貧乏は何歳まで「正しい」か?

遭難フリーター

 日曜日にシネモンドで鑑賞。
 キヤノンの工場で派遣社員として働く青年・岩淵(監督兼カメラマン兼主演)は、いわゆる「負け組」と呼ばれる最底辺の労働者。月曜から金曜まで時給1,250円でクタクタになるまで働いても、派遣業者にピンハネされて手元には最低限の生活費しか残らない。土日は東京でのアルバイトに費やされ、就職活動や職業訓練といった再チャレンジの機会すらほとんど与えられていない。おそらく、彼らが何らかの成功によって中流以上に上り詰めるのは100%不可能だろう。
 そんな彼が、安物のビデオカメラを使って撮った作品がこれ。公開当初から「現代の蟹工船」などと呼ばれ、海外の映画祭にも招待上映されて話題になっている作品だ。ただ、ちょっと「現代の蟹工船」などというイメージに押し込めてしまうにはもったいないほどのテーマ性にあふれている。
 私の今の境遇はかなり岩淵青年に近い。明日は我が身、といっても言い過ぎではないだろう。ただ、私は取り敢えずは学位を持っているし、理系ということである程度つぶしもきく、実家に帰れば自分の食い扶持を稼ぐ程度の田畑もある。だから、彼らのように早々に飢えることは無い。社会的に見て、彼らほどは「負け組」ではない、と言えるだろう。
 しかし、私と彼らとの間になんの差異があるだろうか?よく、ワーキングプア問題を語る際に、「自己責任」という分かり易い言葉の下に彼らを押し込めて、自分たちの視界から彼らを消し去ってしまう人々がいる。確かに岩淵青年はかなり駄目人間だ。大学四年生の時にろくに就活もせず、しかも多額の借金を抱えている。職安にも行かず、なんとなくアルバイトを転々としている。カイジだったら船に乗る日も近いだろう。ただ、世の「勝ち組」と呼ばれる人よりは彼らと近い位置にいるせいか、私は前述の疑問にぶち当たる。別に理系の大学を選んだのは何となくだし、修士号まで取ったのも別に将来に展望を抱いてのことではない。そもそも駅弁大学で理系の修士なんて、よほどの馬鹿でもない限り取れる。実家がそこそこの規模の農家なのも、別に私のおかげではない。はっきり言って自分の行動や選択に「責任」を感じたり持ったりしたことなんてほとんど無い。これはおそらくほとんどの若者もそうなんじゃないだろうか。少なくとも私たち(これは勝ち組負け組を含むほとんどの同世代の若者のことだ)は、勝ち負けなんていう言葉で人生を括られるほどの勝負にさらされたことはないはずだ。それにも関わらず、私たちの中のかなりの人数(約三割!)は「自己責任」の言葉の下に、おおよそ奴隷のような暮らしを社会から押しつけられている。そんな中で、岩淵監督は「じゃあ、オレは何に負けたんだ?オレは誰の奴隷なんだ?」と自問自答しながらカメラを回す。
 私がこの映画に感心したのは、結構映画として見られる点だ。少なくともその辺の素人のフィルムの水準ではない。滲み出る生活感に、「なんだかんだで自分のせいでもある」という静かな諦念がフィルムの通底音として流れていて、見ていて退屈はしない。確かに全てに共感できるわけではないが、「おいおい、こりゃあヤベエ。笑えねえ」というシーンもあって、見ていて背筋が少し寒くなる映画だ。ただ、思えば岩淵監督はこの成功によって映像作家として成り上がるきっかけを得たわけで、アイデア一つで逆転ホームランを打つこともできる、という勇気を感じることもできた。
 あと、最後にもう一つ。これは私がワーキングプア問題に触れるといつも思うことだが、貧乏が正しい*1のは何歳までだろうか? 日本では、よく若い頃の貧乏談義がノスタルジーとともに微笑ましいエピソードとして語られる。これは、若い頃は貧しいが、清く貧しく頑張ることでいつか成功し、家庭を得るという人生設計が有効だった頃の名残に過ぎない。そのモデルが崩れた今、一体貧乏は何歳まで「正しく微笑ましい」ものなのだろうか?
参考

現代の貧困―ワーキングプア/ホームレス/生活保護 (ちくま新書)

現代の貧困―ワーキングプア/ホームレス/生活保護 (ちくま新書)

*1:ここでの「正しい」というのは、社会的に存在が容認されている、の意味。日本では貧乏人の存在が容認されすぎていると思う。例えば、南米やアフリカなどの、義務教育すら満足に受けずサッカー以外の選択肢がそもそも与えられていないサッカー少年を引き合いに出し、「日本の若い選手はハングリー精神が足りない」などと発言するコメンテーターが後を絶たない。その無神経さはどこから来るのだろうか?ハングリーであることと、ハングリーにならざるを得ないこととは別問題だと思うのだが。まあ、その辺はあしたのジョー2の金竜飛編を観てくれ、ということで。