凡人の幸せ



 北朝鮮から、ずいぶんと物騒な話が聞こえてくる。報道などどれほど信じてよいか分からないものだが、仮に本当の話だとすれば、正に身の毛もよだつような話である。私は、ショスタコーヴィチプロコフィエフに関する話を通して、スターリン時代のソ連の話というのはある程度知識として持っているのだけれど、私がまだそれほど明瞭に政治や世界を認識していなかった時代のことなので、さほどリアルに感じているわけではない。北朝鮮の今回のような話を聞くことによって、独裁者の暴走、自分自身の立場を強固にするために行われる「粛清」の恐ろしさをまざまざと感じるのである。聞くところによれば、連座するであろう人間は万の単位にも上るそうである。正に狂気の沙汰だ。

 信じられないような残忍な新聞報道に接しながら、ふと思い浮かべたのは吉川英治の『新平家物語』だ。平清盛が死に、源平合戦が壇ノ浦で終わった時、大納言・平時忠は捕虜となったが、武士ではなく公卿であったことなどによって死罪を免れ、最終的に能登に配流となった。12巻にも及ぶ大作のほとんど最後、その後の時忠に関する部分である。

「時忠自身は、『今は、なんのわずいらいもない晩年の閑地を賜うたにひとしいもの』と、在るがままの日を、天地の恩と享受している風に見える。」

と、作者は書く。高い地位にあって権力を持っていれば、それに伴っていろいろな気苦労もあるのだろう。わずかこれだけの一節ながら、時忠の爽やかな解放感がとてもよく伝わってくる印象的な一節である。作者は、後白河法皇をはじめ、時忠のかつての才腕と豪気を知る人々は、時忠が再び世に出る日を密かに期待していたかも知れないことを指摘しつつ、「時忠に再びの野望がないことは、義経に、武門の修羅道を二度と行く気が無いのと同じであった」とも付け加える。

 張成沢氏が身柄を拘束される様子を目の当たりにし、その後、彼の処遇についての情報を耳にするたび、他の北朝鮮高官は気が気でないことだろう。地位などもう要らないから、安心して暮らせる日常が欲しいと痛切に思っているのではないか。

 物事には必ず正負の二側面があることは、日頃の様々なことを見ていて思うのであるが、正の側面が大きければ大きいほど、負の側面もまた大きくなるに違いない。北朝鮮という独裁国家で、頂点またはそれに近い部分にいる人というのは、とてつもない権力と豪勢な生活とを享受しているに違いないが、それは失脚の危機と紙一重であり、一転して権力を失った瞬間に、凡人の地位をはるかに通り越して、正に奈落の底へと突き落とされるのだ。このことは、一個人の身の上についてだけではなく、国家についても言えるかも知れない。その場合、日本という強国に暮らすことは危うい。

 平凡な日常生活のありがたさ、ということがあるけれど、平凡な立場のありがたさというものは、それと表裏一体である。大金持ちになる必要も、有名になる必要も、大きな権力を手に入れる必要もない。市井に生きる一凡人として、足ることを知り、つましく静かな生活を送ることができることこそは幸せである。