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2017-03-21

[]三月のライオン


漫画原作実写映画は、酷評されることが多い。

原作とおりの展開だと筋が読まれてしまうので

話をいじることがままある。

いじりすぎて原作雰囲気を壊したり、

余計な解釈で持ち味を損なったりする映画

やたらと目に付く。


幸いにして三月のライオンは、

銀幕から

丁寧に原作を読み込んでいる印象を受けた。

少なくても原作を読んだファンが

がっかりすることはないとおもう、



ともすれば、主人公のモノローグが多く

暗くなりがちな物語

有村架純が華のある演技で彩っているのが

良かったと思う。

2017-03-18

[][]北ニケンクワヤショウガアレバ


フットボールの熱源」(日本経済新聞 2017年3月15日

東日本大震災被災者には「そっとしておいてほしい」という思いもある。それがわかっているから、J3福島スタッフは営業中やホームタウン活動の中で「震災に触れていいのだろうか」と悩み、鈴木勇人代表に意見を求めたものもいる。


今年は震災から6年の追悼の日とJ3の開幕の華やかな日が重なった。そこて迷いが生じた。「震災に触れるとしたら、どう切り出し、どんな言葉を使えばいいのか」「県外出身自分震災を語る資格はあるのか」


鈴木代表は明確に答えた。「前を向いていきましょうと発信するのが、このクラブ役割だと思う」。自身、3月11日公式サイトで決意を表明している。「私たちでにできること」として「全力で闘う」「決してあきらめない」「信じ合う」「支え合う」「一つになる」と列記した。


開幕戦を前に、田坂和昭監督鈴木代表クラブの歴史を選手に語ってほしいと依頼した。2011年に新会社を設立した1ヶ月後に震災が襲った。選手の退団、スポンサー撤退が相次ぎ、クラブは存続の危機に陥った。そんな中、選手たちが避難所の子どもたちとボールを蹴り始めた。子どもたちに笑顔が戻り、親の感謝が激励に変わり、クラブは東北社会人リーグの戦いを始めた。震災後、クラブ存在意義が明確になった。


3月11日開幕戦勝利を収めた田坂監督は、むせび泣き、言葉をしぼり出した。「私は(広島出身だが)福島に来たからには福島人間です。いまだに苦しんでいる方がたくさんいるのも目にしています。我々はひた向きに戦い、福島の人に勇気を与えなくてならない。きょうほど勝たなくてはいけないと思ったことはない」。3月11日が巡ってくるたびに、被災地にあるクラブは原点に戻り、存在意義を確認する。(吉田誠一)



