川勝正幸さんのこと

川勝正幸さんが、亡くなられた。まだ55才だ。信じられない。信じたくない。でも、本当みたいだ。

記憶力が悪いので、川勝さんと交わした会話をちゃんと覚えてないのが、くやしい。さみしい。

ものすごく散漫だけど、川勝さんとの思い出を書いてみる。

川勝さんと出会ったのは、私が上京した1990年のことだ。JAGATARAのギターだったOTOさんが、その頃、近田春夫さん率いるビブラストーンに在籍していて。当時、私はただのOLだったけど、OTOさんの紹介で、ビブラのライブで楽屋のケータリングや雑用を手伝っていて、川勝さんと出会ったのだ。

最初にどんな言葉を交わしたとか、残念ながら覚えていない。川勝さんはビブラのライブを欠かさず見に来てたので、だんだん、ゆっくり、知り合いになった感じだった。

どっぷり宝島世代なもので、もちろん川勝さんのことは存じ上げていて。その目利きっぷり、エディットのセンス、愛と知識のつまったテキストが好きでした。まさか、知り合いになれるなんて、思ってもいなかった。

その頃は、今程、ライブハウスが乱立してなくて。見たいライブが重なることも少なくて。お目当てのライブへ行くと会場でたくさんの友人や知り合いにあった。もちろん川勝さんにも、かなりの確率で遭遇した。

だいたい、そんな時は「じゃあ、せっかくだから、ごはんでも」って感じになって。なんとなく川勝さんが仕切ってくださってた。たぶん、いちばんよく行ったお店は、渋谷の台湾料理屋、麗郷だと思う。まずは…って感じで、ポンポンと川勝さんが注文してくれた。「麗郷来たら、腸詰めですよね」みたいな感じで。

メンバーは、大人が川勝さん、小暮徹さんとこぐれひでこさん、たまに近田さんや高城リーこと高城剛さんもという感じ。あれ、OTOさんもいたっけかな(あやふや)。私と同年代位のメンバーは、薮下君、WAVEにいた石倉君や福田君、チエコ・ビューティーちゃん、エド・ツワキくん、スカパラの青木さん、ふゆちゃん、A.K.I.、セルロイドやってた頃のソウルセットの俊美さん、としえちゃん、TATSU君などなど。正確には思い出せないけど、とにかく、たくさんいた。

まだ、みんな、何かを始めたばかりで、若くて、おサイフが軽かった。会計の時、川勝さんたちは、「じゃあ、若者チームは千円通しで」というのがお決まりだった。あとは大人チームがごちそうしてくれた。

私はそんなメンバーの中、ただの音楽好きのOLでしかなくて。正直、かなり気がひけてた。けど川勝さんたち大人は、そんな私にも、分け隔てなくやさしかった。おいしいものも食べさせてくれたし、たくさんおもしろい話をしてくれた。あのライブ後の食事の時間は、いま思うと、本当に贅沢なカルチャー・ゼミだったと思う。

あと私は、自腹でビブラのファン・ペーパー「VIBRA POWER」ってのを作ってライブで配ってたんだけど、川勝さんがそれを面白がってくれたの、うれしかったなあ。まだパソコンが普及してない頃で、ワープロで原稿作って、切り貼りを駆使して、自分でレイアウトしてた。なにげにイラストを松尾スズキさんやヤギヤスオさんに頼んでいたり、メンバーにインタビューしたり、やりたい放題でした。残念ながら、自分の手元に残ってないんだけどさ。

後年、川勝さんが東大の駒場キャンパスで、もぐりOKなゼミをやってた時、信藤三雄さんゲスト回にもぐり込んだことがある。あの時のふたりの対話、すごくおもしろかったなあ。相手の話を引き出す、川勝さんの手腕と知識、さすがだった。あと信藤さんへのリスペクトも強く感じた。

そのゼミの後、川勝さん、信藤さん、もりばやしみほちゃん、川勝さんを手伝ってた若い男子、私ってメンバーで、池ノ上の線路沿いにあるおいしい中華屋さんに、ごはんを食べに行った。川勝さんとごはんを食べるのは久しぶりで、ほんとに楽しかった。

