「女。京大生。」騒動について一言。

  1. http://d.hatena.ne.jp/iammg/20080730/1217359666
  2. 女。京大生からはそうみえているのか - 雑種路線でいこう
  3. 404 Blog Not Found:学校ってバカを治療してくれんのか*1
  4. http://d.hatena.ne.jp/iammg/20080730/1217439217
  5. はてなブックマーク - 没落エリートの出現―ビジネス社会から疎外される高学歴就職難民たちー - 女。京大生の日記。
  6. はてなブックマーク - 女。京大生からはそうみえているのか - 雑種路線でいこう
  7. はてなブックマーク - 404 Blog Not Found:学校ってバカを治療してくれんのか
  8. はてなブックマーク - 弾氏への応答 - 女。京大生の日記。

1のエントリ内容については、個人的に疑問に思ってしまう部分が数多く存在しますが、経験が多数例なのか少数例なのか、レギュラー・ケース化しつつある問題なのかイレギュラーなケースで社会的な対処ではなく個別的対処で済む問題なのか、そのあたりをほとんど精査することなく、述べられている「問題」を直接「社会全体の問題」と断言してしまった点が一番の問題でしょう。まず結論ありきで述べられており、それに半ば「予想外の事象を自分に納得させるために」書かれたような文章となってしまっていることは、その印象をますます強くしてしまっています。あくまでも問題を社会科学的な観点から論じている以上、「高学歴就職難民」が現代の産物であることを何らかの形で説明すべきでした。でないと、愚痴をはやりの言説に照らし合わせることで、想定外の事象を自らに納得させたかった……と捉えられても、何ら文句を言うことは出来ません。

ところで、私は、人生において最も必要なのは、現状を分析する能力とその分析結果に対し適切な論理的応答を行う能力(現状分析能力と論理的思考能力)であると考えております。現在の学校教育は体系的にこの両者を養うために存在しており、その内容の如何を問いません。例えば、古文や英語は、語学学習としての側面を持ちながら、実質的には論理学的な側面をも有しているように、小中高で行われている教育はほとんどがこの2つの能力に繋がっております。
たとえ学校のレールを降りてしまった人間でも、この両者が存在していれば何ら問題はありません。逆に、学校制度に適合していた人間でも、この二者を全く有していないならば、それは問題です。また、社会的な問題であることは、これらの思考能力の有無を学校歴の有無に背負わせる形で判断している現状*2であり、フォーディズム・ポストフォーディズムの問題とは無関係であると私は思います。
但しこの二者が有ればそのまま生きていける、というわけでは有りません。社会では学校と異なり他にも様々な能力が要請されています。

その中で、個人や社会が担うべき行為までもを教育に求めることは、はっきり言って愚問です。教育はあくまでも「現状分析能力」と「論理的考察能力」の二者の育成と基礎知識の植え付けを図るものであって、他の何物でもありません。ほかのもの、例えばコミュニケーション能力や集団性などが学校を通じて身についていたとしても、それは学校を通じて身についただけのことであって(つまり学校というのが結果的にそういうものを身につける場所としても機能し、その延長としてそれも学校の一つの機能であるかのようにされたのであって)、学校本来の役割から生まれたものでは有りません。いうならば、学校というのが「小さな社会」としての性格を有しており、それがふたつの能力以外にも多くを伝達する装置となっていたがために、本来の役割を超えて重んじられてしまい、最終的にそれも学校の役割のひとつであるかのようにされてしまっただけで、学校の持つべき本質的な役割について考えると、記事1は「巨大化した『学校』の偽りの姿を本来の姿として捉えてしまうこと自体が可笑しい」ということになります。特に大学はまだまだ「本来の学校」の姿に近いものですから、それに対して「小中高のように様々な役割を背負い巨大化せよ」ということは、一見して理にかなっておりますが、実は「小中高こそが巨大化しすぎてしまった」が正しいのです*3

さて、小飼氏はここで「バカ」という概念を持ちだしていますが、私はそれを、「(京都大学に行っているくせに)分析能力・論理的思考能力がないとは何事か」というメッセージだと受け取りました。しかし実際のところ、小飼氏も記事1(元記事)と同じ論理飛躍(あるいは結果先行)や「押しつけ」を行っており、ここに「論理的思考が行われていない」と言うほか有りません。よって、私は、記事3が記事1を「バカだ」といって断罪する事は出来ないと考えます。また、記事2と記事4についても、言及元のメッセージを的確に読み取っているとは思えない部分が散見出来ます。この点で、少々手荒ではありますが、2と4の記事も「分析能力がない」と言わざるを得ません。結局、誰も彼女を非難することなど出来ないのではないか、と思ってしまいます。彼女が内包している問題は、誰もが同じく内包している問題であり、それこそが教育の解決すべき根本的な問題なのです。

教育はどうあるべきか?

教育は変わるべきなのか。私は内容について変えるべきだとは思いませんが、その本来の役割を果たせていないことは明確であると思います。ただし、それは教育が本来の役割ではなく別の方向を向いている事にあって、今一度「分析能力」と「論理的思考能力」という二軸を知識の授与という側面の中でどのように最大限の育成すべきか吟味すること、それが教育に本来求められている議論であると思わずにはいられません。

他にも色々と書こうと思いましたが、詰め込みすぎはかえって良くないのでこの辺で。ただ最後に言いたいのは、小飼氏による「社会全体も俺のようにマッチョであるべきだ」というマッチョイズムの押しつけに対し抗うid:iammg氏の姿勢は見習うべき点も多い、ということです。「ようは勇気がないんでしょ?」の壁を、彼女は易々と越えてしまったわけで。あと、教育は教育であり、ビジネスの子供ではありません!教育を変えろというのが「ビジネスに最適化された教育を行え」ということなら、僕はそれを支持することは全く出来ません!(これが一番言いたいことです)それは上に書いた通り、教育というのは根本的な能力を育成すべき存在であるからです。

それでは、この辺で。

*1:余談ではあるが、このエントリは全てCV:茅原実里で読むと南千秋が朗読しているように感じられる

*2:昔のことは知りませんが、今の知識偏重型の入試制度で、学校本来の目的である「現状分析能力」と「論理的思考能力」が正しく身についているのかを判断することは、ほとんど出来ないと思います。にもかかわらず、知識偏重型入試制度の結果がさもふたつの能力の証明書のように機能しているのです。

*3:私は、集団性やコミュニケーション能力の育成は、結果的に地域社会から学校に移管されましたが、今、学校はそれを行う能力を失い、本来の姿に回帰しようとしていると考えています。新たな移管場所を教育に求める事は同じ過ちを繰り返すことになりますから、それこそ学校と地域社会が「どちら」の論理ではなく、「学校が産み、社会が育てる」という形で、「どちらとも」の論理で養うか、家庭や学童保育のような機関で養っていくべきものであるとは思います