【東日本大震災6年】大川小、児童74人と教職員10人死亡・不明 悲劇は裁判で増幅された - 産経ニュース


大川小の悲劇

児童74人と教職員10人が死亡・行方不明となった。

教育行政史上、最大の惨事といわれる。

教員は大津波の襲来を予見しながら、

児童安全な裏山に避難させず、

避難場所として不適当な河川堤防に引率した」

判決教員の過失を認めた。

判決を報じるテレビニュースを見て、

教員の遺族の一人は動悸(どうき)を抑えられなかった。


 〈学校・先生断罪!!〉

勝訴した原告の親の掲げる横断幕

テレビ画面を通じて目に飛び込む。

めまいがした。吐き気も。

次の日になっても治まらず、医者から薬をもらった。

先生に殺されたようなものだ」

教員の遺族は痛言を浴び、

肩身の狭い思いをしている。

同僚の遺族は身内に代わって

受け持ちの子の家に焼香に行き、門前払いされた。

肩をすくめ、息を殺して暮らす。

自宅の仏壇に目をやる。

大川小の教壇に立った身内は

黒縁の写真に納まっている。

死者は児童だけではない。

教員の遺族として子供たちの命を

守れなかった責任は感じている。

それでも、あの極限状態で最善を尽くしたと信じたい。

教員当事者であって当事者でない。

裁判で被告は石巻市と宮城県だ。

教員は裁判上「訴外者」にすぎない。

主体的に関与できず、

身内の代弁をしようとしても限りがある。

1審で教員の遺族が法廷証言台に立つことはなかった。

訴外者は疎外感を味わう。


                ■   ■


裁判に縁のない一般人なら普通「裁判は万能」と思う。

「裁判に持ち込めば全てが解決できる」と。

裁判の当事者になった途端、それが幻想だったことを知る。

原告児童の遺族もそうだった。

親は裁判に事案の全容解明を求めた。

なぜ先生は裏山でなく、川に引率したのか。

どうして校庭に長時間待機させたのか。

最も知りたいことがそれまでの市教委との交渉、

検証委員会の調査で解き明かされなかった。

ストレスがたまる。頼みの綱として法的手段に打って出た。

だが、裁判の争点は津波の襲来を教員

予見できたかどうかに絞られた。

親の関心の的は置き去りにされ、

判決でも明らかにされなかった。

勝訴してももやもやが晴れない。達成感がない。


「結局、子は帰ってこない」

やるせない思いだけが募った。

車を購入したら「賠償金で買ったんだろ」。

外で酒を飲んだら

「賠償金で飲む一杯はさぞかしうまいだろうな」。

 親もつらい思いをしている。


                ■   ■


 大川小の裁判は関わる人すべてを苦しませている。



数日前、おくればせならが2011年

台湾で「貴方にとって最も嬉しいニュース」という

アンケートの結果を知った。

トップになったニュース

東日本大震災への募金額が国別で一位となり

日本から感謝されたことが嬉しかった、というものだった。


J3福島監督に田坂氏が就いていたのを

日経新聞で知った。

震災時にラグビークラブ・釜石シーウェィブスに

NZやオーストラリアから来ていたアラティニや

ファーディーの言葉、「ここが自分の町だから」が

田坂監督に重なる。


震災にまつわる美談も多くがあるが

それでも悲劇を覆うには至らない。

福島から来た子供たちを菌呼ばわりする陰湿で不快な

出来事も伝えられている。


感謝されて嬉しいと喜ぶ人間

福島に支えようとする人間

そして、悲劇を増幅しようとする人間との差は

どこからくるだろう。

傍観者立場発言をする資格があるならば

それは、前を向く者、後ろを振り返る者の差、

ではないかと思う。



裁判に至る経過を仄聞*1するかぎり

訴訟は已む得ない部分もあるようだが

先生断罪する横断幕同意することはできない。

被害者正義絶対であり

その拳を振りかざせば、真実は置き去りにされ

永久に陽の目を見ることはない。


人々を苦しめるのは、偏見、誤解ばかりではない。

固執頑迷ステレオタイプ正義が人を傷つける。

凍りついた時間が動きだすことを

願わずにはいられない。

2017-02-26

[]情熱と知性のはざまで



The Serenity Prayer

God, grant me the serenity

to accept the things I cannot change,

courage to change the things I can,

and wisdom to know the difference.



神よ

変えることのできるものについて

それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。

変えることのできないものについては

それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。

そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを

識別する知恵を与えたまえ



ラインホールド・ニーバー "The Serenity Prayer"、大木英夫訳)


