間章の命日に

間章(あいだ あきら) 1978 年12月12日逝去 享年32歳

 桃山晴衣の命日から一週間後の12月12日は、出会うべくして出会い、短くも濃密な音楽活動を共にした間章の命日である。31年前のその日、私はパリにいた。28歳だった。初めてナイジェリアに出かけトーキングドラムマスタードラマーのアイアンソラから習い、パリに戻って間もない頃だった。その朝は曇よりとした空に執拗なまでに繰り返して鳴らされる教会の鐘の音がいつもになく気になり、胸騒ぎがした。そしてその鐘の音が静まり返ったと思うと、朝にはほとんどない電話がなった。夫人の静かな落ち着いた声で「間が亡くなりました」という知らせだった。すでに葬儀には間に合わず、日本にも帰れず、呆然とした日々が続いた。その年の春に彼がプロデュースしたデレック・ベイリーの初来日コンサート・ツアーで行動を共にしたばかりで、信じようにも信じられなかった。
 間章との邂逅は、七十年代初頭に近藤等則と上京し、フリージャズを演奏していた頃に遡る。彼は日本の音楽状況を変えるべく、演奏家たちとの運動体を結成し、その一員としての参加を私たちに呼びかけに来たのが出会いの始まりだった。アケタの店で演奏していた私たちをサックス奏者の高木元輝と訪ねてくれ、音楽への思いを熱く語った。それはやがて彼が命名した「EEU」(エボリューション・アンサンブル・ユニティー)という即興演奏集団として結実した。しかし75年に私には、今も続くピーター・ブルック劇団との仕事の切っ掛けとなる演劇音楽の仕事が舞い込み、ニューヨーク、パリへ旅立つことになった。EEUファーストコンサートがその旅立ちの前に青山タワーホールで行われ、高木元輝、近藤等則、豊住芳三郎、徳弘崇と私が演奏した。そして旅立ちの日、間、近藤両氏が羽田空港まで見送りに来てくれ、再会を約束した。
 ニューヨークでは多くのフリージャズ・ミュージシャンと出会い、共に演奏をした。とりわけその中でも最も影響を受けたミュージシャンがミルフォード・グレイブスである。当時、彼は日本のジャズのマスコミからは完全に消えていた。60年代に発表したESPでの数多くのアバンギャルドな演奏やインディーズレーベルのピアニスト、ドン・プーレンとの「nonmo」というアルバムがリリースされて以来、全く日本では音の情報が途絶えたままで、幻のドラマーといわれていた。私はnonmoを聴いて以来、レコードから彼のドラミングに強く惹かれていたこともあり、NYでミルフォードの生徒と称する青年から私のドラミングが彼に似ていると指摘され、日本に興味を持っている彼と会ってみないかという話が舞い込んで来たのにはまったく驚いた。つたない英語でミルフォードに電話をし、ジャマイカクイーンの家を訪ねたのを契機に、彼から音楽の多くを教わり、ナイジェリアのトーキングドラム修行もジャズドラミングの基はヨルバ族にありという彼の教えに端を発したものである。彼との出会いは自著『螺旋の腕』(筑摩書房)に詳しいので参照を。
 間章はこの年、デレク・ベイリーを初めて日本に招聘するべく準備をすすめていたが、私がミルフォードが今も先鋭的な音楽活動をし、是非とも合うべき人であることを知らせると、一度も足を踏み入れていなかったNYをその翌年に訪れ、ロフトジャズやパンク音楽を毎日の様に聴き歩いた。そして彼をジャマイカクイーンのミルフォード宅に連れていったことで、この幻のドラマーの存在に大きく心を揺り動かされた。その感動は、その後ミルフォードを初めて77年に招聘し,私や近藤、高木、そして阿部薫との共演、レコーディングを実現させて、日本を震撼させたといっても過言でないだろう。ミルフォードへの思いは彼の書『この旅に終わりはない』に綴られている。
 間章とはNYでパリで何度も出会いを重ねることになる。特にパリではスティーブ・レイシーとの出会いを彼が作ってくれ、レーシーとの思い出も数多い。数日前桃山の追悼に訪れたサクレクール寺院のあるモンマルトル界隈にあったsarabahレコードを彼はよく訪ねていて、ここを歩くたびにレイシーや間章の影が浮かんでくる。
 またデレクとのことも間章と共に多くの思い出があるが、いつかの機会までしまっておこう。



 あの夫人からの訃報を知らされる前に、間章本人から届けられた一通の手紙があった。デレクとのコンサートを終えてパリに帰った私への手紙だった。

 「土取君、来年は僕とハンベニンクが待っている   間章



(左から 間章、ミルフォード、土取。77年ミルフォード初来日、渋谷パルコ劇場で)
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