自我

 生まれてから、幼児期に自我が生じだんだんと完成するにつれ

 描く絵が、立体的になる。

 自我は 生まれたときにはなく、幼児期から

 言葉や記憶ととともに 世界を構成すると、書いた。

 それは 一つであった世界が、言葉を覚えることにより 二つに分かれたり

 言葉により ないものを創造できるようになるからである。(過去、未来、等々)

 これは、子供を見ているとわかるし、自分の記憶を思い出しても なんとなく
わかるのではないか。

 そして、もちろん、この 自我の誕生も フラクタルな現象である。

 我々は、毎日 自我の誕生と消滅を繰り返している。

 朝 起きるたびに 自我が生まれ

 夜 寝るときに 自我は消滅する。

 幼児期の記憶が おぼろげなように

 いつのまにか 起きて、いつのまにか 寝てしまう。

 起きる瞬間と 寝る瞬間は あいまいであり、

 特に、毎朝の自我の誕生は おぼろげなんだ。

 幼児期に発生する自我も、毎朝生じる自我も フラクタルな関係にある。

 自我の発生とともに 世界が 生じ

 自我の消滅とともに 世界も なくなる。=起きる・寝る

 寝ているときに、時間も空間も記憶もないでしょ。

 寝ているときに自我は 消滅している=死 の状態。

 つまり、毎日 毎日 自我は生まれて死んでいる。

 それを 起きて寝るという言葉を用いてるのだ。

 自我=世界 自我なしに世界はない。

 無限の波長のなかの制限が、自我である。

 自我=制限=閉じた宇宙=二元論的世界

 無限の空間に 閉じた円を創ったようなものが個々の世界。

 眠りのなかでは 誰もが無限の力を得て、スーパーマンになれるけれども

 制限されたこの自我の空間が、現実という物質世界がありありとあるように思えるのは
閉じているからだ。

 目をつぶって瞑想すると 自我がおとなしくなるのは、見ている世界=自我 だからだ。

 そして、そのまま 寝てしまうこともある(自我の消滅)

 この世界は、自我がもたらしたマトリックスの世界というのは、以上のようなことを指す。

 

たわごと

プラシーボ効果というものがある。偽薬を病気の人に飲ませても、本当の薬だと思い病気が治ってしまう。

 ということは、病気は自分が作り出しているものに過ぎない。

 ということは、意識により世界を変えることができる。

 私という存在は、意識であり自我であるわけですが、記憶でもある。

 自己同一性を保つには、昨日と同じ人でなければならない。

 その記憶とは、なんでしょう。何を記憶しているのでしょうか?

 初恋の彼女の笑顔、高校に受かった時の掲示板、学園祭、結婚式、昨日飲んだビール等々いろいろな記憶がありますが、その記憶こそが私なのです。

 ですから、

 私とは、世界を見つめる視線に他ならない。私とは、この肉体の中に存在するものではない。私が世界なのです。私が持っている記憶とは、私固有のもので、それこそが私なのです。

 今見ている世界でも、その見つめるまなざしが私です。

 幸せな人は、幸せな世界を創造し、見ている。

 不幸な人は、不幸な世界を創造し、見ているに過ぎない。

 この世界、即ち私の世界におこる様々なことは、全て中立でそれに対し、私がいいとか、悪いとかの判断をしているに過ぎない。

 世の中が悪いということはなく、自分の意識がその出来事に対し悪いという価値観をつけているに過ぎない。

 世界におこる出来事に価値を決められるのは、私の世界では私以外にいない。それを、創造者といわずになんとよんだらいいのか。

 「世界」というリンクをお気に入りに入れました。パキスタン以外にも、この世界に様々な災害が起こっています。大きな災害は、今後生まれるであろう新しい世界に対する、地球の陣痛だと思います。

