ことばのくさむら

言叢社の公式ブログです

特性のない女―女であることの精神分析的素描

バイカル湖

本日より、「言叢社」(げんそうしゃ)のブログを開設いたします。
            
こんにちは。愛知県渥美半島に住する大隣田寺先生の協力をいただき、ブログを開陳することになりましたが、なにを盛り込んだらよいかについて、とまどいがあり、ともかくも、編集者として自社の本の紹介から、さらに関心をもったさまざまな本の紹介や要約、引用からはじめることにしました。
                                   
 最初に紹介したいのはあまり評判にはならなかったアニー・アンジューの邦訳から、語録としてかねて引用をつくっておいたものです。編集者というより、読者としてこの引用はかねがね刺激的な内容と思っていたので、ぜひ引用だけでも読んでほしいと思ったからです。
                                           

特性のない女―女であることの精神分析的素描

特性のない女―女であることの精神分析的素描

アニー・アンジュー
高井邦子・岩見祥子訳
特性のない女―女であることの精神分析的素描』
四六判274頁 定価=税込3262円 言叢社 1996年刊

                                                 
■第1部 女性(フロイトの後、女であること;嵌めこみ;マゾヒズム;否定性と女性―特性のない女)第2部 エクリチュール(言葉と女性;存在と行為)第3部 女性分析家(肘掛け椅子に坐った精神分析医;分析者のことば;精神分析医であること)

■女であることの〈いのち〉をどのように表現できるのか。〈母さん人形の無意識〉〈ペニスの体内化〉〈生命の空洞〉〈貯留〉〈穴〉〈通路〉等など、女性の内部生命を〈内なる乳房〉のふくらむ痛みのように語りつづける精神分析的知のエッセイ。女性のいのちの表現活動は、〈受胎と生誕と再生の隠喩〉とパラレルにはたらいている。著者の本の唯一の邦訳。

■アニー・アンジューは1924年 4月、フランスのクレルモン・フェラン生まれ。哲学を修め心理学と言語再教育(言語障害治療)の学位を取得。子どもの精神分析心理療法による治療に従事、1989年までサルペトリエール病院児童青年部精神分析医長をつとめた。1985年に「子どもの精神分析のための協会」を設立、会長としてドルト亡きあとの「子どもの精神分析」を代表する分析医として知られる。夫のディディエ・アンジューとの出会いはエコール・ノルマル時代に遡り、共に哲学と心理学を修める。

■「著者は、『女性の特質は、不可視の肥沃な内部によって構成されている』とし、従来の『男根モデル』ではなく『女性の内部性のモデル』を採用する。『内部』とは、生と死の力を備え、官能の源泉である空洞。欠如でもなければ、子宮のみに還元されるものでもない。『女性は、この内部と外部との相互作用によって作られ』るものである。」(稲田奈緒美/図書新聞 1996.4.20号)「これまで、女性学の内部には……展開のために設定するべき、初期条件を、未明のなかに放置したままであった。この未明の領域が、本書によって、初期性を得たということができる。……『欠如の理論』も『両性具有』も停滞を生む。……女の本能領域にアンジューは果敢に分析のメスを入れたのである。」(河野信子産経新聞 1996.4.21)

アニ・アンジュー語録―『特性のない女』より】

P22
 女性性は、女性性器をもって生まれたという事実のみにあるのではない。それは内部身体空間の諸表象や懐胎の欲望、愛の対象として所有されることの自己愛的悦楽に結びついた情動・情緒様態の総体を包括する概念である。

P30
生まれる努力、互いに分離するため母親とわかちあう苦痛は、おそらく人間の全発展に与えられるモデルである。母胎につながれたへその緒が切られるとすぐ自立する子どもの身体は、おそらくこの子の心的、社会的変転を表象している。

P31
最初の抑圧において、充たされなかった欲望はおそらく、誕生時の不安――生命の生産者である内部が徹底的に欠如しているという不安――に結びつく。子宮から出た直後の外部と同様、自己の内部は空白のままであり、双方が渾然としている。基本的かつ尚早な死の証明。生存できない憤(いきどお)ろしい絶望のうちに排出される生命とみなされる排泄物には、内的密度のいくらかを失うという感情が備給されている。

P37〜38
 探し求めた乳房が侵入して生命を与える。まさにそのことによって構成される内部へ、ふたたび熱が流れこむとき、生命とは快楽にほかならない。エロスは唇の線や、舌の表面や、食道とその和らげられた緊縮の中に居を定める。歯齦に乳首を含み、乳が口中に流れると、かつて身体が浸っていた追憶のあの内部のような、ある甘美な内部を再創造する可能性が一点に集中してくる。嗅覚は母の存在と美味な食物を同時に発見する。生命は、満足を求めて得られ/得られなかったこの最初の経験に基づいて、自らに形を与える。

P56
 大きな入れ子の母さん人形の無意識とは、いわば自分と他者の内部に再発見されるこの生命の核で、その周囲に器官や筋肉の密度と体積がつみ重なり、思考や情動の円還運動が行われるのだ。これが、無数の分析空間を通じて徐々に発展する構築の、待望の終着点である。

