うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

宗教者側からアプローチするカウンセリング理論

密教的カウンセリングの理論と実践
だいぶ前になりますが、高野山の大師教会へ行ったおり、「ご自由にどうぞ」と置いてあった布教資料『密教的カウンセリングの理論と実践』(高野山真言宗切幡寺の藪崇史 師)を読みました。
レポートを綴じられたような形式の、54ページの冊子です(平成18年3月発行)。
一般書物としての出版のために編集されたものではなく、僧侶のかたや真言教師(真言宗の僧侶)へ向けたものなのですが、その立ち位置から語られる内容にはいろいろと思うことがありました。


<はじめに>に、こうありました。

 現代、日本において一般の方々は、宗教は冠婚葬祭のみに関与し、心の病はカウンセラーは医師が扱うと思っているようであります。事実、街頭にて無造作に僧侶、お寺のイメージについて、アンケートを取ったところ投げやりな意見が多く、「難しい悩みなどは専門期間に相談する」という意見があり、お寺・僧侶に対する意識は、我々の思うところと少しずつ、ずれが生じていると考えられます。我が宗に限っての意見ではありませんが謙虚に受け止めるべきであると考えます。

こういう考えで活動をされている僧侶のかたが、いらっしゃったんです。


そして、続きに、こうありました。

 これから述べます内容は、私自身が宗教者であるが故に敬遠され、受け入れてもらえないボランティアや福祉活動があること、宗教者であるが故に踏み込めない様々な活動を思い知り、何か実社会に於いて踏み出すことはできないかと考えあぐね、まず平成十年度に私一個人で身を投じ学んだ「いのちいの電話(相談員要請講習会及びボランティア実習)」をはじめ「市民ホスピス・福岡(ホスピス活動を志す人たちのためのカウンセリング講座)」「四天王寺カウンセリング講座」「密教福祉講座」日常の檀信徒の教化・相談を通じて改めて真言教師としての取り組みがあるのではなかろうかと浅学で私的見解ではありますが真言教学に照らしてカウンセリングを密教的にとらえてみたのであります。

われわれの世代は、「駆け込み寺」という表現を知っていても、実際にそんな行動はまず起こさない。カウンセリングへも行ったことのない人が多く、わたしもそのひとりです。
この歳にしてはお寺へはよく行くほうだし、そこで機会があれば、みなさんに向けられた説法も聞いてきます。が、そこが「悩み相談の場所」という認識はまったくありません。「相談なんかしたら、面倒くさがられるだろうな」と思います。
このレポートのなかには「僧分として」「真言教師として」という言い方がよく出てきます。駆け込まれなくなった当事者が、一般社会で提供されているカウンセリング場面で学んだ、逆のアプローチからのレポートです。



失敗談の赤裸々さも、胸を打ちます。
<44ページ 密教的カウンセリングにおける変化 より>

 私の失敗談でありますが、「受容・共感」に自信が出てきたと思う頃、うまく面接ができ相手も喜んで帰られた時がありました。しかし後日、御家族から電話があり「もう二度と行きたくない、疲れるだけだと言っている」とお叱りを受けたことがございます。
(中略)
来談者は私のことを「一生懸命に救おうとしていること」は通じたが、「あなたには私の気持ちはわからない」という気持ちは変わらぬまま、私の穿った助言に答えつつ、私が喜ぶであろうと思うことを探りながら話を聞いてもらったのだということでありました。
(中略)
私が満足行くように、悩みをつくり解決し深々と頭をさげて「あなたは素晴らしい、あなたのお陰で救われました」と笑顔で帰って行かれたのであります。

この気持ち、どちらも「あるなぁ、そういうこと」と思います。
わたしは「カウンセラーという職業人」という相手にそもそも構えてしまうような、そんなところがあります。信用や信頼ではなく、何かのメソッドを「適切に当てて対応しくれるだろう。そこまででいいや」と割り切った考え方をしてしまう。こういう考え方をしてしまうわたしのような人には、お坊さんのほうが話しやすい相手になると思います。
西洋医学東洋医学かという話に似たような。



