井真成は留学生ではないかも

asahi.com(朝日新聞社):「井真成」はどんな人? 中国で官吏説 - 文化トピックス - 文化

 だが、韓教授は、733年に到着した次の遣唐使の随員だったとの論を展開する。

 まず、唐の制度では、官立学校の在学期間は最長9年までで、それ以上は滞在もできなかったと指摘し、「十数年にわたり留学したとの見解は成立しがたい」とする。

面白くなってきた。


俺は遣唐使について詳しくないので、ちょっとウィキペディアで調べてみた。

日本側には新羅攻撃の史料がないが、渤海の出現により日本と新羅の関係が緊張したのは事実である。天平4年(732年)1月22日、角家主が遣新羅使として派遣され、8月11日帰国するが、家主帰国後の日本側の動きが慌しい。余程重大な情報がもたらされたと考えられる。というのも8月17日には遣唐使発遣が決定され、同時に朝廷の高官が東海、東山、山陰、西海各道の節度使に任命された。22日には兵士の充足と軍備の充実が命じられているからである。新羅で唐と渤海の開戦が近いことを知った日本は参戦の決意を固め、その前に前回の遣唐使が残した留学生や留学僧を帰国させようとしたと考えられる。その証拠にこの時の遣唐使には新たな留学生・僧が派遣された形跡がない。

平群広成 - Wikipedia


733年の遣唐使の際には日本・新羅・唐・渤海の間に極めて重大な緊張関係があったんですね。興味深い。


※ただし、井真成は734年の正月に死んだとあるのに、遣唐使は、

唐の「冊府元亀」によれば、

「開元22年(734年)4月日本国遣使来朝、美嚢絁(みのうのあしぎぬ)二百匹、水織絁(みずおりのあしぎぬ)二百匹を献ず。」

とある。蘇州到着から朝貢の儀まで1年近くを要しているので、一行は一時蘇州に留め置かれた可能性もある。

ということだそうだから、韓教授の説は辻褄が合わないようにも思える。