おととしの秋に書店で買おうと思いつつ、いつの間にか1年以上たってしまいました。
英文の西遊記「Monkey」も含め、これまで何冊もの西遊記および玄奘三蔵の本を読んできました。平岩弓枝さんの本を読むのはこれが初めてなのですが、昔みたNHKのドラマ「御宿かわせみ」の原作者として、そのお名前は何度も目に刷り込まれていました。
まずひとこと。「すばらしい」。作家ってすごいわー、と思います。
そしてこの西遊記を読んで、マチャアキ版の「西遊記」脚本の妙もあらためて感じました。ジェームス三木さんなどが書いています。ジェームス三木さんの脚本では、「独眼竜政宗」なんかも最高ですね。
いつのまにかヨギになっていたうちこですが、その前は西遊記ヲタでありました。
そしてヨギになってあらためて西遊記に触れ、密教&仏教とのつながりや、孫悟空のルーツがハヌマーン(猿神)であることなどから、その興味はますます深みを増しております。
そしていまこうして、平岩弓枝さんによるすばらしい西遊記を読むことができ、さらに面白く読めている気がします。
下巻をいま読んでいるのですが、下巻の感想では「マネジメント・バイブル」としての西遊記のすばらしさを中心に書こうと思います。
今日は上巻から、厳選していくつかグッときた箇所を紹介します。
<68ページ 五行山にて初めて師弟あいまみえる より>
「陳玄奘、慎んで御仏にお願い申し上げます。五百年の長きにわたって五行山に封じこめられし悟空と申す石猿を、何卒、御慈悲を持ちましてお助けください。彼の者と師弟の縁を結び、共に西天へ旅立とうと存じます。御心にかなうならば私に御札をはがさせ給え」
三拝九拝して顔を上げると、山頂から六つの金文字、「おんまにぱどめいふん(漢字で打つと化けます)」と書かれたお札が風に舞ってはらはらと三蔵の手許へ落ちてきた。
これこそ釈迦如来の残された六字真言の封印である。
悟空が岩に閉じ込められた印を解く場面です。真言がでてきます。
<86ページ 三蔵法師、心ならずも悟空に緊箍を与う より>
立ち去りかけた観世音菩薩に三蔵は必死ですがった。
「私は、悟空の師父となるには、あまりに未熟者でございます。到底、悟空を導くことは出来ません」
観世音菩薩が三蔵の肩に手をかけられた。
「およそ、師となる者は、弟子と共に学び、共に精進し、共に成長するのです。其方が未熟者なら尚更のこと、共に支え合ってこそ、まことの師弟と申すものです」(支え合って:打ち文字表記見つからず、予測)
これぞマネジメント・バイブル。平岩さんの西遊記では、観世音菩薩の登場のしかたがとてもよい。これは「緊箍(きんこ)」という、悟空の頭にはめられた、呪文を唱えられるとイタタタタ、となるアレを授かる場面でのやりとり。
<386ページ 宝林寺に宿り、三蔵は夢にて鳥鶏国王に会う より>
(大切なものを踏みにじられ、人を恨んで妖怪に変じた悲しいお話のあと、平和を取り戻した国で)
悟空は家族の団欒に目を奪われていた。
(中略)
眺めていて、悟空は知らず知らずの中に涙を浮かべていた。
その悟空に、そっと三蔵がささやいた。
「羨ましいのですか、悟空」
はっとして悟空は目のすみの涙を払った。
「そういうわけじゃないけど……」
「これが家族というものなのですね。わたしも今、しみじみとそう思って眺めていました」
「家族ですか」
お師匠様も家族を知らずに育ったのだと悟空は気がついた。
「家族とはよいものですね」
「そう。でも、世の中にはそうでない家族もあるのですよ」
悟空が首をかしげ、三蔵はそっと合掌した。
師弟でありながら、日に日に母子のような愛が育っていく三蔵と悟空、という流れでの一幕。めちゃくちゃ泣かす構成。この最後の1行が、次のお話と関連づけられている妙もすばらしい。
これ読みながら通勤してると、ウルウルしちゃうもんだから、大変です(笑)。
西遊記の大きな主題の中に、「大切なものを踏みにじられ、人を恨んで妖怪に変じた悲しみ」という性質の「愛」がありますが、ドラマではどうしても時間の関係でここをしっかり描写できないのが、プロデューサーさんのつらいところだったのではないかと思います。子供をさらっておきながら、自分も子を持つ母である妖怪が、さらった子供を殺せずしっかり食べさせて養っていたりする。そんな妖怪に「妖怪といえど、子を持つ者の心は同じ」と説く三蔵の場面などは、本当に心に沁みます。
西遊記に興味がなくても、ありがたい仏教の教えを楽しく学ぶ本として、たくさんの人に読まれたらいいなぁと思います。
▼おまけ
●西遊記(下) 平岩弓枝 著
●玄奘三蔵―西域・インド紀行
▼単行本
▼文庫本