美術と臨床をめぐる対話・・・の《素材化》

画家・永瀬恭一氏とのメールでのやり取り(一部)を、許可を得て以下に転載いたします。 公開を前提としたものではなかったのですが、お互いの関係や発言趣旨の素材化を試みるもので、ブログへの転載は、積極的な趣旨をもった活動にあたります。(私は永瀬氏とは、ネット経由の交流のみで、お会いしたことはありません。)

おだやかなやり取りに見えるかもしれませんが、美術をほとんど知らない私が、実作者の永瀬氏と言葉を交わすことには、強い緊張があります。 それは私にとって、臨床の中心課題である《入門》*1を考察しつつ、自分でそれを生きてみることにもあたる。 メールでは、いきなり永瀬さんの作品を論じるのではなく、その制作過程(を主題化するスタンス)を話題にしています*2


対比して考えていたのは、斎藤環氏の美術論/臨床論です(参照)。 斎藤氏はひきこもる人を、掟の門前で委縮する人になぞらえました(参照)。 ここで彼は、「門の内側」にいて、患者さんは外側にいる。 斎藤氏は、社会への《入門》を果たした後であり、ひきこもる人は、確立された規範の門前でおびえている*3。 専門性も社会性も、評価のフィールドが固定されており、新しく生まれた人や作品は、そこに《入門する》しかない。 そういうスタンスになっています。――これでは、《入門し、入門し続ける》という、社会参加の臨床に必須の主題設定が、内側から検討されていません

    • 【追記1】: ここで赤字にした「内側から」は、「門の内側から」ではなくて、「本人側から」です。 人をカテゴリーに還元して特権化する “当事者主権” は、何度も生き直されなければならない入門過程を、無視している。 主体の危機において必要なのは*4、「役割カテゴリーが構成される」というアイデンティティ論のみならず、本人側から構成するプロセスの生きられ方としてのアイデンティティ論です。 ポストモダン的な《正当化》や、「社会の底が抜けた」と言われる苦しさについては、カテゴリー談義(結果物の自意識)ではなく、主観性が構成される労働過程の病理学としておこなう必要がある。 「脱アイデンティティ」を言いながら、カテゴリー化された当事者性に居直る上野千鶴子的な当事者論(参照)は、この問題を完全に無視しています。
    • 【追記2】: 私の取り組もうとする《当事者発言》は、カテゴリー化された特権でナルシシズムにひたることではなくて、「本人が自分の事情を内側から分節してみる」ことにあたる*5。 そこにあるのは特権化の逆で、むしろ地べたから自分で考え直す、非常にヤバい作業です*6。 ▼“当事者” を特権化したがる人たちは、そのことで差別的な枠組みを温存しつつ、ご自分自身の当事者発言のミッションを排除している(支援する側だけでなく、“当事者” として扱われる本人が、自分で自分を対象化するミッションを抑圧するために、“当事者” という特権に居直ろうとする)。 自分で自分のことを分節してみることは、本当にしんどいし、怖いことです。 (左翼系の、あるいは “善良な” 支援者たちは、差別しなければ支援できない。 支援活動が、差別発言と同じ形をしている。 朝日新聞社員による差別書き込みは、左翼系の支援イデオロギー全体の問題であって、これを記者個人や朝日新聞に還元しては、考えるべきことを見失ってしまう。)



「入門し終えた人は、ふんぞり返って後輩が入ってくるのを待てばよい」――こういう粗暴さと戦うことが、社会参加の臨床ではないでしょうか。 それは、甘やかして全面受容することではない。 「内側に」いれるのではなく、いわば《境界線上》をこそ支えること、そのプロセスに参加してもらうこと。(安易に内部化もしないかわりに、安易に「外部にいる」と居直ることも認めない。人は常にすでに、なんらかの制度性を生きているし、お互いを巻き込んでいるのですから。)

分節をプロセスとして生き、そのまま死んでいく。 完成形はないし、「入門し終えた」とは言えない。 「わたしの入門は完成した」と言い張る人は、「入門できない」苦痛について、臨床的な主題化ができていない(いくら外面として「ひきこもり臨床」に取り組んでいても)。 社会順応の臨床を考察する人が、自分の順応スタイルについては対象化しない奇妙さ。


