覚え書:「野坂昭如の『七転び八起き』 第197回 対テロ策 首相の言葉 軍部に似て」、『毎日新聞』2015年02月10日(火)付。

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野坂昭如の「七転び八起き」
第197回 対テロ策 首相の言葉 軍部に似て

 先日、東京にも雪が降り、底冷えの日が続く。2月に入りこのあたりまでが1年で一番寒い。近頃は凍るような寒空を歩くこともなくなったが、昔でいえば明日は紀元節。寒さの厳しい身体のどこかで覚えている。
 ぼくにとって、2月11日は建国記念の日というより、紀元節の方がなじみ深い。ぼくが子供の頃、紀元節の日にはよそ行きのちょっといい服を着せられた。国民全員で祝う祝日である。ぼくらは校庭に集まり、校長先生の祝辞をうけたまわった。この時、生徒は直立不動、手はズボンの横にピンと伸ばさなければいけない。だが寒くてどうしても手がかじかんでしまう。伸ばすのに苦労した。
 昭和20年の2月、ぼくは中学2年。その頃は授業にかわって、壕の整備、家屋疎開など勤労奉仕の日々。疎開した家をぼくらが解体する。まだ使えそうなものは大八車に載せ、学校へ運ぶ。建物疎開は抜き打ちの格好で行われていた。準備する時間もなくたいていは荷物もそこそこに逃げ出したような有りさま。まだ家のあちこちに、つい昨日までの暮らしぶりが残っている。そんな家を引き倒すのは嫌な作業だった。疎開は防空上の見地、延焼を防止するため、また、交通の便宜のために行われ、新聞には「明日とは言わず、直ちに移転の覚悟」と掲載されていた。
 昭和19年の2月11日、戦争のただ中、今も記憶に残る新聞記事、「神州必勝の雄叫び、紀元の佳節に決意あらた」。これは紀元節の日に、宮城に集う国民の姿をあらわした見出しである。その1年後、昭和20年のこのあたりになると、東京は銀座周辺の都市部が空襲にやられていた。ぼくの住んでいた神戸は、2月4、5、6、8日と、次々と空襲を受けた。それまで空襲といえば、港湾施設、航空機工場など軍需産業が目標だった。
 昭和20年2月6日の爆弾投下は軍需工場とは関係のない神戸の中心街だった。夜中のことで元町の喫茶店に爆弾が落ち、多くが死んだ。続いて2月8日、この日神戸にしては珍しい大雪が降った。またもや神戸に爆弾が投下された。ぼくは、わざわざ雪の日に爆弾は落とされないと思っていた。養父にそう伝えると、B29に装備されているレーダーは雪だろうと、正確にねらいをつける。いよいよ神戸にいては危険かもしれないと真面目に言った。
 空襲における被害について、大本営発表は極めて小さく報告、厳重な報道管制によって、情報は規制されていた。当時、新聞ラジオが情報の源。それはすべてお上が左右していた。国民はただ信用するしかなかった。一方、空襲は全国にわたり、その被害状況を目のあたりにした人々から、その様子が口伝えに伝わる。子供のぼくも耳にした。川西航空機明石工場もやられ、明石にある機体工場には、学徒動員によって集められた女学生もいたらしい。逃げおくれた彼女たちは、生き埋めになって焼け死んだとも、逃げる途中に爆撃に遭い、五体バラバラに吹き飛ばされたとも噂が飛び交った。
 この頃すでに日本は出口のない敗け戦に追い込まれていた。それでも勇ましい大本営発表は続いていた。ぼくの住む神戸の町内、東京が焼かれ、神戸も被害に遭っていたものの、まだどこかのんびりした雰囲気が残っていた。ぼくはこの頃から、夜寝る時もゲートルを巻いていた。いざとなった時、防空消化活動にすぐさま駆けつけるため。一方、町内の高い屋根には、監視哨が作られていた。後退で見張り役が決まっていて、敵機を見つけ次第、大声で知らせるというのがその役割だった。敵は精巧なレーダー付きの機体、こっちは人の声。到底かなうわけはない。
 国内窮乏、四面楚歌となりながら、敗戦に突き進む中、お上の大本営発表は雄々しい勝ちっぷりを伝え続けていた。もし、実態の片鱗を国民に伝えていたらどうなっていたか。今は、あらゆる情報にあふれ、それを自由に扱える世の中、だが報道管制は行われている。まだ、マスコミは各自、自主規制をしている。
 「テロには屈しない」と繰り返しアメリカの言う、「テロとの戦い」を正当化。70年戦争をしてこなかった国の首相が、宣戦布告のごとき言い回しを好む。今のお上のもの言いは、かつて横暴を極めた軍部そっくり。日本は一足飛びに戦争に突き進んでいる。(企画・構成/信原彰夫)
    −−「野坂昭如の『七転び八起き』 第197回 対テロ策 首相の言葉 軍部に似て」、『毎日新聞』2015年02月10日(火)付。

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