仲間内とジンケン

にゃんか、ジンケンの話がどーだとかこーだとか。
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「人権」っていつから信仰の対象になったんだっけ? - 想像力はベッドルームと路上から
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メタレベルにあるものは、その有用性において【ツールとして】使えばいいという話なのではにゃーかと。ジンケンとかカガクとか相対主義ってのがメタレベルにあるツールにゃんね。これらは、個々のニンゲンをシヤワセにしてくれる「意味」を生み出してくれるわけではにゃー。
正しいものに意味などない。


と、個にゃん的なメモとしてはここまで。
以下は、ジンケンつれづれ。


権力というのは、どのような権力であっても、構成員の権利を保全するためにこそその権力を行使することが認められるもの、というのがタテマエですにゃ。構成員の権利を保全しない・できない権力にはその存在意義はにゃー。古今東西、ここのところには例外はにゃーだろうと思われますにゃ。部族の族長だろうがヤクザの親分であろうが幕府だろうが、構成員の権利に無頓着であれば権力を維持することはできにゃーわけだ。つまり、構成員の権利というのは、権力にとってはもっともリアルな問題であるはず。


権力にとってこそ、構成員の権利がリアルな問題であるはずなのに、ことジンケンにおいてはそれがリアルと感じられていなさそうなのがオモチロイ。


もともと、僕たちニンゲンという生き物には、「ニンゲンを殺してはいけない」などという規範はデフォルトであったわけではにゃーんだろう。しかし、「仲間は殺してはいけない、仲間から奪ってはならない」という規範はあったんでにゃーかな。こういう規範のない部族は僕の知る限り歴史的にも存在してにゃーし。
モーセ十戒にしても、あれはユダヤ民族の仲間内に適用する戒律なんだよにゃ。他民族は殺し放題・犯し放題・奪い放題。
相互に「規範を適用する=ニンゲン扱いする」ことによって、お互いの身の安全とか財産の保全ができるわけですにゃ。相互安全保障の原理にゃんね。そして「規範を適用する=ニンゲン扱いする」かどうかは、仲間内かそうでにゃーかに依存する、と。さらに、仲間内かどうかという判断は、血筋だとかオキテを守っているかどうかだとかに依存することになるのでしょうにゃ。


近代に成立した国民国家というのは、国民すべてをその構成員とするものですにゃ。そこで国家権力はその構成員(=国民)に
「あんたのこれこれこういう権利を保障するんで、権力を行使させてもらいますわ」
と約束することになったわけにゃんな。その約束を成文化したものを憲法というわけですにゃ。近代国家がそういう約束事のうえになりたっているという意味では、その約束事であるジンケンは自明だとしかいいようのにゃー話ではある。


ジンケンなどという考え方に普遍性はない、というのはソノトオリであるのだけれどソノトオリといえにゃーところもありますにゃ。
ジンケンという理屈は、人類社会においてずっと「仲間内」に適用されてきた扱いを、ニンゲンすべてに拡張するというものですにゃ。人類みなキョウダイ。
各々が理由がなければ殺されたり自由を奪われたりしないとか、財産が奪われたりしない、という私的な自由の権利は、どんな権力においても「仲間内」には保障されてきたわけですにゃ。あるいは「健康で文化的な最低限度の生活」すら「仲間内」には保障すべきものと考えられてきたといえるかもしれにゃー。働けなくなったとて、仲間は食わせるものですにゃ。そういうもんだろ?
つまり
ジンケンの保障内容については、人類社会においてそこそこ普遍性のある話なのではにゃーかと考えていますにゃ。
ジンケン概念の画期的なところは、その適用対象をすべてのニンゲンにしてしまったことだよにゃ。もともと仲間内に適用するものだったのににゃ。


だから、例えば「ホームレスにジンケンなんてない」とうそぶくというのは、そもそもジンケン概念を受容しませんと宣言しているに等しいわけですにゃ。専制政治であろうと封建制であろうと、「仲間内」にはジンケンと同じような権利は保障すべきとされているわけでしてにゃ。
だから、ジンケンという価値はどんな文化にとっても受容のされやすいものであるともいえるわけですけれどにゃ。その意味でそもそも普遍的かつ自明。


人類みなキョウダイといわれると、もちろん僕もウサンクセエ感じがするにゃ。しかしまあ、ジンケンというものは少なくとも形式上はすべてのニンゲンを仲間内として扱えという考えであり、だからジンケンはウサンクセエものであるという感覚はそれなりにわかりますにゃ。
しかし、胡散臭さも使いようではあり、相互安全保障のツールとしてはきわめて実用的なのではにゃーかとも思うのですにゃ。「命あっての物種」ってのは通文化的な価値にゃんからね。


権力にとってこそ、構成員の権利がリアルな問題であるはずなのに、ことジンケンにおいてはそれがリアルと感じられていなさそうなのがオモチロイ。
とさきほど書きましたにゃ。
仲間内とソトとの線引きをする思考に僕たちは慣れすぎていますにゃ。いやこの線引き思考はもしかしたらニンゲンの基本仕様にかかわる話の可能性もあると思いますしにゃ。(ま、平等を求めるのだって基本仕様なんだろうけど)
線引きをあえて避けることによって、リソース不足を理由にした排除をなしくずしに正当化して、事実上の線引きをしていく方法論をどうするか、ということなのかにゃ?