不登校や引きこもりでは、《入門する》体験が、ほとんど trauma のようになっています。 学問への入門だけでなく、コミュニティや専門性への入門についても*7。 そこで必要なのは、「門の内側から」声をかけ、自意識を「忘れさせる」ことではなく、いわば門の境界上にとどまって、自分のいる場所を分節してみせることではないでしょうか。――これは、楽な作業ではありません。 また、「自分は専門家だ」という安易なナルシシズムを禁止するため、ルーチン化した専門性に居直ろうとする人たちには、不興を買うことになります。








以下、強調はすべて、当ブログ管理者の上山によります。
また、文脈を理解するための注を少しだけ入れています。
(相手の前便からの引用部分は、もういちど四角に囲っています。)

*1:既存の専門ジャンルへの、また人間関係やコミュニティへの《入門》

*2:「作品がつくられ、それが社会的な評価を受ける」という文脈と、「自分をつくりあげ、それが評価を受ける(社会参加する)」という文脈は、モチーフを共有するし、そこを話題にしなければ、大事なことを何も論じられない、と感じつつあります。 とりわけ私はそこに、《プロセス》 《入門》 という契機を導入しようとしています。

*3:一般に「専門性」は、こんなふうに理解されていると思います。 専門家や有資格者になってしまえば、もう “哲学的な” 込み入ったことを考えなくてよい、と。

*4:逆にいうと、これまでの当事者論は、カテゴリー化することで救える危機を扱うばかりで、主体の構成プロセスとしての危機を主題化してこなかった。 しかし、とりわけ「ひきこもり」において問題となっているのは、主体の構成されるプロセスでの危機です。 医師・アカデミシャン・取材者・支援者、それに「ひきこもり経験者」たちは、誰もこのことを話題にしていない。

*5:以前の私は、このあたりが方法論として自覚できていませんでした。

*6:「当事者性の尊重とは、差別して温存することだ」と思い込んできた人たちは、その私の取り組み趣旨に気がつくと青ざめる。

*7:その裏面として、幼稚な権威主義、順応主義、自意識の居直りなどが散見される。 アタッチメントの上で格闘するしんどさはないままに、「できたことにしてしまう」傲慢さ。

3月31日 上山→永瀬

 (フリーペーパーの)永瀬さんと上田さんのご論考も読ませていただきました。詳細は控えますが、「基盤を考えたい/その考察が基盤として機能してほしい」という永瀬さんの取り組みに、強く共鳴しています。
 拙論について、的確なご説明をいただきました。 「動かすこと」が、制作それ自体に内在する必要がある――これは、《つながり》を強調するばかりの社会学主義とも別だと思います。
 「どうやって動かそうとするか」に、立場や方法があるように見えてきました(斎藤環はそれをマーケットに限定)。と同時に、「芸術と臨床の仕事は、止まっているものを動かすことだ」という考えについて、いまだ私が詳細に論じる能力を持っていないことに、今回のご依頼で直面しました。
 こうして「紙の現物がある」こと、それが展覧会という場に出されたことに、とても感謝しています。まさに、《素材化》のチャンスをいただきました。




4月2日 上山→永瀬

 日程の最中にもかかわらず、真摯なメールをありがとうございます。
 「敬称のつけ忘れ」は私もよくやらかして、お詫びメールを出していますので、お気遣いなく。・・・・気になるのは、むしろ私や永瀬さんがしているような、「制作過程やインフラを問題にする」ような努力が、多くの人を怒らせることそのものです。(固有名は、ナルシシズムの最も敏感な装置です)
 私は、制度分析を話題にすることで、そのつどトラブルの可能性に怯えるようにもなっています。それほどトラブルになりやすい話題だと思うのです、これは。いわば、相手のナルシシズムの前提になっている部分に抵触してしまう。相手が「これをやればオッケーだ」と思い込んでいる、その土台部分に触ってしまうのですから。
 ゲーム的に点数化されれば、ナルシシズムの毀損は「点が取れなかった」で済みますし、納得できる。しかし、ゲーム・システムそのものをいじり始めると、激怒されることがあるのです。
 だからこそ、永瀬さんから声をかけていただいたことは嬉しかったですし、そういう怯えは、じつはお互いに残り続けるように思うのです。
 私が美術に言及することを「怖い」と感じたのも、そういうことと無縁ではないように思います。