P61
 女児は、視線によって知った対象に内的触覚を投射することで、自己を、自分が持っていることに気づく快楽的外被と完全に同一化してしまう。こうして彼女は、そのペニスを体内化したいと願う、男児に向けられた意識的で明白な、誘惑する表面となる。この誘惑の目的はまず、彼女が知っている唯一の形態――快楽的外被――として、欲する対象物を所有することである。

P63
 象徴は自我の作った安全装置で、人間のあいだの共通分母として働く。というのも、ジョーンズ,E.によれば、それは「つねに一定の意味を持っている」からだ。象徴は「物(ショーズ)」をその具象面のもっとも外化しやすい部分で抽出することで――視覚と触覚がその源泉である――、もっとも単純な表現へと還元する。外被の視像は腹部を連想させる。熱望する接触を目あるいは耳で喚起するというこの象徴的遠隔化は、対象との関係における抑圧された意味を保持している。この保持される意味は、対象の内化された形態――抑圧によって注意深く覆い隠されているが、無意識的にその本質的特徴が外化しうる形態に投射されるもの、と解することができる。
 考古学者や社会学者によれば、発見された最古のシンボルは、母親の諸形態を神化したものであるらしい。象徴化作用とは対象との遭遇の逆であって、感覚的隣接を、情動的、想像的隣接に置き換える。凝視される対象には最小限の感覚的性質のみが残っていて、この対象の不在を悩ましく喚起し、その穴の周縁で自我は、対象の享受もしくは非‐在によって消失するのである。対象が作りだすこのような心的葛藤を解決するために、ヒステリー患者のうつろな身体のなかで、象徴が病症と結びつく。正常の経緯においては反対に、失われた身体接触は、ことば(パロール)に道をひらく。

P67
 欲動体験は外部の対象を求め、これに備給を行うが、その対象には無意識的に欲求充足の能力が与えられている。欲動とは、生じつつある精神活動が、感じたものに与える最初の意味であるから、それは生きることの、すなわち知覚的対応がただ偶発的で受身なある内的活動の、最初の予感としてあらわれる。したがって感覚器の受容は、すみやかに欲動の動きと関係づけられる。何かを眺めることは欲動の飛躍となり、その目的は見ること――すなわち瞼から目を出して対象と接触すること、目を対象にみちびくこと、見られた対象が目‐自我に侵入するのを感じることである。再び閉じた目はその痕跡である像(イメージ)を、記憶の魔法のメモ紙に保存する。目が口と同じような受容・体内化の明白な孔であるかのように、視線の貪欲さを云々するのはよくある話である。
…(中略)…視線とは同時に接触であり、内化であり、隔たりである。口と耳の中間である。長い迂回と多くの変容ののちに、ことば(パロール)がその遠隔的な知覚・発信機能によって、視線と聴覚を統合する。

P71
目は皮膚を補って、身体と物とのあいだに距離を作る。感じたものに新たな距離が生まれ、触覚による当初の接触が失われる。触覚は心的活動(プシシェ)のなかに移され、対象は内部の目に触れる。それは、内部の、最初の特異な知覚である。

P79
私の考えでは、小児の欲望は、その最初期では、ヴァギナ/口が体内化したペニス、すなわち女性的に同一化されて母親の内容物の一部となったペニスへの欲望と混同されているように思う。この内容物が補完して、受容性と内面性の感情が強固に確立されるのだが、この感情は女児において本質的で、非常に早期にあらわれるので、はじめは口唇感覚と区別ができないほどだ。