このレポートは、心理学者カール・ロジャース氏の理論を基礎に展開しています。
<21ページ 密教的カウンセリングにおける人間観 より>

 技術というのはカウンセラーの態度の表れであり態度を伝えるために技術が生まれてくるわけですから、態度を重視せずに技術や技法が先行してしまうと過ちを犯すことになってしまいます。ですから技術より来訪者へ向き合うカウンセラーの態度が重要視されることになってきます。さらにはカウンセラーの態度はおのずとカウンセラーのカウンセリングについての考え方、仮説によって決まってくるので、そうした考え方・仮説を充分検討しておかなければならないのであります。
 そして、その仮説はどこから導き出されるのかを問えば、カウンセラーが来談者をどのような人として見ているのか、人間に対してどのように見ているのかという人間観が一番基本になると考えられています。ロジャース氏は人間不信のままカウンセリングを行うことは難しく、不信感を抱いて効果のあるカウンセリングは見込めないのではないかと問うています。

この不信感の背景もまた、一般的にメンタルケアのメソッドが流布すればするほど、ややこしいことになります。「なにも知らなければ、心を開けたかもしれない対応」に対して構えてしまうスパイラル。
わたしはもう完全にそっちに陥っているので、つらいことがあっても、癒しの役割は「自然現象」に求めます。「予約の必要なカウンセリング」というものを信じていない。
わたしがこのレポートを読んでこの場で紹介したいと思ったのは、「駆け込み寺」という機能の本来の意義を見直す真摯な内容であると感じたからです。



自らのダークサイドも、あるがままに観ましょう。と、カウンセラーへの態度への指摘もまっすぐです。
<27ページ カウンセラーの態度と真言教師の態度 より>

真言の教えの中では長所も短所も含めより長所の活用が広く言われますが、その短所に自心で目を向けることの大切さも決して忘れてはならないはずであります。
(中略)
心身の調和と社会生活の調和を計るために無意識に行う防衛機制(適応規制)が心の安定を保っているとされますが、「自分が心の安定を保てないときはどういうときか。また動揺している自分に気付いているか。認めたくない自分や他人の言動はどこか。安定しているときはどのような働きがあるのか。」といった見つめにくい自分と向き合い、目を反らしたい部分をも知ることは、人と向き合うこと、仏と向き合うことと同じ意味を持つものであり等身大の自分を見つめ直すことで世界観、人生観、人間観が広がることも事実であります。

「折り合う」ことの基礎トレーニングとしての瞑想のしんどさが、まさにここにあると感じます。
駆け込み寺が機能していた頃のお坊さんは、ひとりではしんどい内観の対話を仲介するガイド、もしくは、横で寄り添って一緒に仏と対話してくれる同士役をしていたのかもしれません。


お寺巡りはよくしますが、「相談所」としての「どうぞ感」のようなものを感じる場所に出会ったこがありません。これは、僧侶のかたが「宗教者であるが故に敬遠される」という機能喪失感を吐露されているとおり、宗教というものに対する民間の目の向け方もあり、双方が遠慮しあっているような、そんな状況にみえます。


メディア上でしっかり編集された「人生相談」コンテンツも減っているように思います。
インターネットの普及でなんとなく別のことで代替えをしようとしているのだけど、そこでは「仏性」には向き合えない。そんな葛藤の中で膨れ上がっているの情報の海のなかで暮らしているような、そんな気がします。
説法がうまくなくても、文章がうまくなくても、このような考えをもった現代の僧侶のかたに、どんどん発信・活動をしていただきたいものだ。と思いました。
故・藪崇史師のお話は「高野山ラジオ」のアーカイブで聴けるようです。(2007年の法話をみつけました。ご参考まで)