藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

年寄りの品格

*[ウェブ進化論]高齢のあまちゃんたち。

六十歳を超えてくると話題が病気のことと老後のことに統一されてくる、というのはよくある話だがまったく本当だ。

もちろんさらに年を取ればもっと偏りはひどくなる。

よくもこんなに長生きしていて、それで先の不安の話ばかりができるものだと思うが自分もその一人だ。

 

それにしてもこうも高齢者が先立って老後の不安を想像し、それを煽るように政治家やマスコミが話題にする。

それを聞いた若者は暗い気持ちにならざるを得ないだろう。

なにかが間違っている。

おそらく「今の不安の循環」ではずっとこんな空気が続くだろう。

若者がFIREというのは、そんな思いの噴出したものではないだろうか。

"得体の知れない不安"から脱したい、ということなのだ。

 

高齢者はともかく、自分の事ばかり話すのを止めねばならない。

健康がどう、介護がどう、年金がどう、と長生きしていて貯蓄もしているくせに不安を煽るような言動は迷惑でしかないというものだ。

そして年齢の叡智を以て「不安なく老後を過ごす」という態度を取らねばならない。

 

歳は取っていても"戦後世代の甘え"が出ているのではないか?諸君、と言いたい。

 

貯金を残しながら鬼籍に入る、という今のメンタリティは自分たちで変えていく必要があるのに違いない。

思考の転換(3)

*[ウェブ進化論]本質を問えるか。

人類が紀元前から望んできたものは、ただただ「安息な暮らし」だった。

もし「その」ための宗教とか、イデオロギーだとか、さらに国境だったりするのなら問題はかなりはっきりしている。

 

改革を地球規模で始めるのは大変そうだが、

まずは世界中の国が「自国民の安全を目指す」ということを第一に挙げればいいだろう。

民族がどうとか、民主国家がどうとか、税金や医療がどうとかいう「お為ごかし」はやめてしまおう。

 

自国民が「絶対に飢えない」「絶対に死なない」「落ちこぼれない」ということだけを約束したい。

そしてそのための税金とか行政の制度設計はなんでもいいと思う。

ダメならどんどん変えていけばいいだろう。

 

重要なのは「既得権益を手放す勇気」こそだ。

今は岩盤の「既得権益族」の人たちも、自分たちの安息が保障されるのなら聞く耳を持つのに違いない。

「新しい制度がいいのは分かっていても動かない」という人たちをどう安心させるのか、というのは今後の政治を行う上で最重要なテーマである。

 

各論に時間を費やして何十年も無駄にしてきたけれど、その無駄も役に立つ。

これからは「コンセプトの政治」の時代がやってくるのだと期待したい。

思考の転換(2)

 *[ウェブ進化論]つまり安心が欲しかった。

世界史を立体的に分れば、これまでの人類5000年の所業も大まかに理解できる。

そうして、いま今の自分たちを見てみれば進歩しているところと、まったく変わっていないところについても考えが及ぶだろう。

欧州や中東、中国やアメリカなどの歴史を超早送りで見てみると、その本質は「富の移動と支配」だということがよく分かる。

そうして現代でも理屈は全く変わっていない。

 

さらに現代の宗教の摩擦は実はそのルーツを探ってみれば、一神教多神教などのかなり最近になっての争いごとなのだということも理解できるだろう。

つまり人間が後付けで争いのタネにしているのに過ぎないのだ。

「誰かの思惑で争いの種にされる」ということは現代でも頻繁にある話だ。

それはともかく。

 

ここ5000年の自分達は一体何を求めていたのか。

その答えは、ただただ「安息な暮らし」ではないかと思う。

他民族や領土の侵略も、つまるところは「富の追求」だった。

で、その富は権力を欲したリーダーの影響もあるけれど、結局は「国民全員の安心」だったのではないかと思う。

ともかく"安心できる国を作る"ということを前面に掲げて政策を作る政党が、今最も支持を集めるのではないだろうか。

(つづく)

思考の転換(1)

*[ウェブ進化論]歴史の語ること。

この本を読んで三回目になるが、ようやく"地球儀"がなんとなく立体的に見えてくるようになった。

「一度読んだら」とタイトルにあるがこれはウソである。(笑)

でも五回くらい読んだなら、素人でも世界史の全体を把握できるようになるだろう。

 

学生さんは、これを読んでから山川の世界史などを読むといいと思う。

世界を旅行するバックパッカーも欧州とか中東とか中国の歴史を知って旅するのと、ただいきなり旅するのでは雲泥の差があるだろう。

 

そして「ここ5000年の自分達人間が一体何をしてきたのか」という本質にも考えが及ぶに違いない。

 

