暇つぶしに国会答弁を観ました

今日は午前3時に目が覚めて眠れなくなってしまった。仕方なく暇につぶしにyoutubeで国会での答弁の動画等を観ていた。最近よく国会でのテレビ中継の動画を良く観ているのだが、安倍総理をはじめ官房長官内閣府の官僚たちなど、政権にいる人たちの答弁の質の低さに驚愕するやら、あきれるやらで情けなくなる。日本の政治の中心にいる人たちがこんなレベルでは、日本の未来は暗いと言わざる得ないだろう。もう日本は先進国なんて言っていられない状況ではなかろうか。とにかく自民党政権のレベルが低すぎるのだ。それは答弁の質に非常によく表れている。一応日本ではエリートといわれる人たちで固められているであろう高級官僚の人たちも、この政権に人事を握られているがために、やりたくもない尻ぬぐいをさせられたり、国会で無理な答弁を繰り返したりと汚れ仕事を強いられている。こんな仕事をしたいと思って官僚になったわけでもないだろう。ある意味お気の毒といわざる得ない。私がこういうエリートでなくてよかったと思う次第だ。

またブログを再開しようと思います

本当に久しぶりにこのブログを書いた。このブログにある一番古い日記から全部読み返してみたのだが、文章が稚拙で、考え方が偏っていて、ものの見方が本当に皮相的だと感じた。どれも論理性にかけていて読んでいて恥ずかしくなる。しかし幸運なことにこのブログの読者は皆無なのでそんなことを気にすることはないのだ。書きたいことを書いていけばいいのだ。そして、そんな気楽な気持ちで書いたブログの方が後からよんで面白く興味深いものになっていきそうな気がする。読み手を意識していてはいいものは書けないだろう。実は私は日記帳(紙媒体)に日記をつけている。そっちの方は2018年の1月1日から一日も欠かさず書き続けているのだ。いずれにしろ毎日なにか文章を書き続けていくのはよいことだと思う。なんでもよいのだ。

今一番興味があることが実は相対性理論である。この理論は有名なので言葉だけは誰もが知っているだろう。そしてこの理論を発見したのがかの有名なアインシュタインである。この人も名前だけは誰もが知っていると思う。有名な理論にもかかわらず数式の上でこの理論を理解している人はあまりいないような気がする。まあ物理学の研究者は一般常識として当然理解しているのだろうが、それ以外の一般の人たちは何となく結論だをどこかで聞いて知っているという感じなのではなかろうか。私もそんな一般の人たちの一人であるのだが、この理論をちゃんと理解してみたいと最近思うようになった。なぜそんなことを思うようになったか、それは図書館で偶然見つけた本がきっかけだった。その本は「一般相対性理論を一歩一歩数式で理解する」という題名であった。わたしは高校時代に相対論に関する本を読んでいた。しかしその本は専門書とよばれものではなく、一般向けの科学啓蒙書であり、数式は極力使わず文章のみで解説するものだった。そのころ数学が苦手だった私には、数式で相対論を理解するなど到底無理だとおもったものだ。しかし年月は経ち私も量子コンピュータなどを勉強したいなどと思うようになり、そんな中でいろいろ物理に関する本(特に量子力学にかんする本)を目にするようになったのであった。そしてそんな中で件の本の存在を知ることになったわけだ。前置きを読んでみると、高校の数学を知っていれば本書で展開されている数式についてこれると書かれていた。よしそれでは読んでみるかと思い一念発起して読み始めたわけである。

実は読み始めたのは去年の夏ごろからであり、とりあえず半分ぐらいは読んでみた。この本はとても分厚くて650頁ぐらいある。読み終えたのは特殊相対性理論という章の後半部分までである。読んでみて数式の意味を百パーセント理解できたとは思えないが、一応ついていくことはできた。まだボヤっとはしているが、何度か読み返していくと理解が一段と進んでいくような感覚がある。初心者がどこで躓くかということにとても留意されて書かれているので、私のような物理の初学者でも読み進めることができるのだろう。久々によい本に出合えた。

この本を半分まで読んで感じたことは、数学の力なくして物理学の存在はありえないということだった。数学は自然科学全般を支える基礎であり、土台であるということである。だから数式を抜きにして相対論を理解はできないのだということを改めて知ることができたのだった。それから、物理学は数学によって導出された結論(方程式)の意味を明らかにすることであるということなのだ。これは一言では物理的意味と呼ばれるものであるが、その意味がわかってその物理理論が理解できたと言える。ただ数学的に方程式を導出して終わりというわけではないのだ。アインシュタインはその物理的な意味を哲学的に明らかにしたとことで、物理学に革命を起こすことができたと言われているのだ。その天才ぶりを改めて知ることができた。とは言ってもまだ特殊相対論であり、一般相対論までは至っていない。そこまでついていけるかは実はあまり自信はない。

javaを学ぶ(2)

Eclipse(Version: Oxygen.1a Release (4.7.1a))を導入後、GitHubリポジトリからExcel Streaming Readerライブラリを取得する。
このライブラリはMavenプロジェクトとして提供されている。
依存している緒ライブラリ群を、ネットから自動でダウンロードしてくれるので導入が容易だ。

