1週間のご無沙汰です

tomockyです。
司法試験の勉強ですが、体系マスター*1が今週で終わり、いよいよ基礎マスター *2に移ります。
司法試験の勉強はダイエットと同じで、継続が要です。
これからが大変ですが、法曹目指して日々努力あるのみです。

*1:伊藤塾の講義名称。法律の全体像を理解することを趣旨とした講座

*2:伊藤塾の講義名称。各科目(憲法民法、刑法etc.)について文字通り基本的な知識を身につけるための講座。
伊藤塾の合格体験記ではどの合格者も例外なく基礎マスターが大事だと主張している

福岡で起きたいじめの事件について

今話題沸騰中であるが

学校におけるいじめの話題は今に始まったものではない。
寧ろ、昔からあったことである。
しかも、いじめを苦にした自殺者は今回が初ではない。
私が小中学生くらいの頃*1でも、どこかの中学校でいじめを苦に自殺をした人がいて、教師から自殺はするなということをホームルームの時間に言われた覚えがある。
つまり、今回の事件は今までの過ちを繰り返しでしかない。

実を言うと、私もいじめを受けたことがあった

幼稚園の頃は知らないが、私は小学校時代から既に虐められていた。
この当時の私のいじめへの対応は、単純で、泣き喚くことだけだった*2
だが、こうしたことを繰り返すうちに、周囲は泣き喚くことに対して批判的な態度となり、同情を得にくくなった。
そうなると、言葉の上手くない私は、腕力での喧嘩に打って出た。
元々、運動神経が鈍く、力も弱い故*3、相手を喧嘩で負かすことは全くといって良いほどなかったが、中学までの教師は人情に厚い人が多く、よく仲裁して貰った。
まあ、腕力に訴えて喧嘩をするくらいだから、所謂いじめとは訳が違うのかもしれないが、不条理とは積極的に戦ってきたことを考えると、中学までの私はかなりアグレッシブないじめられっ子だったと言えよう。

私も高校の頃、似たようないじめを受けた

ところが、高校生になると暴力反対の校是に負けてしまい、昔のようにアグレッシブに戦わなくなった。
また、中学以前では、教師からのいじめは受けたことがなかったが、高校に入って初めて、教師からのいじめを受けた。
具体的内容は、変な渾名を付けられ、それが同級生の間で広まるという、将に今回の事件にそっくりな内容のものであった。
渾名に関しては、私の場合、他人に比べて受忍限度が著しく低く、どんなに格好良い響きでも、自分の名前に由来しないもの即ちモノに喩えられたものは断固として拒絶している*4
そんな個人的な問題はともかく、同級生たち*5は私が嫌がるのを分かっていながら、その渾名で呼ぼうとしたりして、非常に不愉快な思いをした。
中には、善意*6でそういう渾名を使う者もいたらしいが、明確には確認できていない。
また、高校で受けたいじめは渾名だけではなく、女に全然モテない*7というのに「女誑し」呼ばわりされるわ、猥談を持ちかけられるわ、多岐に及んだ。
そして、私がこうしたことをきっかけに心を閉ざしてしまうと、女に際物扱いされて嫌われるわ、教師に相談しても私が悪者扱いされるわ、中学以前とは違った対応に泣かされた。
酷いのは、うちの親である。
特に母親はどちらかというといじめっ子タイプなので、高校時代の私はいじめの相談をしても詰られっ放しで、親にも突き放される有様である*8
こんな悲惨な境遇にありながらも自殺をしなかったは、偏にプライドの高さ故だと思う*9
今回自殺をした中学生は、もしかすると、プライドがそれほど高くなかったのかもしれない*10

高校の頃の同級生は私に変な渾名をつけた件について一切謝罪していない

実は、中学時代にも体の特徴などから変な渾名が付けられたことがあったり、ちょっかいを掛けられたりと随分といじめの苦を味わった。
しかし、きちんと対応してくれる教師がいたり、或いはそれなりに理解ある友人がいてくれたり、虐めた側も誠実に謝罪した*11こともあり、今ではそんなに不愉快な思い出を引き摺ることはなくなった。
一方、高校時代については、私が積極的になれなかったせいもあるが、私に不愉快な思いをさせた連中は未だに謝罪をしないばかりか、隙あらばまたちょっかい掛けようと目論んでいる*12
私はこんな誠実さの欠けた連中に今でも腹を立てている
日本人は一般的に過去起きた事件を忘れることが良いとする風潮があるから、過去受けた辱めを忘れろということを主張する者も当然いるだろう*13
しかし、私から言わせればそういう輩は隠蔽体質の恥知らずでしかない。
また、プライドある人間は絶対に過去に受けた辱めは忘れないものだ。
それは人として極めて普通の感情ではなかろうか。