4月3日 永瀬→上山

 『「制作過程やインフラを問題にする」ような努力が、多くの人を怒らせることそのものです。』というご忠告・ご指摘は、とても真剣に受け取りました。
 今後十分にありうると思います。
 また、私たちの間にもこういった問題は起こりうる。
 私が再三「応用ではない」といいながら、恣意的に上山様の思考を援用しているかもしれない、という事はこの企画の最中、そして今も実感としてありました。
 こういった具体的な事がどこかで発火する可能性はあります。上山様の慎重さを見習うべきかもしれません。


 若干異なった、しかしどこか似た話として、私たち美術に関わるものの世界では、「作家は黙って良い作品を作れ」というイデオロギーがあります。
 作り手が、作品批評なり美術史に意識的な発言や分析なりをすると、決まってこういう言説が現れ、一方的に怒られたり軽蔑されたりします。
 ここでは何が「良い作品」なのかが問われない。正確にはその権限(権力)は美術批評家なり美術館学芸員なり画廊なりが握っていて、無力で盲目な作家がむやみに作った作品を一方的にジャッジするんですね。
 その方が作家は「純粋」ということになりますーそして勿論、もの言う(分析する)作家は「不純」と言われる。
 この抑圧は生理的なまでに美術業界の構成員に内面化されています。
 私でも未だにあれこれ考えたことを明らかにする美術家は“汚い”のではないか、という自己嫌悪を捨てきれません。


 しかし、あたりまえですが「良い」「悪い」の判断が最も必要なのは現場の作家です。そして、その判断の為には先行する、あるいは同時代の作品の分析が欠かせないし、それらの作品が作られ評価された文脈の検討も必要になる。
 結果、賢い作家は黙って(目につかないところで)こっそりとそれをやるし、哀れで純真な作家は本当に盲目に、なんの羅針盤も持たず製作して99%が人生を棒にふって残り1%の宝くじに当たった作家が適宜美術業界のモードに乗ってファッショナブルに消費され数年で忘れられます。
 状況はシリアスです。

評価態勢を固定させる批評家と、「純粋でいる」ことを要求される作家。
この同じ構図が、「社会復帰をがんばる人たち」の周辺にいえそうに思います。
不登校や引きこもりの経験者は、なぜか「純粋で善意の人たち」、つまり支援イデオロギーのカモみたいになることを要求される。自前の政治的意見を持ちはじめると、支援コミュニティにいられなくなる。そしてよく考えると、社会生活が政治的でしかあり得ない以上、自律的意見の標榜が対立を生むのは、当たり前です。



4月6日 上山→永瀬

 文脈は違いますが、ひきこもる人が社会参加しようとするとき、なぜか「分別もあり、批判も試みる大人」としてではなく、「純真で疑いを持たない子ども」のような社会復帰を望まれる、そういう抑圧を常に感じるのですが、「社会に入っておいで」と待ち受ける《親/批評家》の受容態勢の、身勝手な恣意性を感じます。(批評家のその「批評態度」は分析されないでいいのか、という)
 「何が受け入れられ、何が排除されるのか」というのは、とても政治的で、その判断のあり方について、分析が必要です。――分析の結果がいいか悪いかの前に、「分析してもかまわない」という雰囲気すらない。永瀬さんが私の議論に興味を向けてくださったのは、分析が禁じられた状況への苛立ちとかかわるのではないでしょうか。逆にいうと、その分析のプロセスでしかご一緒できない。(それが「組立」というご企画と理解しました。)

 また、私たちの間にもこういった問題は起こりうる。私が再三「応用ではない」といいながら、恣意的に上山様の思考を援用しているかもしれない、という事はこの企画の最中、そして今も実感としてありました。

