このカラクリはどこにあるか。私は、それが上に示したような日本の教育システムの洗脳性にあると言って良いと思っている。国力が貧しく、ヨーロッパに比べて近代化が立ち遅れた日本が世界に追いつくためには、極論すれば国民を騙してでも洗脳してでも勉強させる必要があった。そしてそれが今も続いているということではないのか。学歴信仰、教師=聖職者という祭り上げ、身分制の破壊と立身出世主義、管理主義詰め込み教育……様々に歪んだ近代日本の教育の風景の原点はおそらくそこに端を発し、未だにそこを抜け出せていない。どうしてやめないのか? それは簡単なことで、それが「最も安くて効果が上がる」ことは確かに事実だからだ。ただしそれが、人間の人間性とその権利、つまり人権に対する徹底的な侮蔑であることは言うまでもない。

おもしろいエントリをハテブ経由で見つけました。
とある界隈で話題になっている、「大学はK○○○」ということがよくまとまっているエントリかと思います。
それとは別に「フューチャリスト宣言」もすごいことになっているのですが、これはまた別途書く予定。

松岡農水大臣の自死

戦後昭和史に残る汚点を安倍政権は産み出したことになる。
ここまで悲劇的な政治を産み出す、安倍政権のポジショニングとはいかがなものなのか。

確かに、尋常ではない水道費の言い逃れだった。だが、もともとの金額といえば、たかだか500万に過ぎない。いやもちろん、その金額が少ないと言っているわけではない。ただ、今日の日本であまた行われている(と思われる)不正の金額として、500万が多いかどうかと言われたら、何とも言えない。そして、その釈明の方法は明らかに失敗だった。もちろん、それに加えて緑資源機構献金の問題がクローズアップされようかという矢先の出来事である。
しかし、過去に闇から闇へ消え去ったであろう様々な疑惑に比して、その規模は現職閣僚の自死というショックを与えるに十分な疑惑だったかというと、疑問である。

結局、何が疑問かというと、官邸の情報管理能力、というか政治に最も重要な先見性が。自分の内閣から自殺者を出すようなある種の混沌を、構造的にはらんでいるといったら言い過ぎか。

いうまでもなく、その前提にはオール自民党、まさに挙党態勢で総理に推挙された安倍支持基盤の多様さが伏線になっている。
当初「フレッシュ」「清潔」「行動力」イメージの安倍さんが、一番爆弾を抱え、危なそうな農水省に松岡氏を配するというその判断が、客観的に見ると、一つの謎である。その時点で十分地雷な感じ。

小泉劇場で、ステージ型政局をあれほど経験した安倍さんが、そのような判断をしたのは、古い自民党のなせる影響力としか思えない。
古い自民党の政治力は昔とは異なってきている。疑惑に対してコントロールできる勢力は、いくら農水省の大臣になっても期待できないのではないか。
もう片方の事実として、疑惑に対する国民の視線は厳しい。緑資源機構の疑惑がもし事実だとすれば、参院選には決定的なダメージになりかねない。

そのような、現実と、これまでの自民党のやり方、あるいはその権力的な妄想との様々なクレバス(裂け目)に、松岡大臣は陥ってしまったような印象がある。

お亡くなりになった大臣には、心よりご冥福をお祈りします。
個人的には清濁併せのむのも政治家の一つの能力かとは思うが、それも適材適所があってのこと。
今回の事態を招いた日本政治が残念でならない。

医師不足

○  昭和50年代後半からは医師の需給に関する議論が始まり、昭和57年には、医師については、全体として過剰を招かないように配意し、適正な水準となるよう合理的な養成計画の確立について政府部内において検討を進めることが閣議決定(「今後における行政改革の具体化方策について」)された。昭和61年には、厚生省の「将来の医師需給に関する検討委員会」の最終意見において、平成37年には医師の10パーセントが過剰になるとの需給検討に基づいて、平成7年を目途に医師の新規参入を10パーセント程度削減するとの提言がなされた。また、昭和62年に文部省の「医学教育の改善に関する調査研究協力者会議」の最終まとめにおいて、平成7年に新たに医師になる者を10パーセント程度抑制することを目標として、国公私立大学を通じて入学者数の削減等の措置を講じることが提言された。

僻地医療が問題になっているニュースを見るたびに思う。
一環して医師を減らしてきたのは政策的コントロールの結果にすぎない。

所詮政府が需要と供給をコントロールしようとするとこのような事になるという見本ではないか。

合理的には、能力に応じた柔軟な資格制度があり、社会的コストに応じて養成する機関・手段が多様になればよい。たとえば、比較的低コストで養成できる准医師制度を創設する。

医師がいない環境では、医師の代わりになる。あるいはそのような人材が増えれば、産業医としてより密接に企業内雇用をすすめていくこともできる。
また、医師免許の認定に地域限定を導入するなど、地域間格差を是正する方法はいくらでもある。もっと言えば、診療科間の偏在が問題なのであれば、診療科毎の免許にすれば良かろう。

弁護士と司法試験(ロースクール)の話も同様の構造なのだが、職能団体が自らの専門性を希少化しようとする政治的圧力の結果が、現状を生み出している(ようにしか見えない)。

もう大学の定員を社会的政策決定におけるパラメータに使うような愚策はやめにしたらどうか。
これは現状のすべての大学についていえることだと思うのだが。