日本的、宗教的、仏教的、精神的
<その1>
- 作者: 末木文美士
- 出版社/メーカー: 佼成出版社
- 発売日: 2006/12
- メディア: 単行本
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現時点でおそらく最高の執筆陣をそろえての論考集。
でもたぶん仏教教団関係者は読まないだろうな、読んでも参考にして活動することはないだろうな、という本。
ああ、これはカナリ面白いよ、執筆者名見てジャケット買いしても絶対に間違いないタイプの本。
でも、論文のテーマ探しをしてるような人が読むと、自分のやることやれることを見失って自失しかねないというそういう危険性はある。
<その2>
心理主義時代における宗教と心理療法の内在的関係に関 する宗教哲学的考察
http://web.maizuru-ct.ac.jp/human/yosinaga/reports.pdf
平成16年3月の報告書だからこれまたカナリ新しい、アップトゥデイトな最新の宗教現象研究。
読みたい読みたい読みたい。
「心の教育と宗教性」とか
「精神病理学の人間学的展開」とか
「心理療法と宗教の間で」とか
実にあらあらうふふなカンジ。
でもPDFだけはカンベンな。
誰かタダで紙でくれないかなあ。
あ、奇刊『クリルタイ』と引きかえってのはどうでしょう?
<その3>
『中央公論』2007年2月号
http://www.chuko.co.jp/koron/
大学教育とか会社とか宗教とか、これまたどツボなテーマがつまったどこを切っても持ち出せそうなそんなオトク感を漂わせる珍しい号。
だれか古本でくれ。
それか病院の待合とかから間違って持って(以下ry
収納用引き出しを買って積み上げて机の上が要塞化しているので、そのせいで資金が足りなくなったので、あとねんがんのアイスソードクッションも手に入れたりしたので、もう本が買えません。
残念!!
心理主義の源泉
信仰あるいは信心の問題。≒「信仰の本質」として規定される「信心」の問題。
表(オモテ)と裏(ウラ)の存在の認知区別。表=顔・行動と裏=心・内面。
内省的自我がまなざすそれ自身が心理主義の源泉?
独我論=内省的自我=近代的自我=デカルト的コギト(≠デカルト*1)
心脳論*2の限界は、単純に言えば母語となる言語の存在。その存在を暗黙の前提とするあまり、それについて無批判=無自覚になっているところ。
「我思う故に我有り」とする、「我」は普遍的意味を持つようにも思えるが、その実、母語の限界をはらんでいる。母国語により規定される範囲の中での「我」でしかないという事。
西洋の我、東洋の我、中東の我、アフリカの我。つまり、それぞれが存在する。
ところが、「我」の限界性=母語制限は、その「我」の生成論的側面に目を向けたときに再び普遍性を取り戻す。
内省という思考=志向の普遍性である。
心の問題を脳に帰するなら、焦点とすべきは言語ではなく、メディアではないのか。たとえて言うなら、問題とすべきはOSではなくBIOSではないのか。
まなざしは再び脳へ。
この世には二種類の人間が存在する。健常者とそうでない者である。
その「そうでない者」の脳こそが内省を過剰にし、否、内省の過剰を常とし、母語の壁を超え、いや、その壁をくぐり抜け、セカイ=思想の共有をはたすのではないのか。
そして、その個別的、孤立的、独立的、孤独的な絶対個人の他者否定=他者不認知が、また翻って、万国万人共通の人間精神という「「我」」を生み出し、それを無自覚に自明視、当然視、絶対視することから、
心理主義が発生しているのではないのか。