間違っていれば率直に謝り、やましくなければ信念を貫く。誠実が基本

いじめの件とは離れてしまうが、中国や韓国などが日本に対して持っている思いも私が高校の同級生に対して持っている思いと同じものだと思える。
要は、誠実で明確な謝罪がないが故、未だ許せないというものだ。
相手は誠実な対応を求めているというのに、日本が行った対応は極めて姑息*14で卑屈な相手のご機嫌を伺うというやりかたで余計に気味が悪い*15
学校のいじめの問題がいきなり外交問題に飛躍してしまい、ピンと来ないかもしれないが、要は、国家間の関係でも、個人間の関係でも、本質は同じである。
間違っていれば率直に謝り、やましくなければ信念を貫く。誠実が基本である。
まあ、私は謝ることは得意でないのが辛いが、少なくとも、信念は貫くし、筋は通すようにしている。

最後に

今、いじめを受けているのなら、いじめっ子の不条理と戦え!
いつの世も不条理と戦わねば正義は実現しない。
こうしたことを書いているうちに、私が法曹の道を選んだことに当初とは別の意義*16を見出せたような気がしてならない。

*1:15〜20年前くらいか?

*2:気が弱いから

*3:だからこそいじめの対象となってしまうのだが

*4:今でもその方針は不変である

*5:全員と限らないが

*6:民法などでは「善意」というと事情を知らないことを意味するのだが、ここの文脈だと一般的な意味での善意と民法での意味の善意の両方を意味すると解している

*7:告白されたことありません!

*8:それでも、中学以前はしっかりと相談に乗ってくれたが

*9:私は物凄くプライドが高い!

*10:プライドが低いと寧ろ、からかわれていることに鈍感なので、虐められているという状態にはならない。
まあ、いじめを受けている状態なのかどうかは必ずしも客観ではなく主観の問題ということか

*11:きちんと対応してくれる教師のお蔭だが

*12:連中は学習能力がないとしか言いようがない

*13:実はこういうことを言われたこともあった

*14:ここでは本来の「その場凌ぎ」という意味

*15:平和憲法に拘泥したり、靖国参拝をやらないことなどが誠実で正しい対応ではない!

*16:当初は企業法務やプライベート・バンキングが念頭にあった

いじめっ子体質のマスメディアとプライバシーの保護

よく芸能人の「スキャンダル」が報じられているが

芸能マスコミでは芸能人の交際はどんなに健全でもスキャンダル即ち醜聞として扱われる。
不倫とか二股とかならともかく、普通の交際如きで醜聞という扱いをするのだから、異常である。
そして、この異常性に疑問を抱いている人が意外にも少ない。
マスコミの報道の問題を取り上げているブログとかでもでだ*1

「知る権利」の詭弁を振りかざす自己中ども

別に芸能人の交際報道に限らず、マスコミの傍若無人ぶりは一般の事件の報道でもよく出ている。
彼らはよく「知る権利」を主張し、相手のプライバシー権を侵害することを屡々正当化する。
しかも、マスコミの連中は恰も国民の代表の面をしているのだから、厚顔無恥で傲岸不遜な態度である。
これも、「個性の尊重」を重視した教育のおかげか*2
教育の問題はともかく、彼らの非礼ぶりは異常である。
マスコミの神を僭称しているとさえ思えるその態度には、取材対象への配慮というものが一切感じられない。

メディアスクラムという集団いじめ

少し前の記事で、いじめの問題を取り上げたが、メディアスクラムという一種の集団いじめもまた大きな問題である。
メディアがまるで談合したかの如く同じ趣旨の記事を書き、ある特定の事物を批判することをメディアスクラムという。
特に、コンセンサスの得られやすい事柄があると、このメディアスクラムが発生する危険性が高い。
最近でこそ、一部のブログでそうしたメディアの態度に疑問を持つ人もちらほら出ているが、未だにメディアの奔流に流され、思考停止しているような人も少なくない。
しかし、よく考えてみれば、こういう一定のコンセンサスに基づくメディアスクラムによる糾弾キャンペーンというのは一種の集団いじめでしかない。
こんないじめっ子のマスコミがどの面下げて、いじめの問題を論うのか?

私は詮索といういじめを受けた

私は昔いじめを受けていたということは、前の記事で触れた通りだが、その中に詮索タイプのいじめを受けたことがあった。
例えば、好きな女性は誰なのかを私は、「友人」に執拗に訊かれたことがあった。
気の弱い私はつい答えてしまいかねないのだが*3、こういうことを聞き出す輩に限って、自分のことは一切話さないのだから許せない。
他人のプライバシーに関わることを聞きたいのなら、まず、自分のことを話せというのを何かの本で見たことがあったが、私の「友人」はこうした基本的な礼儀が一切なっていない。
詮索は異性問題に限らず、私の持っているモノとかにも及び、このようなプライバシー侵害の嫌がらせが私の心理的外傷を作り出していることに、「友人」達は気がついていない。
大体、自分たちだって例え親しくとも他人にあれこれ詮索されるのは不愉快だろうに。
まあ、彼らとて悪意はなく、単に私のことを知りたいという知的欲求に基づくものだろうが、相手のことを知りたいというのなら、まずは自分のプライバシーを曝け出すべきである。
そうして初めて、相手が許して心を通わせるものである。
一方的に他人のプライバシーを聞き出すのは警察の取り調べみたいではないかと思わないものなのだろうか?
詮索が一種の人権侵害であるという人権感覚のない人間は報道マンの資格はないと言っても過言ではない。