P81
ジュヌヴィエーヴ・ハァグは、二歳にならない幼児が、手で螺旋形を描くのに気づいた。普通にみられるこの外部へと開く運動は、中心の一点から始まり、再びその点に向かって閉じてゆく。単に生物学に根ざしているにせよこの身振りは、外部への自己開放能力を示し、それとともに、空(から)になったり破裂したりせずに外部に接近する感覚と、身振りの境界そのものによって保護される場所としての自我‐内部へ撤退する感覚との差異化を示している。私には、螺旋の出発点は、女性の図像学に属していると思われる。それは心的空洞内でおぼろに生じ、幾重もの内部錯綜を経て、D・アンジューのいわゆる形相的シニフィアンに至るのである。
 母親の諸表象を使ってこの内的展開の形相化を行うならば、それは鋳型の概念および線的女系の概念を導入する。男性という第三者を排除するので、そのため女性の持つ母性と生殖能力の受動性、あるいは被虐性すらが強調されることになる。
 私の考えでは、この螺旋は、嬰児が「鋳型」と同じでありながら、すでに差異化を要求しているしるし(シニフィアン)である。いずれにせよこの記号は女児において、両性具有の網にからまれながらも、かならずその意味を持っている。女性/男性の分離については、F・タスティンの「初期的噴出」の概念がイメージを与えてくれるだろう。これは女児にあっては内部に向けての自我の噴出、男児においては外部および筋肉系へのそれとなるのである。
 螺旋運動で描かれる線はまた、皮膚の外葉/内葉の分離をも示している。内葉は心的装置のなかに、女性性の空洞を拡げてゆく。空洞すなわちそこで精神生活が展開する内部は、こうして自我組織そのもののなかで、自我の厚みによって画(かく)され、分離される。
 単純な折りたたみよりもメビウスの輪の折り返しに近い仕切りが作るこの差異化は、いつのまにかそこに父の痕跡による原光景との絆がしのび込んでくる運動の表象でもあるだろう。心的装置のもとになる母親の組織には、幻想の実質において、この痕跡が刻印されている。女児において螺旋の定点は父親の痕跡であり、それはすなわちペニスがないというので彼女におしつけられた内的空白の否定、彼女にはまだ固有の感覚も女性的自我の意識もなく、ましてやこの年頃で他者に発見するペニスへの羨望以外の思考はないものときめつけられ押しつけられた内的空白の否定である。女性的自我がそこから生じるこの原点は、女性の自我の諸表象のなかにいつまでも残り、正常な発達においては、おそらく「失われた部位」(G・ハァグ)に代わるものである。この「失われた部位」は精神病一般、たぶんヒステリーをひきおこすとされるが、正常な女系では、母から娘に伝達される、官能と受胎の豊かさを備給された[内的]空洞感覚の中に保持されているのである。

P83
子宮とそこへ導くヴァギナとを、睾丸およびペニスの女性における性器的等価物とみなすなら、男根の象徴的等価物は、空洞であるとみなすことができる。

P84
この生命の空洞、「存在」の絶えざる巣ごもりの神秘を感受できる、この隠れた片隅を。これ自身が無意識でないとすれば、無意識の暗喩ないしは象徴であるものを。可能性のこだまが生命の音階――誕生や死、愛や暴力――となって反響する、この狭空間カテドラルを。

P96
 内的空白という心的体験の底には、侵入の欲求にまで高まる女性の性的興奮があるということができる。空洞がこのように対象に向かって引き寄せられるのは、その欲動的性質において、認識欲の高まりによく似ている。このとき、空洞が対象と接触することが、認識に相当する。侵入してくる対象は、もし適当であれば欲望の内容に同化され、境界線においては渾然として快楽‐自我と一体をなすから、この点ではアイデンティティは侵入する対象と一致する。

P97
 「形のシニフィアン」の概念は、私が女性性の特質と考えている開孔部の快楽に、理論的、臨床的説明を与えてくれる。実際、女性のアイデンティティは、その正常な構成においては、男性よりはるかに性器化された、皮膚外被のさまざまな「穴」への備給を前提としている。早発性の感覚記憶が、それらに性感を付与する。鼻・口・耳・目・性器は、そこからエロスが女性のなかに侵入する穴である。この備給の力動成分が子どもに認められるが、その最初の象徴的表象は、平面における境界を示す描線(直線および円)である。

P104
女性は子宮という水盤のまわりに構築され、快楽と受胎の場の刺激に中心が置かれている。内なる乳房――いくつもの深層が堆積する腹‐頭のなかに女性が切りとるおぼろな自己イメージ。夜の穹窿(ボードレール)。自己の観念は、未知の、囚われの動く建築物の予感でリズムを刻んでいる。

P107
無意識は、身体が予感する恐ろしい変化のなかに隠されているのではなかろうか? 女性的なものとは、創造過程にひらかれた道であり、無意識の無時間性にしるされた時間の刻印である。

P118
 精霊がもつ象徴的な力は母親の生産力を借りてきたものだが、この力は、母親の死をもたらす力や、不安にみちた受胎の神秘や、女性性器がひきおこす恐怖の威力を無化する。その上でこの精霊は、生命を生産する女性の豊かな養育力の価値を宣明するのである。
 だから私たちは生者の側に立とう。欲望は生物の実体のなかに存在する。フロイトは欲動の第一形態のもとにそれを認めている。欲動は抑圧によって欲望となるが、それは心的生活の起源である距離――物と人間との、感覚と行動との、口と乳房との――を前提とする。力動的な概念である欲動は、満足の対象とみなされるものへの積極的な運動を示すが、欲望は、対象の欠如、現存の否定、非‐現存によってのみ生じる。

P120
こうして女性は、つねに両性の欲望の対象であるために、自分自身の実存においては否定されるのである。この本質的否定性が、他者あるいは差異の代表としての女性の特性の根拠をなしている。

P123
少女の場合は、離乳のとき乳房を体内化し、ついで内化してきたし、口唇エロチシズムの発展期に同一化を行ってきたので、身体の表面に生えふくらんできたこの乳房よりさきに、内なる乳房を持っている。私の意見では、乳房は欲動の内部性の表明である。この提題には異議が出るかもしれない。欠如や去勢といった表象の男根性に準拠していえば、少女における乳房の欠如こそが去勢感情や自己愛のもろさの源泉なのだと言うこともできるからである。