四十路を半ばを過ぎ、

五十路に辿りつくのもそう遠い日ではない今日この頃

熱くなることも少なくなったと感じる。

多少なりとも浅知恵がついたのかと

ひとりごちる。

2017-01-05

[][]故郷の風に抱かれ、安らかに眠れ


台湾関係のニュースを追っていたら

ふと目に付いた記事があった。

台湾総統就任した蔡英文が、

昨年11月に高雄市の

台湾無名戦士の墓を訪れ

日本兵として、或いは共産党兵士として

戦い亡くなった先人を慰霊したという。



約10年ほど前に高砂義勇隊の功績を

偲んで台湾の有志が築いた碑が、

撤去の危難にさらされたときに

台湾人の方の活躍を遅れ馳せながら知ったが

自身の無知ぶりを改めて恥じる


戦争を望むものはいない。

戦争の悲劇をなくすために

様々な施策が行われているが

この地上から消滅させるに

至っていない。


戦争の悲喜こもごもの想いを

否定することなく

ただ拾い上げることだけが

我にしうる平和への行いである。

無力のかいなを

振りかざすに等しい行為ではあるが

それでも伝えずにはいられない。






「台湾兵を追想し記念する活動」に蔡英文総統が出席│荏苒(じんぜん)として歳月は頽(くず)れ

総統が「台湾兵を追想し記念する活動」に出席

公布日期 中華民國105年11月05日

蔡英文総統今日(5日)午後総統府副秘書長姚人多及び高尾市長陳菊同伴の下、高雄の戦争と平和記念公園に行き「台湾兵を追想し記念する活動」に出席し、台湾の無名の英雄たちを偲び、また記念と反省を通してすべての台湾人に戦争世代の話を深く理解してもらうよう希望した。


総統挨拶全文は以下:


1940年から1950年代、台湾は戦争の中に巻き込まれた。多くの台湾人選択余地なく、自己故郷と親しい人から離れ、最も危険で恐ろしい戦場に入っていかなければならなかった。日本時代、彼らは召集徴兵され従軍し、太平洋戦争の中に深く入らされた。第二次世界大戦集結の後、彼らは国民政府の軍服に変わって、国共内戦に投入された。その後その中の多くの人が現地で解放軍に組み込まれた。北は韓半島、南はニューギニアまで、ある台湾兵は異郷で命を落とし再び帰らず、ある台湾兵は当地にとどまり故郷と数十年切り離された。


またある人はやっと台湾に帰ってきたが、しかし一生戦争の影を引きずっていた。先輩の詩人陳千武が書いた「埋設在南洋,我底死,我忘記帶回來」だ。意味は、表面はいきいきとした人間だがしかしずっと以前に死を経験していると言っている。これが台湾兵の克明な描写だ。しかしこの彼らの人生を変えた経歴、長いこの時代は、台湾社会の主流に理解されることはできなかった。台湾兵の話は台湾社会の中で消えた。多くの苦しみを経て帰ってきた台湾兵にとって、これは最大の悲哀だった。


半生を台湾兵として奔走した許昭栄先輩*1はこの悲哀を纏って人の世を離れ(焼身自殺)、今なお私達の心を揺さぶっている。2008年、私は民進党主席の身分で彼の告別式に参加した、2016年今日、私は総統身分で再びここに来た、私は許昭栄先輩に告げたい、私達は必ずあなたのためにあなたが完成できなかった仕事を完成する。


陳菊市長はずっと台湾兵の権益と歴史記憶の保存を重視してきた。私はこの数年来、彼女が高雄市政府と台湾兵のためになした一切に感謝したい。高雄は曾て台湾兵が出発する港の一つだった、現在、私達はここで彼らの帰るのを迎えたい、彼らを迎えることは私達の歴史になり、彼らを迎えることは台湾人記憶の一部になる。政府は台湾兵の歴史の正義の追求を支持する、同時に、私達がまた覚えておかなくてはいけないのが、第二次世界大戦及び国共内戦に参加した台湾兵は、その相当多くが原住民だった。私は原住民族の移行期の正義の推進を通して、私達が民族の角度からこの歴史を認識し直す助けとなることができるよう希望する。


戦争は家族を離散させ、人生の軌道をねじ曲げ、また友であるはずの人を敵に変えた。私達の前の世代民族を問わず、省籍を問わず、皆曾て烽火の歳月証人になり、皆曾ておおきな時代の流れの中で奮闘し生き抜いた。私達は記念と反省を通してすべての台湾人に戦争世代の話を深く理解できるようにすることを希望する。私はある時台湾社会の集団の記憶が違う時代、違う世代、違う民族経験を含むことができるよう期待している。人々が多元的歴史的観点を受け入れることができる時、台湾社会が真の和解に向かうことができる。私は信じる、これこそが平和の真理だ。


その後、総統無名戦士の碑及び許昭榮先輩に花輪を捧げ、また「高雄市台湾籍老兵ケア文化協会理事長呉祝栄の案内で戦和館を参観した。

*1日本軍志願兵として参加、戦後中華民国軍に技術を必要とされ参加、後台湾独立運動に参加し何度も逮捕投獄される、カナダ亡命を経て帰国元台湾兵の権益確保のため奔走、2008年高雄市の台湾無名戦士記念碑前で焼身自殺。