導入後に、Eclipseのパッケージ・エクスプローラを眺めていると、JREシステム・ライブラリーという文言が気になった。
今まで、ここら辺のことについてあまり深く気にしたことはなかったけど、アイコンの形といい、他のパッケージやフォルダとの関係性といい、
いまいち理解が不十分だということに何か後ろめたさすら感じてしまった。

このアイコンは、クラスパス・コンテナーを表すアイコンで、Maven 依存関係というものも同じアイコンの形をしている。
ビルドするときに依存するライブラリを表示するものということらしい。

JREシステム・ライブラリー(javaSE-9)のアイコンを展開してみると、63個の牛乳瓶のようなアイコンが縦に並んでいる。
一番上がjava.baseで一番下がoracle.netである。その真横にちょっと薄めの文字で表示されているのは、jarファイルのフルパスである。
なるほど、jarファイルは複数のclassファイルを固めたものだから、これらjarファイルのフルパスの集まりはクラスパス・コンテナー(クラスパスの入れ物)ということなのか。
ちなみに、クラスパスとは「jvmまたはjavaコンパイラが対象とするクラスファイルのある場所」ということなのである。

JREシステム・ライブラリーはjavaアプリケーションを動作するための基本的なライブラリ群が表示されている。
これらのライブラリを理解することはjavaの言語としての機能を理解する上でとても大事なことであろうと感じる。

javaを学ぶ

プログラマを30年近くやっているけど、プログラム言語の仕様とか、言語機能の正しい使い方をしっかりと学んでこなかったような気がする。これでは、万年初級プログラマの域を脱することはできないと思い、java言語をしっかり学んで行こうと思う。そして、眠っていたこのブログでその足跡を残そうと思った。しかしながら私の怠け癖のため、不定期での更新になると思われるが。

今、Javaのライブラリを勉強している。MicroSoft Officeのエクセルファイルを扱う「Apache POI」が提供しているライブラリである。単にPOIと呼ぶことにする。現在POIの英語サイトを見ると「15 September 2017 - POI 3.17 available」とあるから3.17が最新なんだろう。3.17がJava 6をサポートする最後のバージョンであるということで、次のバージョンはJava8以上をターゲットした4.0.0が出るらしい。

Apache POIサイト(英語)
https://poi.apache.org/

実はこのPOIを今年の4月から使っているのであるが、そこそこ大きなエクセルファイルを扱うとOutOfMemeoryになってしまうという問題があることを最近知った。私のマシンでは百万行2列でギブアップである。物理メモリは4G。それで、「StreamingReader」というライブラリが登場して読み込み時に関してはこの問題を解決している。せっかくだがからこのライブラリを後学のため、ちょっと見てみようと思う。

●StreamingReaderのサイト
https://github.com/monitorjbl/excel-streaming-reader

このライブラリはメモリにバッファリングされたデータをファイルシステムに出力して、そのファイルを通してデータを扱う。バッファリングされるデータサイズを設定することで上限メモリを超えないように制御できる。

Effective JAVA(1)

抽象クラスよりインターフェースを選ぶ方がいいと言う。
それでは、抽象クラスとインターフェースとは何が違うのだろう。

  1. 抽象クラスは単一継承のみが実現できるが、インターフェースは多重継承ができる。
  2. 抽象クラスはメソッド実装を定義できるが、インターフェースはできない。
  3. 抽象クラスを継承した場合、抽象メソッドのみを実装すればよいが、インターフェースはすべてのメソッドを実装しなければならない。


抽象クラスは継承という構造をもたらすが、インターフェースは型を定義する。

自分の進むべき道

最近は重要な判断を迫られているとつくづく感じる。いわゆる人生の岐路である。私の人生もとっくに折り返し地点を過ぎてしまった。後先はそう長くない。私は52になるが、もうすぐ七か月になる娘がいる。誕生してから今まで事情があって海外にいるが、来月には誕生以来、彼女に会う予定である。この娘とは、今の自分のままでは会う資格はないのである。彼女が生まれる前、彼女は特別な存在としてこの世に生を受けるだろうと私はなんとなく感じていた。今の奥さんについても、出会う前に、こういう女性が来るだろうなということをある程度考えていて、確かにその通りになった。私の娘は、私にとって、魂の上では先生となる存在であろうと感じている。そんな彼女に、私の今の心の状態で会ってはいけないであろう。彼女を迎えられるだけの自分を作らなければならない。それは自分の使命であり、最低限の義務である。私は正しい自分を作り、彼女の人生の先輩として彼女を迎えなければならない。

受け身になったらお終い

このブログは1ヶ月半後に書いています。

依存症という言葉がある。
人間は何かに縋って生きているものだ。
全く何ものにも頼らずに生きている人というのは見たことがない。

金、女、仕事、人、タバコ、etc

対象は違えど必ず何かに依存している。

しかし依存は心の隙間なのである。
依存は囚われる心なので後でいろいろと不都合をもたらす。

まず依存すると、そこで思考が停止することが多い。
よって、間違っていたことでも是正することが困難になる。
自分を振り返ることができないからだ。

人によっては犯罪まで犯す。麻薬などがそう。

依存とは言葉を変えれば、執着である。

私が人に依存して、その人の言葉に執着した。
よってその言葉の外から抜け出すことができなかった。
これは一種の洗脳といってもよいのかもしれない。
しかし相手が私を貶めようとしたわけでもなく、
自分から落ちていったのである。

何ものにも頼らない。
執着しない。

そこに正しさがあるのだ。