*1:大概はマスコミの政治思想面を問題にしている

*2:寧ろ、個性の尊重という教育の理念が固より形骸化していることが問題だが

*3:実は、嘘を言って逃げた記憶がある

解釈について

カテゴリ上は司法試験関連だが

どちらかというと一般的な話題なので「コラム」に近い。

法律の文章は曖昧で抽象的故、解釈という作業が必要不可欠

法律の文章というと、一般的ではない語彙が使われていたり、或いは抽象的で曖昧という印象がある。
これはきちんとした理由があって、余りに具体的過ぎると、法律の条文が柔軟に運用できず、未知の事項に法律で対処できないからである。
だから、法律の文章は解釈の余地を与え、未知の事項に対処する意味合いで、抽象的で曖昧に書かれている。

解釈の種類

法律の文章を具体的な事件に適用するために行う作業を解釈というが、この手法は大きく分けて5種類ある。

文理解釈

これは法律の文章を文字通りに解釈するという、一種偏執的だが基本的な解釈の方法である。
例えば、とあるマンションの規約*1に「部屋で犬猫を飼ってはいけない」というのがあったら、文字通り、犬と猫を飼ってはいけないと解釈するものである。

反対解釈

前述の文理解釈に似ているが、こちらは法律の文章に明記されていないことは適用外とする解釈の方法である。
先程の事例のマンションの規約「部屋で犬猫を飼ってはいけない」の場合、文章には「犬」「猫」しかないので、例えば小鳥は飼って良いとか、熱帯魚は飼って良いとかいうような解釈である。

縮小解釈

前述の文理解釈や反対解釈は文章の言葉に忠実であるのに対し、縮小解釈や後述の拡大解釈・類推解釈というのは文章の言葉の意味を曲げたものである。
先程の事例のマンションの規約「部屋で犬猫を飼ってはいけない」の場合、この条文の趣旨が犬や猫の鳴き声による騒音対策にあるとすれば、鳴かない犬や猫なら飼っても構わないとする解釈である。
つまり、趣旨の範囲内において、文章の言葉の意味の範囲を狭める解釈である。

拡大解釈

こちらは前述の縮小解釈と反対に言葉の意味の範囲を広げる解釈である。
先程の事例のマンションの規約「部屋で犬猫を飼ってはいけない」の場合、「犬猫」というのが動物一般を指す意味であると解釈し、小鳥や蛇、更には熱帯魚も飼ってはいけないとする解釈である。
拡大解釈導き出された結果が前述の反対解釈と逆であることから分かるように、同じ文章でも解釈の仕方によって、白を黒にすることができるという良い見本である。

類推解釈

これは拡大解釈に酷似しているが、拡大解釈が言葉の意味を広げる範囲がその言葉の指すものの常識的範囲までに限られているのに対し、類推解釈の場合、憶測的要素が多分に含まれている解釈である。
つまり、拡大解釈の拡大版といえる。
先程の事例のマンションの規約「部屋で犬猫を飼ってはいけない」の場合、「部屋」の範囲を超え、例えば、廊下や駐車場などマンション敷地内全域で犬猫を飼ってはいけないと解釈するものである。

拡大乃至は類推解釈が齎す煽動的先導

さて、ここからが本題なのであるが、最近、自民党中川昭一政調会長が日本も核武装の必要性を議論するべきときが来たという趣旨の発言をしたというのに、マスコミの連中はヒステリックに拡大或いは類推解釈して、恰も中川昭一政調会長核武装推進論者であるかの如く報道して、国民を煽動したという事件があった。
日本人というものはこういうアジテーション(煽動)に対して煽動者の意図通りに騒いでくれるのだから、恐ろしいものである。
先の大戦だって、このような煽動に弱い体質が齎したものだという反省が全くなく、平和主義憲法の護持だとか靖国神社への公式参拝をするなだとか形の面ばかり主張して反省したつもりになっているのだから、呆れる。
話が逸れたが、他人の言葉の裏を読むことが本質を見抜くことだと勘違いしている連中が多く、何某かのスキーマ或いは先入観/偏見に基づいた類推解釈が大手を振っているのが痛々しい。
大体、類推解釈は法律の文章を導き出したい結論のために編み出された技術である。
いうなれば法的抉じ付けの技術である。
しかも、他人の発言を解釈する過程において、発言を受け取った側が素直に文理解釈せずに類推解釈している場合、多分にスキーマ或いは先入観/偏見―即ち主観が入り込んでいる。
それを恰も客観的であるとして訴えるのだから、極めて性質が悪い。
煽動で先導するのが戦前戦後問わずに続いている日本のメディアの悪しき伝統だろう。
これを打破しない限り、同じ過ちを繰り返すだけである。

*1:これも一種の法律と言えるものだが