 このような不安こそが、必要だと思うのです。イデオロギーを共有してなれ合うのではなく、分析は常にトラブル因であり得る、その不安とともに分析を続ける、その作業でしかご一緒できない。こういう不安定さこそが唯一あり得る「つながりかた」というか。(「つながろうとすれば繋がれる」ではないと思うのです。むしろ「つながること」は、お互いにとって抑圧であり得る。)
 「それぞれのジャンルで、自分のいる場所を分析してみる。その分析どうしが出会う」というのが、私が理解する制度分析で、永瀬さんは、その貴重な機会を与えてくださったと感じています。


 「結果的な作品」というだけでなく、「つながりの作り方」が、提案されているのだと思います。
 私はひきこもりに関して、単に「社会復帰率」で勝負するのではなく、「社会に復帰し続ける、その参加の制作過程」にこそ照準すべきという立場でやっています。
 気になるのは、こういう作業は孤立しがちということです。永瀬さんの問題意識は、その着手のスタンスにおいて、私のひきこもりへのアプローチと接点をもったのではないか…と思いました。




4月7日 永瀬→上山

 今回、上山さんに頂いたメールが重要な内容であると感じています。
 頂いたメールで

 「何が受け入れられ、何が排除されるのか」というのは、とても政治的で、その判断のあり方について、分析が必要です。――分析の結果がいいか悪いかの前に、「分析してもかまわない」という雰囲気すらない。永瀬さんが私の議論に興味を向けてくださったのは、分析が禁じられた状況への苛立ちとかかわるのではないでしょうか。逆にいうと、その分析のプロセスでしかご一緒できない。(それが「組立」というご企画と理解しました。)

 「それぞれのジャンルで、自分のいる場所を分析してみる。その分析どうしが出会う」というのが、私が理解する制度分析で、永瀬さんは、その貴重な機会を与えてくださったと感じています。

 この箇所がとても大切に思えました。
 まず端的に言って、私自身が上山さんのお考えを不十分にしか咀嚼しておらず、その結果私が上山さんから影響をうけた(という言い方をお許しください)「組立」と、上山さんご自身のおっしゃる「制度分析」は異なる−しかもそれは上山さんにとって最も重要なポイントを外した差異でもありましょう。


 「異なるものが接点を持つ」という言い方には危うさが在ります。いわばそこには、曖昧で不十分な「制度分析」が、半ば“アリバイ工作”的に入り込む可能性がある。
 私自身、今後上山さんのお考えを十分理解した上で、自分の考えを組立てる過程が必要だと感じております(そのような過程を経て初めて高いレベルでの「異なるものが接点を持つ」ことが可能でしょう)。


 また、『「社会に復帰し続ける、その参加の制作過程」』という箇所、ことに『復帰し続ける』という表現に、上山さんのお考えのユニーク性が感じ取れます。「復帰」それじたいの目的化ではない、「復帰」していても「復帰」できなくとも、どちらにせよいわば絶え間ない検証が必要なのでしょう。「復帰」それ自体の内実が検討されなければならない。


 まったく異なる文脈の話ですが、昨年『ディスポジション』という本が出ている事をご存知でしょうか。キャッチコピーが『明晰判明な主観認識にもとづく世界観の専横を脱し、より「うまくいく」世界の可能性を探るための、次代を担う理論家/実践家たちによる討議と思考の記録。』というものでした。
 私は実はこの本を部分的にしか読んでいないのですが(平倉圭さんという方のマチス論が興味深いです)、上山さんのお考えとどこか交差する視点なのかな、という感覚と、同時にここでは「うまくいく」ことが前提的によしとされている可能性がないか(うまくいく、という言葉の内実は検証されていないのではないか)、という印象を持っています。


 トラブル、というのは勿論ネガティブな事態でしょうし、それが深刻なものになる危険性は意識する必要がありましょうが、ポジティブに見れば、それはいわば複数の交渉主体の「交渉現場の顕現」でもありうると思えます。もっともクリティカルな「交渉」が必要となる場面で、そこでこそ初めてお互いの「譲れない差異」が露呈する。
 トラブルそれ自体を封印してしまうのはよくないことで、もしトラブルが起きたのなら、そこでこそ前向きな分析が必要になると思います。いわば「うまくいかなかった」時にこそ、大切な〈素材〉がはっきりするのではないでしょうか。