狩猟民族が農耕民族になって以降、「富」という物の存在が一体どれほどの争いを招いてきたのか。

そしてそのために人々が命を争い、同じ命を持つ同胞を何千万人と殺めてきたのか。

そして、これまでほとんどの人が"そのための争い"について大した疑問を持たずに生きてきた、という事実を目の当たりにするしかない。

 

そして思う。

まだ今も理屈は大して変わっていない。

 

けれど「何とか価値観を変えたい」というような畝りは二十一世紀になって、少しは出てきているような気もする。

果たしてこれからの自分たちはどんな選択をできるのだろうか。

(つづく)

 

志向発動

*[ウェブ進化論]瞬時に起動するやつ。

昨日も最強の思考法「人間万事塞翁が馬」のことを書いたけど、これを自動化してしまうことを考えたい。

 

吉凶は日によらずして…とも言うけれど「塞翁が馬」も自分次第の視点を持つ話である。

自分次第、なのだから自分が変わればよいということだ。

自分にとって特によくないことが起きた場合、たとえば仕事とか家族との人間関係とか。

予期せぬトラブルだってあるだろう。

そんな時には誰だって腹を立てたり不幸を嘆いたりするものだ。

 

現に目の前のMacが再起動を繰り返している。

なんで。

新規作成のパワポの途中に。

そして考えるのだ。

 

「これは何かの吉兆かも知れぬ」と。

そういえばpcだけで保存しているデータ、まだあったな。

これは"仕事の環境をフルクラウド化せよ"という神のお告げかもしれない、とか。

あるいは「クラウド化するものとしないものについて、日常を含めて見直してみなさい」ということかも知れず。

さらには「クラウドが復元しない場合にも生きる術を考えろ」という深い示唆なのかもしれぬ。

 

何にしても今日半日はつぶれそうだ。

よかったよかった。

 

よくないことは何でもない。

へいきへいき。

 

不思議に腹が立ったり嘆き悲しむ時間が減るようだ。

"塞翁が馬"は自動起動するようにしておきましょう。

 

 

 

吉凶の表裏

*[7つの習慣]連なる山と谷。

人間万事塞翁が馬」は個人的には7つの習慣に入れてもいいと思う諺だ。

"最強の思考法"といってもいいのではないだろうか。

そして最近のことだが、現実に「この論理が当てはまる場面」が実にたくさんある、と、今更ながら驚いている60才。

 

そういう思いで若いころの自分には言うてやりたい。

「あまりにも、あまりにも目先のことで一喜一憂するなよ、オレ」と。

下らぬ、実にくだらぬことでくよくよし、そしてぬか喜びをし、そして何より「不安感」に苛まれる。

そんなことを15歳のころから繰り返してきていたと思う。

けれど「万事は塞翁が馬」だった。

 

思い返せば挫折はその後の肥やしに。

失敗は以後の貴重な経験値に。

そして一時の成功は成長を妨げ、小さな慢心につながっていたと思う。

後から振り返ってみればまったくそう思うが、当時にはそういう想像はかけらもなかったのだ。

なんたる愚かしさ。

 

でも悲しいときにはともかく、嬉しい時にも「いやいやこれが禍言になるかもしれぬ」と思うのはどこか人生を楽しめていないような気もするけれど、自分を振り返ってみてこれほど見事な説明はないなぁと思うほど"吉と凶"は関係しあっている。

 

吉で凸(奢)らず、凶で凹まずでいきましょう。

 

近道はなけれども

*[ウェブ進化論]好きなことで苦労する、という王道。

やりたいことを仕事にする、というのがベストだがその「やりたいこと」が分からない、というのが普通ではないだろうか。

義務教育や大学を出たくらいで社会人経験も少なく「私は生涯これをやりたい」などと言える方が珍しい、というかちょっと心配な気もする。

 

また、社会に出てからというのは厄介なもので「スキル」というものが必要になる。

スキルがないと年齢と共に仕事は無くなってしまうことになるのだ。

そしてそのスキルを付けるにはトレーニングが必要になってくる。

レーニングというのは楽ではない。

むしろ「苦しいこと・負荷をかけること」がトレーニングの中心になっている。

 

結局「どのような道に進むにせよ苦しいトレーニングからは逃げられない」ということを前提にやりたいことを探してみるといいだろう。

目先の経験が苦手なことでも、その先にはいずれ「その仕事なりのカッコよさ」があるものだ。

 