 一月に一度から、週に一度、日に一度大きな災害が起こるかもしれません。その一つ一つに動揺しないで、やるべきことをきちんとしたいと考えています。

 大切なのは、世界に対する視線であり、意識です。どんなことがあっても、「世界とは自分が見つめる視線」に他ならないのです。

デビット・アイク

第9章 呪縛牢獄からの さわやかな開放

 自分自身の現実を生み出し、自分の運命を決定していくことは、核心においてはごく簡単な方法だ。要約すれば「与えた物は戻ってくる」ということになる

 われわれの心や感情は、様々な波長を持った数々の周波数と共鳴していて、どの周波数に同調するかは、われわれがどう考え、感じるかによって違ってくる。

 これは意識される自己だけでなく、潜在意識にも当てはまる。潜在意識は、自分で扱いたくない思考や心の持ち方や感情を抑圧して放り込んでおく、大きな釜のようなものだ。

 だが、実際には、この根っこの部分からの怒りの振動と共鳴しながら、そのときはその感情を意識化しないということも起こる。

 たとえば、子供の頃に抑圧した怒りがあって、それを持ち続けていると、大人になってもその周波数を発信し続け、しかも本人には怒りを抱いているという意識がない。

 こうなると霊的引力の法則によって、意識・無意識を問わず怒りを抱いた人間が集まってくる。

 精神的・感情的な「雰囲気」というものは、種類を問わず、一連の波形として周囲に発信されていて、それが同じような波形のものを引き付け、人・場所・生き方・経験といった形をとって集まってくる。

