Love

Elton John and Leon Russell The Union
Union

Union

また、「牛心」*1で古本。桐野夏生『水の眠り 灰の夢』(文春文庫、1998)。

水の眠り 灰の夢 (文春文庫)

水の眠り 灰の夢 (文春文庫)

話す量だけの問題か

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061128/1164681625 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090109/1231466496 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090805/1249478075 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090816/1250438039 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100604/1275668904とかに関係あるか。

Alix Spiegel “Closing The Achievement Gap With Baby Talkhttp://www.npr.org/2011/01/10/132740565/closing-the-achievement-gap-with-baby-talk


発達心理学者のBetty HartとTodd Risleyの研究の話。この記事に言及している佐川明美「学力の差は48百万語対13百万語の差」*1から引用してみる;


プロフェッショナルの家庭では、一日あたり子供が耳にする単語数は2,100に対し、貧しい家庭の子供が耳にする単語数は600。子供が4歳に達する頃には、その数は48百万語対13百万語の差になる。この研究によれば、、幼児の頃にどんな言葉にふれたか、というより、どれだけ多くの言葉にふれたかが、それ以降の学力の差になって表れるのだという。
因みに、「貧しい家庭」は英語ではwelfare home。生活保護受給世帯という感じか。
たしかに頷いてしまう。ただちょっと考えてみる。こうしたことは、かなり以前から言語社会学においては、 例えばBasil Bernstein*2によってelaborated codeとrestricted codeの問題*3として論じられていたことだと思う。上の記事では、幼児が聞く言葉の数に何故格差ができるのかということには言及されていない。これは、貧しい家では子どもにかまっている暇がないということだけではなく、育児というか大人と子どもとのコミュニケーションに関する〈文化〉の差異に関係しているのではないか。ピーター&ブリジット・バーガーの『バーガー社会学』第5章「家族」では、Herbert GansのThe Urban Villagersで描かれたボストンの白人労働者階級家族とJ. R. SeeleyらのCrestwood Heightsで描かれたトロントのアッパー・ミドル階級の家族が採り上げられている(pp.108-113)。この2つのタイプの家族の差異は様々あるのだが、「しつけ」について言えば、白人労働者階級では、子どもが何かしたらとにかく四の五のいわないで引っ叩く。それに対して、アッパー・ミドルでは、何処が悪いのか、何故悪いのかを理詰めで「説得」する。Betty HartとTodd Risleyが見出した「単語数」の格差は、こうしたコミュニケーションの仕方の差異に関係しているのではないか。
バーガー社会学

バーガー社会学

ところで、バーガー夫妻はオスカー・ルイスのいう「貧困の文化」*4の典型とされる「合衆国の黒人家庭」について、社会学者や評論家が「黒人家族の不安定さや無力さの否定的な意味を強調してきた」ことに対して、「歪められた見解」だと言い捨てる。そして、

もし、ある制度が「役に立たない」というのならば、「どういう目的に役立たない」のかを、常に反問してみなければならない。おそらくこのタイプの家族は、個人を中流階級へ押し上げるという意味では、役に立たないだろう。しかし、自分の住む地域社会に存在する規範を奨励したり、その地域社会に住む人間に情緒的満足を与えるという意味からすれば、非常に役に立つのかもしれない。(p.114)
と述べる。これを踏まえて先を続けてみると、アッパー・ミドル階級の「体罰」よりも理詰めの「説得」を重視し、より大量の言葉を子どもに与える文化を身に着けた子どもの方が学校文化に馴染み易いといえるだろうし、その延長として「プロフェッショナル」のような高収入の職に就く可能性も増大するだろう。その意味では、役に立つといえるだろう。特に、労働者階級の伝統的な熟練労働がすかすかになり、高度な専門職か非熟練の単純労働かという二極化が云々される現在においては。