4月16日 上山→永瀬

 『社会に復帰し続ける、その参加の制作過程』という箇所、ことに『復帰し続ける』という表現に、上山さんのお考えのユニーク性が感じ取れます。

 こういうディテールに気づいてくださるのが、本当にうれしいです。
 (このあたりの話は、本当に全く通じないのです)


 15日は、兵庫県立美術館に、「ピカソとクレーの生きた時代」展に行ってきました。
 個人的に、ジョルジュ・ブラック、 マックス・ベックマン、 アンドレ・ドランが発見でした。
 永瀬さんの影響もあってか、「絵を観る」のが楽しくなってきています…。


 なんというか、《動き》が出てきている感じです。
 わたし自身が臨床を生きているというか。


 知人から、「絵を見ることは、文法の発明のされかたの発見だ」という考えを教わりました。 そこで、《制度》という批評概念にあらためて出会っています。


 柳澤田実氏らの『ディスポジション:配置としての世界―哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に向けて』(現代企画室)、出版時から気になっています。

 同時にここでは「うまくいく」ことが前提的によしとされている可能性がないか(うまくいく、という言葉の内実は検証されていないのではないか)、という印象を持っています。

 なるほど。
 この問題意識は、

    • うまくいって見えるものをさらに素材化する姿勢がない(完成形のナルシシズム
    • 相手の制作過程への介入というかたちで、自分の制作過程も試練=批評に晒される(批評と実作の、プロセス相互性)という主題がない
    • 結果物をメタに論じるだけで、論じる作業は、生産態勢として固定されている

 ――などと言えるでしょうか。
 正当化のスタンスが、暗黙の前提のままになっている。

 トラブルそれ自体を封印してしまうのはよくないことで、もしトラブルが起きたのなら、そこでこそ前向きな分析が必要になると思います。いわば「うまくいかなかった」時にこそ、大切な〈素材〉がはっきりするのではないでしょうか。

 もう、まったくこれこそが主題なのです!
 トラブルにおいてこそ、主題化すべきことが露呈する。というか、主題化のあり方が変わるわけです。私は自分について、こういう「問題化のスタイル」そのものが反感を買っていると感じています。


 単なる相対主義や「スキゾの放置」ではなく、また、あらかじめ「○○すべきだ」という正義を設定するのでもなく、いわば正当化の「労働方針」こそが素材化される。
 これは、わたしが臨床や思想を考えるときの核心です。とはいえ、マーケットをふくむ大きな「正当化の流れ」があるときに、どう抵抗すればいいのか…。


 うまくいっているときは、素材が壁に塗り込められている。「うまくいっていることにする」ために、いろんなことが抑圧されている。素材化すると、うまくいったことにしておきたい人たちの労働のナルシシズムに抵触するので、怒りを買うことになる。
 トラブルでは、責任を個人に還元するのではなく、《状況を論じる》必要がありますが、それは単に「社会のせいにする」のでもなくて、私たち一人ひとりの姿勢も、《状況の一部》であるはずです。(ほとんどのコミュニティは、自分たちの生産態勢に無頓着なまま論じている。)


 生産態勢を固定することは、責任の所在を問い詰めるロジックを固定することです。ルーチンワークが崩れれば、「お前がミスした」になる。でも、その問い詰めじたいが、生産態勢を固定しなければあり得ない問い詰めです。
 それゆえ「生産態勢をプロセスとして問うこと」は、そのまま責任論になります。(生産過程論は、法思想や倫理を巻き込む。)


 ・・・・ここで私たちが交わしているような議論は、孤立しているのでしょうか?
 現代思想系の何人かの論者を思いつくのですが、永瀬さんとさせていただいているような議論は、ほとんど見当たらないと感じているのですが…。機会がありましたら、ご教示いただければ幸いです。