2016-12-18

[]戦う者の歌が聞こえるか


ミュージカル「レミゼラブル」の

劇中歌「民衆の歌」の日本語版の作詩が、

岩谷時子さんであることともに

マリノスサポーターがちょいちょい

うたっていることをつい最近知った。


越路吹雪マネージャーとしての

女史のイメージから

歌をフランス語版の転詩と

思い込んでいたが

文章を比較するとどうやら

英語版に近いようだ。


単純なメロディーの繰り返しだが

魂が鼓舞されているような

気持ちになる。


時代を越えてうたいつがれる名曲というのは

こういうものなのかもしれない


D

2016-11-30

[][]長距離ランナーの孤独





D



産経新聞に連載している別府育郎氏の

オリンピック関係のコラム

氏の長年にわたって培われた見識と

深い洞察に言添える言葉が見当たらない。


「誰のために走るのか」

「何のために進むのか」

答えを口にできない

己の未熟さを恥じる





http://www.sankei.com/column/print/161122/clm1611220004-c.html

(前略)


やがて京都はフォークソングブームに染まる。茶木もギターを弾き歌を歌うおもしろさを知った。高校3年、同年のフォーク仲間、今江真三郎から「曲をつけてくれ」と詩を渡された。円谷の遺書を題材とする「一人の道」だった。曲なんか作ったことはない。なぜ私だったんだろう。知っているコードを並べて、なんとか作った。


同志社女子大に進み、小林京子フォークデュオピンク・ピクルス」を結成する。長く続ける気はなく、1年間の活動の記念にアルバムを作るが曲が足りず「一人の道」を入れた。シングルカットの際にディレクターが、冒頭の実況を曲の頭に挿入した。


ラジオ深夜放送で人気に火が付いたころには、もう歌っていなかった。円谷の両親に、改めて悲しい思いをさせるかもしれないと考えたのも歌わない理由だった。


歌の世界からは完全に離れていたころ、ロサンゼルス五輪体操メダリスト具志堅幸司がテレビ番組で自らへの人生応援歌に「一人の道」を挙げ、「すり切れるまで聴いて、今持っているのは2枚目」と話すのを聞いた。そんなこともあるんやな、の思いが背中を押した。


2000年、50歳となったのを機に、また歌い出した。さまざまな縁に恵まれて歌っている。歌わされている。


円谷の故郷、福島県須賀川市でも歌った。メキシコ五輪で「円谷君のために走る」と銀メダルを獲得した君原健二は「あの歌、好きです」といってくれた。遺書に「ブドウ液、養命酒美味しゅうございました」と書かれた「喜久造兄」からは「あなたが歌ってくれることで皆が幸吉のことを覚えていてくれる」と礼を言われた。


こうして歌が、存在記憶を紡いでいる。(別府育郎)

2016-10-23

[]夢の翼

翼という文字は、鬼の面を被った人を形どり

畏れることや違ったことを

意味する「異」という文字

鳥の「羽」を組み合わせたものだという。


惟うに翼とは空を飛ぶことを願う

ヒトの想いを表した文字ではないだろうか。

だとすれば、翼という文字

夢の同義語として、あるいは

それを実現する術の代名詞として

用いられるのも宜なるかな。


肉体はさておき、

心は青年のままと嘯きながらも

齢を重ねるごとに

夢という言葉が口にだせなくなる。

夢を失なったわけではない。

可能性を実力にかえて

手にした力と才能が

夢をおいかけた結果として

目の前にあるから

口にする意味がないのである。


だから夢を歩む者が

費やした情熱の大きさを

つい想像してしまう。

過程に思いを馳せ、

流した汗の熱量を考えれば、

使いふるされた言葉しか

思い浮かばないが

それでも称える以外になすべきことはなし。




先日、ビッグサイトセミナー

目にした映像に、

思いがけず感情がこみあがり、

涙腺をゆるませたことに対して

やや言い訳めいてひとりごちる。

D