で、お会計の段になって、川勝さんに「わかちゃん、千円」と、相変わらず言われて。「川勝さーん、私もう30歳越えてるから、もう少し払わせてくださーい」って言ったら、「もう、そんなになるのか!」と驚かれた。川勝さんにとって、私ら世代は永遠の後輩だったんだなあ。ありがたいことに。

小泉さんとの仕事の話をする時の川勝さんは、すごく楽しそうだった。仕事はプロとして、ちゃんと関わってるんだけど、本当にファンだったんだなあと伝わってきた。

高城剛さんとふたりで、『ツイン・ピークス』話をしてる時も生き生きしてたなあ。内容、ドープ過ぎでついていけなかった(笑)。

川勝さんから聞いた、勝新太郎さんのたくさんの武勇伝、おもしろかった。

川勝さんが編集したウディ・アレンのパンフは、いつも洒落ていた。ウディ映画のエッセンスが、1冊に凝縮されていた。そういえば、ウディ映画をよくかけていた恵比寿ガーデンシネマもいまはもうないんだなあ。

ビブラがまだよくライブをよくやってた頃の仲間内では、川勝さんと『伝染るんです。』のかわうそ君は似て蝶、というのが定説だった(笑)。

下井草さんとやってた文化デリックは、すごくおもろかった。残念ながら、全部は行けてないけれども。

いつだったか、川勝さんが自分の仕事について、「ちゃんと計算すると、時給、マックのバイト以下ですよ」と、冗談めかして言っていて。でも、それって裏返せば、お金だけじゃなく仕事をしてるってことで。「好き」をいいカタチの仕事に仕上げるって、そういう覚悟もいるかってことで。目からウロコで。うわあ、かっちょええなあ、川勝さんって思ったものだった。

私が知っている川勝さんは、さりげないおしゃれさんで、いつもおだやかで、ニコニコしているイメージ。あと、あの声、ね。

あ、違う日もあった。JAGATARAやコンポステラのサックスだった篠田昌已さんが亡くなった時、大きな白い百合の花束を持ってかけつけてくださった時。あと、スカパラのドラムだった青木達之さんのお通夜とお葬式の時。当たり前だけど、いつもと違う川勝さんだった。

去年、私がブログやツイッターの管理人をしているダブ・トランペッターのこだま和文さんが在籍していたMUTE BEATの、メンバー選曲によるベスト盤が出た。

その際に、川勝さんは、こんな愛あるテキストを書いてくれた。

『ベスト盤を出すヒマなどなかった〜MUTE BEATとあの時代。』
http://riddimonline.com/articles/20110620/mutebeat01.html

あの当時を知る川勝さんに、いまのこだまさんのライブを見てもらいたいなあと、つねづね思いってた。でも、なんとなく誘いそびれていた。

こだまさんは基本的に、自分からは自分のライブに人を誘ったりしない。だから、変な遠慮なんかしないで、私が川勝さんを誘えばよかったんだよなあ。川勝さんの連絡先は知っていたし、ツイッターでも相互フォローしていただいてのにな。お誘いするチャンスはいくらでもあったのにな。ほんとうにバカバカ、私。いまさら後悔しても、もう、遅いんだけど。

こないだ新世界での誕生日ライブの2日目に、JAGATARA「ある平凡な男の一日」を、こだまさんが江戸アケミさんとデュエットしてるのを、川勝さんが見てたら、なんて言ってくれただろうか。とか、思う。

あと、川勝さんのツイート読んでると、『カーネーション』をご覧になってたようで。川勝さんと『カーネーション』話をしたかったなあ、とも思う。音楽や映画の話はよくしたけど、そういえば『ツイン・ピークス』以外のドラマの話をしたことがないかも。私、こんなにドラマっ子なのに。

そして、もう、どのライブ行っても、お芝居行っても、川勝さんとばったり遭遇できないんだなあ。いまはまだ全然、実感できないけど、時間が経つにつれ、ひしひしと、それがしみてくる気がする。

ここ数年は、リアルではそんな会えてなかった。けど、一方的に川勝さんの仕事は見ていて、やっぱり尊敬できる先輩のひとりのままだった。

川勝さん、たくさんの知識や愛をわけてくださって、ありがとうございました。そして、何者でもないような私にもやさしく接してくださって、ほんとうにありがとうございました。