 与えたものは、戻ってくるのだ

 人が何かを恐れていれば、必ずその怖がっているものを引き付けてしまう。恐怖のエネルギーが似たようなエネルギーを引き付け、恐れているものが現実の経験となるからだ。

 金がなくなるのを恐れていれば、金のない状態になってしまう。

 孤独や拒絶や攻撃を恐れていては、それがすべて現実のものとなる。

 自分の人生に関して、他人を責めても仕方がない。

 現在の好ましくない現実を作り出しているのがあなた自身だとしたら、それと同じように、あなたが好ましい現実を新たに作り出すことも簡単なことではないか。

 要は、あなた次第なのだ。あなたが、すべての答を持っている。あなたがあなたの宇宙の中心で、その宇宙を自分の望むものに変えていけるのだ。

 このように引用してくると、津留晃一さんの本のようでもありますが、ある意味アイクの一番重要なポイントでもあります。

 これを伝えるために、爬虫類人間・レプタリアンを書いたのであって、逆ではない。

 人は、自分で自分の人生を好ましいものにすることができるのに、イルミナリティの呪縛にかかり、自分から自分をつまらない人間に落としこんでいる。

 世界とは、自分の意識を映し出す鏡に他ならないわけです。

 自分がかわると世界が変わるわけではない、そもそも自分と世界とが等しいのだ。

 対処療法では、プラス思考も効くと思われるが、長くは効果は続くことはない。

 プラス思考するから、自分にとって好ましい世界が生じるのではなく、思考・意識そのものがあなたなのだ。

  あなたの見ている世界こそが、あなたなのですから
 

幻覚の構造 藤田博史

僕たちは、手で何かを触るということは、その何かに触られていることだ。雑巾で掃除をするのは、雑巾で拭いているのと廊下が雑巾を拭いているのと同じこと。

 視点の違いしかない。自分で声を出せば、聞こえるし、おならをすれば臭う。

 しかし、モノを見つめていて、見つめられるのか、これがこの本の出発点ともいえる。

 難解な本なので、引用から

 夢は幻覚である。夢が<眠って見る幻覚>ならば、幻覚は<覚めて見る夢>である。

 意識もまた幻覚であり、意識は眠ることによって、夢に置き換わる。

 私たちが析出させているすべての構造は、基本的に夢であり、幻覚である。

 わたしたちは、日常のなかで、きわめて素朴に、目の前に見え、聞こえている世界が当たり前のものと、信じていきている。

 日常のなかでは、風景に奥行きがあったり、音と声がことなったものであるということは、自明である。

 世界は「そのようなもの」としてそこにある。

 日常の経験によって築かれた世界は、「信じる」という行為によって「自明」とされている。

 ところが、精神分析学の経験がわたしたちに教えてくれることは、「世界は各々が心に抱いているようなものではまったくない」(ラカン

 わたしたちは限られた差異性によって、世界を再構築しているに過ぎない。

 たとえば、わたしたちの知覚は磁場も超音波も電波もとらえることはできないのである。

 世界とは限られた情報によって再構成されたとりあえずの具体性でしかありえない。

 そして、わたしたちは日常のなかで、このことに気づかないでいるか、もしくは忘れている。

 引用終わり

 私が目の前のりんごを見る。そのとき、私もりんごから見つめられている。

 部屋の中の少し離れた本を一冊見るとしよう。僕はその本の焦点を合わせて本を見るが、そのとき僕は部屋から見られている。

 森の中に一人で居るときに、森の木々に見つめられている気がするといった作家もいたし、僕もそういう経験をしたことがある。

 これを、私から見た円錐と世界側から見た円錐を交差円錐として、論じているが、絵が書けないのでご了承いただきたい。

 重要なのは、私がりんごを見るとき、本当の私はりんご側から私を見ている、りんごを見ている私の目は他者の目なのだ。

 私は見つめることにより、見つめられる存在なのだ。

 私は、モノから目に入る光。それが、世界の表象であり、私の世界。

 見つめるものと見つめられるものは、本来分かれていないのだ。

 真実の私は世界側から、私を見る

神との対話2

人として挑戦すべき最大の課題は「いまここで、あるがままに」ということだ。

 ものごとを、でっちあげないこと!現在(つまりあなたが、考えるよりも先に、前もって<PRE>送られた<SENT>時についての考えを作るのをやめなさい。ただ、いま、そのときに身を任せなさい。

 いいかね、今という時は、自分へのプレゼントだ。そこには、そうだいな真実の種がひそんでいる。あなたが、覚えておきたい真実だ。

 だが、その時が訪れたとたん、あなたは考えをつくりあげようとする。

 その時に身を任せるのではなく、外側に立って。判断を下そうとする。だから、反応する。前にした通りに行動する。

 さて、反応(reaction)と創造(creative)の二つの言葉をくらべてごらん。二つが同じ言葉であることがわかるだろう。Cが移動しているだけだ!cが正しい場所にあるとき、あなたは反応するのではなく、創造する。

 それぞれの瞬間をきよやかに、前もって考えたりせず迎えれば、あなたの過去を再現するのではなく、自分を創造することができる。

 人生は創造のプロセスだ。ところがあなたは、再現のプロセスのように生きている。

 過去の体験を無視して、その時にはいっていきなさい。ここで、取り組みなさい。新しい自分を創造するためには、いま何をしたいのか見つめなさい。

 それが、ここであなたがしていることだ。この場所に、あなたは自分を知る為に、こうありたいと思う自分を創造するためにいる。それが、人生の目的だ。人生はいつまでも続く再創造(re-creation)のプロセスだ。

 現在のほかに、時はない。このときをおいて、他に時はない。この瞬間をおいて、ほかに時はない。「いま」がすべてだ。

 以上引用。

 本に書いてあること、僕の書いていること、信じなくていい。信じるものが、あなたなのですから。

 いまある自分というものを選択したのは、紛れもない自分自身だということ。

 どういう境遇であれ、それを自分自身が選択した物で、責任は全て自分自身にある。なりたい、自分自身がいまここに存在している。

 いままでが、こうだったから、いまあるというわけではない。過去と今は連続しているわけではない。瞬間瞬間が創造されている。

 だから、いまのこの瞬間を生きる。

 今この瞬間しかないのに、過去を憂い、未来を嘆く、だからそういう自分自身を今ここで自分が、作り上げている。

 いまに生きているというかもしれない。しかし、そのほとんどの行動思考は、無意識に行っている。

 足を組みかえるのも、体を左右に動かすのも、歩くときも、そして物事を判断するときも、無意識に「いつものランチ」ということななっている。

 意識的に行っているのは、実に少ない。そのうえ、その意識を現在に置かないで、過去や未来、違う場所に飛ばしているのだ。あのときああすればよかった、あそこにいきたいなあ、あいつはいま何をしているだろうと、いつも、今ここ以外のことを考えている。

