あなた、取り憑かれていますよ。

つい数ヶ月前はうだるような暑さだったが、いまはすっかり寒くなってしまった。夏には「おれは冬の方が好きだな」とか言っておきながら、冬になるとまったく同じように「おれは夏の方が好きだな」とか言ってしまうものである。そんな風に季節はひとを変えるものであるが、私には夏からずっと気になっていることがある。ある人に「あなた、取り憑かれていますよ。」(大意)と言われたことである。
たぶん多くの人々がそうであるように、私も自分がなにものかに取り憑かれているとは思ってもいなかったので、その言葉は衝撃的なものだった。たんに自分がなにものかによって背後から操られているだけでも十分気持ち悪いのに、「取り憑かれている」というと悪霊とか謎の地球外生命体とかを連想してしまい、なおさら気持ち悪い。もしかしたら私は地球侵略をもくろむナントカ星人の操り人形なのだろうか。
「取り憑かれている」はわれわれに不気味な印象を与える。だがフロイトによれば、不気味なものとは、かつてわれわれにとって親しかったものであるということだ。「取り憑かれている」がわれわれにとって親しかったとはどういうことだろうか。


ところで、「取り憑かれている」の能動態である「取り憑いている」はわれわれにどのような印象を与えるだろう。日々を暮らすわれわれにとっての「取り憑いている」はなによりもテレビで見るモノマネではないだろうか。そしてモノマネはわれわれを楽しい気分にさせてくれるものである。「取り憑かれている」と「取り憑いている」はわれわれに与える印象も正反対なのだ。ある人の言葉によって喚起された私自身の不気味さをなんとかするためにも、ちょっとモノマネについて考えてみよう。
モノマネに関して最近興味深かったのは、一人の人間が同時に複数の人間のモノマネをすることが可能であるということだ。みっちーという芸人が、福山雅治と小島よしおのモノマネを同時にしているところを見たことがある。それがおもしろいかどうかは別としても、興味深いのは、われわれがそれを見て、みっちーが福山雅治と小島よしおという二人の人間のモノマネを同時にしていることを理解できるということである。われわれはいかしてこの状況を理解しているのだろうか。
一人ずつ考えてみよう。みっちーが小島よしおのモノマネをしているのだとわれわれが理解できるのは、間違いなくみっちーが裸にブーメランパンツで小島よしおのネタを真似ているからである。同様に、みっちーが福山雅治のモノマネをしているのだとわれわれが理解できるのは、みっちーが福山雅治の声なり仕草なりを真似ているからである。つまり、みっちーが福山雅治と小島よしおの二人のモノマネを同時にしているのだとわれわれが理解できるのは、みっちーが福山雅治と小島よしおのそれぞれの特徴的な部分を同時に真似ているからである。そんなの当たり前じゃないかと思うかもしれないが、われわれがここから引き出すべき結論はそんなに当たり前なものではない。それは「主体とは部分である」というものだ。
似顔絵を描くのが得意な人の絵を見ていて思うのは、彼の描く似顔絵が写真のように本物にそっくりというわけではなく、描く対象の特徴的な部分を的確に捉え表現しているということである。モノマネも同じことなのだ。人間性とか全人的などという言葉があるように、われわれはふつうひとりの人間の全体といったようなものを見ることができると思っている。だがわれわれが見ているのはあくまでも部分である。本当は部分しか見えていないのに、全体が見ているような気になっているのである。だからこそ彼女に「わたしのどこが好き?」と聞かれたとき、「全体的に。」という回答が模範的なものになるのである。なぜならばフロイトによれば、愛とは対象の過大評価だからである。「全体的に。」と答えることによって、彼氏は「君のことが好きだ。」と言っているのである。もしも彼氏が次々と好きなところを挙げてくれるとしたら要注意である。それは愛ではなく、フェティシズムである。もちろんフェティッシュとして愛されたいのならそれで問題ない。
あらかじめ主体が存在し、その部分的なあらわれとして服装や声や仕草という行為があるのではない。その逆である。ドゥルーズラカンあるいは精神分析を批判して「器官なき身体」という言葉を提示したが、ジジェクがそれに返した言葉は「身体なき器官」である。われわれもこれに倣って「主体なき行為」とか「主語なき動詞」とか言うべきかもしれない。バラバラな行為が主体において統御されているという幻想をつくりだすことこそ自我の機能なのである。
主体とは部分である。福山雅治と小島よしおの二人を同時にモノマネしている瞬間、みっちーはある意味彼ら自身になっているのである。織田裕二が山本高広にモノマネ禁止令を出すのも無理はないだ。モノマネとはなにものかになることなのである。これは同一化にほかならない。それがモノマネであるのは、あくまでネタとして瞬間的にやっているからにすぎない。
われわれはつねに誰かに同一化している。これは前回考えたことである。同一化の対象を次々と取り替え、つねに自己否定していく弁証法的な運動においてのみ、われわれは主体であることができるのである。誰もが実感しているようにこれはしんどいことである。
われわれがモノマネを見ておもしろいのは、芸人がわれわれの代わりに同一化してくれるからではないだろうか。それによって瞬間的に宙に浮いたエネルギーが、われわれにおもしろいという快を感じさせるのではないだろうか。おそらくこれは『ゆく年くる年』のよさと同じことである。民放各社が競って年越し番組に力を入れているにもかかわらず、相変わらず『ゆく年くる年』が一定に人気を保持しているのは、たんに紅白の後そのままチャンネルを変えないからではない。それは、自分の代わりに初詣に行ってくれている人々を見るためなのである。彼らのおかげで、われわれは暖かいこたつに入ったまま、酒を飲み新年を祝うことができるのである。


「取り憑いている」が「同一化している」ならば、「取り憑かれている」は「同一化させられている」である。われわれにとって「同一化させられている」とはエディプス・コンプレックスにおける父への同一化の瞬間にほかならない。これも前回考えたことである。「最初かつ最大であり、その後のあらゆる同一化の基礎となる同一化」である父への同一化においては、われわれは「同一化する」ではなくむしろ「同一化される」のであった。主体がはじめて生まれることになる父への同一化は、「私は父である」ではなくて、あくまで「父は私である」からはじまったのである。「私」が同一化の主体であるように見えるのはあくまで事後的な効果なのである。
「取り憑かれている」における不気味さとは、かつて誰もが経験したものである主体が生まれる瞬間から来るのではないだろうか。それは、われわれがわれわれ自身であるためには不可欠であるほど親しいものだったのであり、またそれ故にその後は抑圧されなければならなかったものなのである。
「あなた、取り憑かれていますよ。」と私に言った人に、私は言いたい。「あなたも、取り憑かれていたのかもしれません。しかも私によってです。なぜなら、あなたにはわたしが取り憑かれているように見えたからです。つまり、あなたはわたしに不気味な父の回帰を見たからです。」
ここまで書いてみて思ったが、たしかに私は「取り憑かれている」のかもしれない。不気味である。


湯川