4月17日 永瀬→上山

 もっと枠組みをゆるめてしまう、つまり私が把握できている程度に上山さんのお考えを単純化してしまえば、私には世界中の美術作品、あるいは美術史そのものが、一種の制度分析あるいは各作家の歴史や環境との交渉過程の log に見えて来ます。
 このlogという言い方は濱野智史さんの議論とも絡むものです(参照)。
 自分に引きつけてお話するのをお許しいただけば、私の作品は、キャンバスや絵の具といったマテリアルあるいは美術史・同時代の美術状況と私(という主体)の、道具を仲立ちにした「交渉」の痕跡の集積であり一種の議事録として考えています(こういう視点だと、工芸的に表面が仕上げられて「交渉過程」が隠蔽された作品が縁遠くなります)。


 …ここまで拡散させてしまうと上山さんのお考えから離れ過ぎかもしれません。
 しかし、たとえば「作家活動が上手くいく(作品が市場にのる)/上手くいかない(作品が流通しない)」という状況を当事者として分析することが上山さんの問題式とかさなる、とするなら、そこから「作品が上手くいっている(良い絵になっている)/上手くいかない(良い絵になっていない)」という制作現場の分析までは、ほんの一歩だと思えます。


 この時、問題になるのは、そこでの「良い/悪い」という価値判断はどのような文脈、あるいは根拠によって支えられているのか、という分析となります。美術館や市場が「良い/悪い」とジャッジしている根拠や理由を問うように、自分が自分の作品を「良くなっている/悪くなっている」と制作過程で判断する、その根拠や理由が問われます。
 一般に、その根拠や理由は、大文字の「美術史」に求められる。とするなら、今度は「大文字の美術史の根拠は何か」という分析が必然的に発生します。


 面白い話があって、戦後美術批評の中心的存在であるクレメント・グリーンバーグが「あなたがジャクソン・ポロックを見いだした」と言われたときの答えが「いや、マチスが良いとされている場所なら、ポロックはいずれ誰かが見いだしたのだ」というような答え方をしています。
 つまり、マチスが素晴らしいとされる美術史構造がポロックをよしとしたので、私が見いだすとかそういうことはない、という返事ですね。
 この話の興味深いところは「ではマチスを良くない、とする美術史を考えたらどうなるか」という設定が可能になる事です。
 こうして美術史、ひいては各現場の「良い/悪い」の判断は根拠レスになり、従って美術状況全体がアナーキーになっていく。


 …と、まさに一通前の私のメールで書いたような、上山さんのお考えの勝手な援用を実演してしまったのですが、いずれにせよ「美術」という、価値の闘争のフィールドに上山さんが興味を持って近づいていかれるのは、私から見ればごく必然的に思えますし、上山さんご自身に内在した動機ではないかと想像します。 「絵を見ることは、文法の発明のされかたの発見だ」というお知り合いのお考えは、私も大変に共感します。


 『ディスポジション』に関しては、なにぶん通読もしていませんので、一度ゆっくり読んでみようと思います。
 こういった試みが、上山さんの文脈とは無関係に、しかし同時代にどこかクロスする形で出てくるのは、上山さんのお考えのアクチュアリティの証拠のようにも思えますね(しかし、それがまさに「上手く流通するか/しないか」の差異、その制度性こそ分析されるべきですが。もちろん、上手く流通するのが良くない/流通しないのが良くない、という話ではない。反復になりますが、それぞれに分析され続けなければならない)。


 トラブルの分析にこそ主題がある、というお話は、もっと生活の実感として受け止められました。
 私は都内の小さな会社で賃労働をしていますが、「生産態勢を固定することは、責任の所在を問い詰めるロジックを固定することです。」という上山さんのお話はひりひりとした毎日の実感としてあります。
 これは、むしろ自分がかなりの程度労働現場で「上手くやってる」からこその怖さなんです。
 なぜ上手くやれているからといえば、まさに『生産態勢を固定』しているからです。それは外的な制度の問題ではない。私の内的な精神がルーチンワークの生産過程の固定形態としてある。



価値判断へのアナキズムがあるからと言って、私たちは臨床性について、「なんでもあり」なんて言えるでしょうか? 身体が絡んだとたん、古色蒼然たる近代主義が召喚され、「まじめさ」以外許されなくなる。 ポストモダン的な「スキゾ」なんて、表面的なお遊びでしかなかった――それどころか、「なんでもあり」の流行は、バックラッシュ的に昨今の「まじめさ」信仰を強化しているようにも見える。 不況による経済的逼迫(ひっぱく)は、「まじめさ」へのオブセッションをますます強化しています。