 いま、ここを、見つめ、味わうことが喜びであるはずなのに、見ようとはしないのだ。

 時間が連続と思っているから、過去と未来のことを考える。私の前に、時はない。時は私が味わっている、今しかないのだ。

 意識的に、今を生きると面白い。いろいろと、かんがえないで済む。こういうことを言ったら悪いだろうと考える先に、話してしまう。

 考えないで、先に行動が出てしまうのだ。そうすると、物事がスムーズに、思い通りに進むことを実感できる。

 いつでも、ロードス島だ、ここで飛べ。考える前に、行動しろ。
 
 日記を書いても、こういうこと書いたら笑われるよなあとか、変と思われるだろうなあと思ってしまう。そういう風に、自分を矯正するようになってしまっている。もっと変でいい、もっとめちゃくちゃでいい。

 いつも、いい子でいたいがために、いい事を書こうとしている。

 そういう判断をしてしまう。もっと、自由なのが楽なのに。自分で自分を縛っている。その紐自体もうないのに、表に飛び出せないでいる。

 もっと、わがままに、もっと、はちゃめちゃに、もっと、ばかになろう。

津留さんが心から伝えたかったこと

「望みは100%かなえられる」という話を聞いたとき、それは本当だろうかと意識を働かせるかわりに、別のアプローチをとることもできます。

 「過去の経験に照らし合わせたら、これはにわかに信じがたい。しかし、これが本当であるならば、まことに都合がいい考え方である」というアプローチです。

 思った通りを体験するなら、自分にとっての都合の良い考えかたをしたほうがいいということになります。

 そこで、この考え方を真理として受け止め、自分の経験のほうを疑っていくわけです。

「無条件に自分の思いが100%かなえられる」−これが正しいとしたら、今この瞬間は、自分の夢がすでにかなっている状態なのだ、ということになります。

「しかし、こんな現実、望んだ覚えがない」と感じているとしたら、それは意識的には望んでいなかったが、無意識的にこんな現実を望んでしまったのだという結論になります。

 そうなると、自分の無意識的な想念を気にするようになります。こうなって、初めて、無意識的発想を「自分の中で、発見してみよう」という気持ちがうまれます。

 そうなんです。想いを遂げようと努力するよりも、無意識的想いに気づく努力のほうが報われるのです。

 それが、私がいつも言っている「想念を観察する」ということです。


 毎日毎日、この想念観察を繰り返していると、どうなると思いますか。

「あっ、本当に自分の出している想いが現実に起きてきた」という感想が湧いてくるのです。

 そのときには、発想が自然とかわってしまいます。変えようとしなくても、変わってしまうのです。

 それに引き替え、これまで多くの人がやっていた「そうか、望んだことが100%実現するなら、強く望んでみよう」という態度は、望むものを手に入れる為には、逆のアプローチになってしまいます。

 望みを叶えようとしている「自我さん」が残っているからです。

 100%望みがかなうことを知っている人は、望みをかなえようとは、もはやしなくなります。

 人生は想い通りになっている、と気づいたとき、想いそのものが消えてしまいます。

 想いを遂げようとするのは、恐れからの逃避に過ぎません。恐れがなければ、想いを遂げようとは思わないのです。

 以上、本よりの引用。

 この引用の最後のほうは、耳が痛いかたがいらっしゃると思います。僕もそうでした。

 プラス思考の本を読めば、たいてい「念じよ、想いは実現する」とあります。

 紙に書いたり、コルクボードに写真をはったり、イラストを書いたりして、成功した状態を、すでに実現した物として思考している人は多いでしょう。

 しかし、100%それが実現している人は、いないのではないのでしょうか。

 世界は自分の世界であるから、自分の考えが反映されます。

 成功したいという想いは、成功していないという想いの裏返しですから、願いが叶ったにしても、心が満たされることはありません。

 それを、見続けるたびに心が苦しくなります。「成功するんだ」という想いが、自分に重く降りかかってきます。

 人よりいい暮らしをしたい、人に認めてもらいたい、というのが本心ではないでしょうか。

 他人に認めてもらうより、自分で認めればそれでいい。

 いいんだ、このままで、いまのままで、このいまの現実というのは、自分の意識の結果なのだから、これを受け入れれば楽です。

 人と比べるから苦しい。我々は、一人一人が世界を持っているわけだから、創造主といってもいい。すべてが、最初から自分の世界。

 このままでいいんです、変えようとしないで下さい。

 心からそう思ったとき、あなたは変わりはじめます。

 これが、この世界のパラドックスなのですから。