高い志にもかかわらず、自分でも嫌っている殺戮と惨禍をひき起こす連中……






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 フランス革命史において、まさにリヨンの叛乱は、最も血なまぐさい殺伐の数頁の一つであるが、しかもこれをひもとく者はまれである。しかも当時まだ小市民的な農業国であってフランスにおいて、第一の工業都市であり絹製造業の本場であったリヨン市は、社会的階級の対立が先鋭化していた点で、どのような都市にもまさり、パリさえもぬていた。まだブルジョワ的色彩をおびていた一七九二年の革命の最中に、この都市の労働者は、すでに明瞭な形で、王党的な資本家的な考えを抱いている企業か階級と劃然と区別せられるプロレタリア群を形成したのだが、これも全国においてはじめてのことだった。このように葛藤の熾烈な土地柄だったからこそ、革命でも反動でも、それが殺伐無頼、過激きわまる形をとってあらわれてきたことは、べつにふしぎではないのである。
 ジャコバン党ひいきの連中、それに労働者や失業者群は、世界的変革に際してとつぜん社会の表面に浮かびあがってくる型の例のふしぎな人物の一人を中心にして、グループをなしていた。そういう人物といえば、ごく純真な理想主義肌の人間なのだが、きわめて残忍な実際政治家や野獣的なテロリスト以上に、その奉ずる信念のために、かえってますます大きな災禍をひき起こし、その理想主義のゆえに、かえってますます多くの流血の惨事を招くものだが、この男もまたそういう型の一人だった。高い志にもかかわらず、自分でも嫌っている殺戮と惨禍をひき起こすのは、いつでもこういう純粋な信念の人、宗教的で夢中になる人、世界を変革し改善しようとする人であろう。リヨンのこういう型の人物はシャリエと呼ばれ、還俗した僧侶で、もとは商人だった男である。この男にとっては革命はふたたびキリスト教、正しい真のキリスト教となり、彼は自己犠牲的な迷信的な愛をささげて革命に愛着していた。理性と平等に人類を昂めることは、この激情的なジャン=ジャック=ルソーの愛読者には、それだけで一千年王国の実現を意味した。彼の狂信的な燃えるような人類愛は、まさにこの世界炎上のうちにこそ、新しい不滅の人間性の黎明を認めていた。なんという感傷的な幻想家であろう。
    −−シュテファン・ツワイク(高橋禎二・秋山英夫訳)『ジョゼフ・フーシェ ある政治的人間の肖像』岩波文庫、1979年、52−53頁。

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※またしてもtwitterの連投のまとめで恐縮ですが、やっぱり、僕はこの問題に対してははっきりと言っておくべきだと思うから残しておく。

はい。


しかし、どうして政府と東電の不備として出来する放射能汚染(外部被爆・内部被爆)の問題を「現地に住むひとびと」の責任問題として片づけてしまうのだろうか。

短絡的にもほどがある。

責めるべきはそこに住まう人間じゃないだろう。

集団神経症は否定しないよ。

そして現実の汚染拡大は否定できない。だけど、ねぇ、だけど、責めるべき対象を間違っていることだけは確かだ。

どうして、汚染防御の議論が、そこに住むひとびとや暮らし、そして生活というものを「ケガレ」の如く排除する議論をしなきゃならないんだ。

特に東京に住んでいる人間はこの手の議論が先鋭化している嫌いがある。

例えば、「少なくとも今の検査体制のままで、○○の産物を流通させるのだけはやめさせてください」っていうような言い方をよく拝見する(晒さないけどネ)。

しかし、誰にいっているのだろうか????

内部被爆とその拡散は重大な問題だとは理解している。山下某とかの肩を持とうなんてこれっぽっちも持とうとは思わない。

しかし、その安全を図ろうとする言語が、どれだけ妥当性があろうとも、言明対象を欠如したような言い方ぐらいはやめてくれ。

言明対象を措定できない議論は結局の所、「独白」にすぎない。要するに「独り言」。
しかし、それが発話の形であれ、活字として表出されるものであれ、それがいったん「表現」という形をとってしまうと、それは「毒にも薬にもなる」っていうのはどの問題でも同じだ。

このルールを守ることの出来ないエクリチュールほど無責任なものはない。批判対象としての東電・国家と五十歩百歩ですよ・

そして、そのエクリチュールがどれだけ妥当性があるものだろうとしても、軽々しくそうした言述を遂行する発話者の人間性というものを僕は信頼することはできない。

いやな言い方だけどはっきり言っておく。

結局のところ、自分だけは助かりたいって話しでしょ、ぶっちゃけたところ。

その心根は否定しないよ。なにしろそれは本能としての人間の生きんとする意志だからけど(=生存への欲望だから)。

だけど、それを表現する上では、工夫がいるんだ。

どうしてみんな智慧を使わない。

とってつけただけのような知識だけを流通させてサ。

くどいけれども、繰り返す。

はっきりいえばいいじゃないか。

自分以外の人間は、震災にともなう千差万別の労苦で死に絶えようが、私は健康で生き残りたいって!!!

そういう話しでしょ、結局の所。

逆説的ですが、そこまで開き直れるなら僕はその勇気をたたえたい。
しかし自分の言葉を使わずに、テキトーな言論でサイレントマジョリティを決め込むことだけは許容できない。

誤解をまねくとやだけど、現在の規準を安全「神話」として受容しろボケって話しではないですよ。

だけど安全性を追求とそれを享受する「人間の範囲」っていうのはどこやねんって話しですよ。

人間とは何かっていう探究を欠如したうわっつら議論は、僕は大嫌いだ。

おとといきやがれって話しですよ。

人文科学者は数値の真偽議論には参加できない。

だけど、その議論がどのような仕組・先験的認識枠組みで推移しているのかぐらいは理解できる。

はっきりいうが、それがどれだけ真理にちかかろうが、その真理に近づく為に「やむを得ない犠牲」ってあるよねって精神を僕はどこまで許容することはできない。

自分や家族の安全確保の為にに情報を集めることは推奨されてしかるべきだ。

しかしその行為が、他者の不幸の上に構築されることを何ら痛痒とも思わない人間を僕は信用しない。

「ごく純真な理想主義肌の人間なのだが、きわめて残忍な実際政治家や野獣的なテロリスト以上に、その奉ずる信念のために、かえってますます大きな災禍をひき起こし、その理想主義のゆえに、かえってますます多くの流血の惨事を招くものだが、この男もまたそういう型の一人だった。高い志にもかかわらず、自分でも嫌っている殺戮と惨禍をひき起こすのは、いつでもこういう純粋な信念の人、宗教的で夢中になる人、世界を変革し改善しようとする人であろう」……っていう「引き裂かれた男」ツヴァイク(Stefan Zweig,1881−1942)の指摘は、「かつてあった」って話しじゃねぇや。

以上。





⇒ ココログ版 高い志にもかかわらず、自分でも嫌っている殺戮と惨禍をひき起こす連中……: Essais d'herméneutique


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