《社会的正当性》を、どう調達するのか。 これは、経済的切実さと切っても切れません。 相手のやっていることへの介入は、そういうものへの基盤まで壊しかねないので、本当にバトルになる。



4月23日 上山→永瀬

 私には世界中の美術作品、あるいは美術史そのものが、一種の制度分析あるいは各作家の歴史や環境との交渉過程のlogに見えて来ます。このlogという言い方は濱野智史さんの議論とも絡むものです。 (略) 私の作品は、キャンバスや絵の具といったマテリアルあるいは美術史・同時代の美術状況と私(という主体)の、道具を仲立ちにした「交渉」の痕跡の集積であり一種の議事録として考えています(こういう視点だと、工芸的に表面が仕上げられて「交渉過程」が隠蔽された作品が縁遠くなります)。

 私はこれを、《社会参加の臨床》というモチーフで考えているのではないか…。

    • 何をもって「社会参加に成功した」と見なすか
    • 苦痛緩和に有益なことは何か

という議題設定なしに、専門性だけを強調するのは、順応主義の誇示にすぎない。 それは「社会参加の臨床」にとって、有害というか、マッチポンプ的な態度ではないか。


 ご紹介いただいた濱野さんの文章、おもしろいです。
 「建築家不要論」に即していえば、「臨床家不要論」がある。
 多くの患者さんは精神科医を「クスリの販売機」みたいに考えていて、それ以上の機能を期待していない。臨床心理学からも、『「心の専門家」はいらない (新書y)』として、クライアントへの操作主義でしかないような技法や、「こころのケア」のイデオロギー性が否定される。


 社会参加をめぐる苦痛を、固有の文脈を無視した専門用語に還元して「論じた」つもり、「対応した」つもりになることの犯罪性というか。 順応を論じている本人の幼稚な順応主義。
 いずれのばあいも問題は、交渉過程の複雑さを捨象・抑圧することでしょう。 苦痛の来歴を問うことが、専門性の来歴を問うことと同時にないと、作業場そのものがウソになってしまう。(それは事後的には、法的な紛争処理の粗雑さになります。)


 これは、コミュニティが無自覚的なイデオロギーに支配されていることでもあります。 お互いへの批評を拒否する「フランクな」関係性は、じつはひどく抑圧的だったりする。 永瀬さんも少し書いてくださいましたが、中身がどうこうじゃなくて、考えようとする態度が否定されるわけです。
 「○○不要論」は、じつは仕事の作業場そのものを主題化することではないでしょうか。 必要なのは、専門職をベタに締めつけなおすことではなく、ルーチンとして設定された「専門的な仕事」の現場が、交渉過程を再度根源化することではないか。


 こう考えてくると、作家性の神話は、創造性の尊重に見えて、じつはそれ自体が順応主義に思えます。むしろ現場を考え直す分析のていねいさのほうに、創造性というか、開かれた要因がある。(「交渉過程の根源化」は、悪しき原理主義ではなく、開放的なプロセスの提示を、イデオロギーとは別のかたちで行なうことだと思います。)




4月23日 永瀬→上山

 私はこれを、《社会参加の臨床》というモチーフで考えているのではないか…。

    • 何をもって「社会参加に成功した」と見なすか
    • 苦痛緩和に有益なことは何か

 という議題設定なしに、専門性だけを強調するのは、順応主義の誇示にすぎない。それは「社会参加の臨床」にとって、有害というか、マッチポンプ的な態度ではないか。

 というご指摘ですが、これこそまさに実践的な思考(哲学)と感じました。
 そして、必然的に「成功」「有益」という語の内実が問われる。 「現実的」に切断してしまえば経済的自立こそが「成功」の基準となり、そのことによる社会承認が得られれば「有益」となりましょうか。
 しかし、これだけに単純化してしまえばそれこそ社会システムに「順応せよ」ということにしかならない。 このアポリアを問う中で「専門性」は自然に “ほどけて” いく、つまりその専門性を担保している自明の前提的効果(「専門」とは現実から切り出された問題に対する解決効果を上げられる技能のことですから)が問い直される筈と理解しています。逆説的に言えば、専門性の危うさが問われない専門家の問いは問いとして十分ではない。すなわち、

