覚え書:「今週の本棚・村上陽一郎・評 『ナディア・ブーランジェ−名音楽家を育てた“マドモアゼル”』=ジェローム・スピケ著」、『毎日新聞』2016年1月31日(日)付。

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今週の本棚
村上陽一郎・評 『ナディア・ブーランジェ−名音楽家を育てた“マドモアゼル”』=ジェローム・スピケ著

毎日新聞2016年1月31日 東京朝刊

 (彩流社・3024円)

厳しくも相手の個性を壊さぬ教育者

 戦前生まれの方なら大抵はご存じですよね。足踏みミシンの代表「シンガー」を。家にもありました。ええと、まだある。ところで、その発明者アイザック・シンガーなるものが、およそ常識外れの生涯を送ったことはご存じでしたか。不明なことに私はまるで知らなかった。本書の内容をきっかけに、ちょっと調べてみました。巨万の富を築いたことは、当然でここでは省略。要するに家庭生活が凄(すご)い。

 最初の妻との間に離婚が成立した後、三人の女性と「結婚」(当然重婚罪を犯しているわけ)し、結局総計一八人の子供をなした上に、訴追されるのを逃れて、大陸へ。パリではフランス女性と「結婚」し六人の子供に恵まれた、というのですから。でも、それがどうしたって? 単に青ひげ公みたいな人がいた、というだけでは。いやシンガーは妻たちを殺さなかったから、まあ、どうでも良いけれど。そうなのです。そのフランスの女性との間に生まれた娘の一人ウィナレッタが、一度結婚、破局の後、フランスの名門貴族のエドモン・ド・ポリニャック公爵夫人となります。そして、このポ公夫人こそ、パリで、あのラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」、フォーレの「ペレアスとメリサンド」、ストラヴィンスキーのピアノ・ソナタなどを捧(ささ)げられた、父親の遺産もあって、芸術の大パトロネスになった女性なのです。

 話が脇から始まりましたが、本書は、一九世紀末から二〇世紀を、ピアニスト、作曲家、指揮者、そして何よりも指導者として生き抜いた、類い稀(まれ)な個性を持つ女性ナディア・ブーランジェの生涯を描いた、「伝記」というには、余りにも特別な書物です。そして、上記のポ公夫人はナディアの最も信頼し、愛した音楽活動上のパートナーでした。

 試みに、この時期のクラシックの音楽家の名前、誰でもいい、覚えておられる名前を挙げてみてください。おそらく、そのすべてが、この本の中に登場しているはずです。彼女がフランス生まれだから、と油断してはいけません。アメリカの作曲家コープランドガーシュイン、あるいはレニーことレナード・バーンスタインも、今クラシック界を席巻しているモダン・タンゴのアストル・ピアソラも、さらには、ソ連カバレフスキーから、リヒテルまで、楽器で言えば、ヴァイオリンの名匠イザイ、メヌーヒンから、チェロのカザルス、声楽のクロワザからジェラール・スゼーまで、音楽の系列で言えば、ロマン派から十二音楽派を経て、セリー主義まで、つまり当代の作曲家を総ざらい、要するに彼らのすべてが(フランス人は、余りに当然なので、ここでは声楽を除いて触れていませんが)、何らかの形で、ナディアと関わったのです。

 その中でもストラヴィンスキーとの永年の厚誼(こうぎ)は、著者も最大の力を注いで描いています。本書の著しい特色の一つは、当時人々の間で交わされた手紙(ほとんどが肉筆です)や、折々の写真を掲げていることですが、この二人に関しても例外ではありません。それらも読者を引きつけますが、女性として、また、一部の人々からは、嫉妬混じりに、批判や妨害も加えられ続けた彼女の、最も支えとなる友人ストラヴィンスキーも、長らく彼女の心に寄り添い続けた。それなのに、何が原因なのか、著者も判断を保留していますが、晩年になって、突如彼の方が冷淡になる。裏切られてもなお、普通は誇り高い彼女が、彼に慰めを求める。その辺の機微も、読者の想像力をかき立てます。

 私にとって、特に思いが深いのは、ルーマニア生まれのピアニスト、ディヌ・リパッティに触れた箇所です。天才と謳(うた)われ、「光の子」と讃(たた)えられた彼が、ナディアを第二の母と呼んで、慕う様子、そして、あの悲劇の演奏会(ブザンソン音楽祭で、病に冒された彼が激痛をおして開いた最後の演奏会)を経て夭折(ようせつ)する。私の最も好きなピアニスト、リパッティとナディアの交流は、読むものの心へ直(じか)に響いてきます。

 彼女が、晩年自分の過去を振り返って、何千回と開いたピアノの独奏会や、他の楽器とのアンサンブルの演奏会、女性としてまれに見る成功を勝ち得た指揮者としての活動、そして作曲、これらは、要するにエピソードに過ぎず、自分は徹頭徹尾教育者であった、という述懐を繰り返したという件(くだり)は、そのまま、最も客観的なナディアへの評価でもあったように思われます。彼女の教育者としての姿勢は、厳しくはあっても、決して相手の個性を壊さない、それは、ピアソラガーシュインに対したときの事例に鮮やかに描かれています。

 もちろん彼女にも欠点はある。時に傲慢にさえ受け取られる頑固さ、凡愚への拒絶感、富と才能への異様とも見える拘(こだわ)り、著者は、そうした点にも眼(め)をつぶりません。でも、著者は、生前の彼女に、声楽家として遇(あ)っています。そして、前書きで、彼女が見せた奇跡のような、心の輝きを記憶に刻んで、対象への愛で貫いた見事な物語を生みました。(大西穰訳)
    −−「今週の本棚・村上陽一郎・評 『ナディア・ブーランジェ−名音楽家を育てた“マドモアゼル”』=ジェローム・スピケ著」、『毎日新聞』2016年1月31日(日)付。

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