 苦痛の来歴を問うことが、専門性の来歴を問うことと同時にないと、作業場そのものがウソになってしまう

というわけですね。

 社会参加をめぐる苦痛を、固有の文脈を無視した専門用語に還元して「論じた」つもり、「対応した」つもりになる

 この箇所は、目の前の困難から自分を引き離して(抽象化して)、個々のディティールを専門用語という一般論、あるいはクリシェに置き換え流通しやすくする、つまり通俗化することが「専門家」の生業として経済構造に組み入れられていることから発生するように思います。 個別の問題を、その問題に切実でないマジョリティに通訳して対価を得ることが、現場の問題をリアルに考えるよりも経済的に “効率良く効果的” なのではないか。 そこで個別の現場は置き去りになる。


 これは、美術家、美術批評家においても同様でしょう。 上山さんの「作家性の神話は、創造性の尊重に見えて、じつはそれ自体が順応主義に思えます。」というご指摘は、こういうふうにも捉えられるように思えます。 状況は更に倒錯していて、「専門的一般論」のような意味不明な語句に “合わせた(順応させた)” 作品=現場が要請されねつ造される(スーパーフラット、なる概念が先験的に措定されてそれに「順応した」作品が要請されたり生産されたりする)。
 同時に、こういった検討はそれ自体が閉じてしまうと危険だ、というのは制作や発表の場で切実に感じるところです。 上山さんの

 むしろ現場を考え直す分析のていねいさのほうに、創造性というか、開かれた要因がある。(「交渉過程の根源化」は、悪しき原理主義ではなく、開放的なプロセスの提示を、イデオロギーとは別のかたちで行なうことだと思います。)

 といったところが、焦点になりましょう。 「交渉過程の根源化」が解放系を形成する、そのキーは、おそらく終わらない実践にしか求めようがないのかもしれません。 しかしそれ自体がアリバイ工作化する危険は常にある。
 濱野さんの議論はそこを個人の内面の問題ではなく、システム環境的に解決してしまおうという視点に見えてきます。これはとても「健全」な視点ですし、なんと言っても軽みがあって面白い。検討の過程を公開してしまう、そこに実際に第三者が介入しようとしまいと、視線にさらされるという意識によって状況が解放されるかもしれない。そこは意外と「近代的」な話で、フーコーの権力論=見られているという可能性/視線の織り込みが機能するのかもしれない。というよりは、近代に思弁的に語られた事の即物的、工学的な実現がステージを次に移していく、という議論(一時期されていたように思います)かもしれませんが。
 私たちのやりとりの公開も、濱野さんの問題意識と平行するかもしれません。



制度性の分析をすることは、それ自体がアリバイと化す危険がある。まったくそう思います。
斎藤環さんは、臨床と作品づくりへの外部性の担保を、「マーケット(市場)」に一元化したのだと思いますが(参照)、これはつまり、交渉関係を《売り-買い》に一元化している。 相手の制作過程ではなく、結果物のレベルにのみ干渉する。 自分も、相手に利用される商品(サービス)になる。
それに対して、制作過程・交渉過程の来歴や構成のされ方を問うとして、それは商品売買以上に、お互いのあり方に干渉することになります。 ここには、ひどい党派性と、それゆえの自閉的ナルシシズムがあり得る。
制度性を問い直す相互干渉の技法論が、社会思想などの文脈も参照しつつ、検討されなければならないと思います*1。 お互いの制作プロセスに照準した臨床論は、政治(集団的意思決定)を、どうマネジメントするのか。 またそれは、中・長期的な政策方針を、どう打ち出すのか。(お互いの関係がつねにリアルタイムに政治化されるなら、長期的方針が立てられません。)



*1:精神分析であれば、面接室のなかでしか介入がない。 技法論は、面接室にかぎることができます。 しかし、制度分析では…?