嫌なことをただ続けるのではなく「やりたいことで苦労をする」というのが後悔しない選択だと思う。

これは30年、40年もかけた苦労の末に、「何のこっちゃ」「一体何だったの?」と心情を吐露する社会の先輩たちを何人も見てきた実話なのです。

規則の誤謬

*[ウェブ進化論]ノールールというルール。

先日友人と学生時代の話をしていて「(高校の)校則違反だった茶色の靴を履く生徒が多い事実を調査して、校則の方を茶色okに変えた」という逸話を聞いて驚いた。

「校則」というこの二文字だけでもうそれは学生を縛り、時には対立する存在である、という先入観が自分にはあるからだ。

「校則って秩序を守るためにあって、校内が整備されていいな」というような発想など微塵もなかった。(大体はそうだと思うが)

それにしても男女交際禁止とか(同性はどうよ)、髪型がどうとか思えば戦前からの文化もあって長らく定められてきたローカルルールもずい分緩くなってきていると思う。

 

多分法律や規制がなくても、自分たちは「そこそこの調和」を持って生活していく生き物だと思うのだが、タガをはめられると途端に息苦しくなるのはどういう心理抵抗なのだろうか。

自分の場合は過ごした高校生活が「ミニ少年院」みたいな所だったので(いわゆる丸ボウズ系)、どうにもあれから"ルールの類"が例外なく嫌いになってしまった。

 

社会人になってからも、まだ当時はサラリーマンの下らぬ慣習が残っていて「新人は朝掃除に来て先輩より遅く帰れ」とか「日報と月報の鬼」みたいな管理職の人を見て、非常に拒否感を感じたことを思い出す。

 

ルール無用が一番ではないだろうか。

神的視座

*[ウェブ進化論]宇宙目線。

天文学の話を聞いているとあまりに壮大すぎて、自分の存在を忘れそうになることが多いけれど、今ほど汲々と時間や効率を気にして過ごす時代には、ちょっとわざと「そういう話」を頭の中に広げるようなことをしてはどうだろうか。

 

それにしてもハッブルvsジェームズウェッブ望遠鏡が「銀河が銀河を映す」という方法で太古の(134億光年)星を探す、冒頭の部分を見るだけで自分の悩みなどは霞んでしまうような気分になる。

 

実際は「自分の生きる100年足らずの中でどんな過ごし方をするのか」ということと宇宙で起きていることは、案外同じようなことなのではないか? とも思えてくるけれど、そんな気分を味わうためにも天体のお話は悪くない。

たまには大局を意識しましょう。

 

それにしても科学は進化すればするほどさらに広がる。

それってまるで宇宙のような話ではないだろうか。

私のアミダくじ(2)

*[ウェブ進化論]くじの行先。

自分のこれまでの軌跡を「アミダくじ」に擬(なぞら)えると、あまりにも横のハシゴの数が多すぎて、良くも悪くも「まあ今の着地点にたどり着いたものだワイ」と感心してしまう。

人との出会いとか、よく理屈の分かっていないことへの決断の連続ばかりで今に至るわけだから、例えハシゴが「一本抜けていただけ」で今の自分とは全く違う場所に立っていただろうことは割と簡単に想像できる。

 

そういう意味では無茶な選択もしたし、無謀な買い物をしたし、無駄な時間の使い方もした。

あえて「人生のハシゴを付け足したい」とは思わないけれど、かなり再現性のない生き方をしてきたものだと思う。

むしろ、これまでのいろんな偶然には感謝する必要があるだろう。

過去の話に「たられば」はないというのは分かっているが、過去に自分がした選択で「ミスればどんどんドロップアウトしていく姿」はあらゆる所に思い当たる。

それはともかく。

 

そんな「偶然に次ぐ偶然」が今の自分なのだから、これからの我が身についてはどうなのだろうかと想像する。

これまでを見て、これからを考えると「突拍子もない決断」というのはなさそうである。

けれど中小の、何か新しいことへのチャレンジは続けそうだ。

 

問題は賞味期限はそれほど残っていないという点にある。

長めに見ても20年程度しか残っていない中で、選択の機会はそれほど多くないだろう。

 

少しは「自分の選択肢」を作っていきたいと思っている。

私のアミダくじ(1)

*[ウェブ進化論]当たり前ではないこと。

60歳になるまでは、あまり自分のたどってきた軌跡について考えたことなどなかったけれど、「これから先」のことをいよいよ考えるようになり、「これまでとこれから」についての因果関係などを回想している。

それはともかく。

自分が生まれた「生命の誕生がそもそも奇跡的である」という話もともかく。

 

自分なりには紆余曲折しながら今に至るわけだけれど、これを逆から見てみると、つまり「自分が生まれた時点から、今に至るまでのアミダくじである」という風に考えてみた。

生まれた国が違えば事情はまったく違うだろうし、日本だとしても都会か田舎かではずい分環境が違うだろう。

義務教育くらいまでは「自分では選べないこと」だって非常に多い。

(今の若者は親ガチャなどと上手いことをいうものだ)

自分で進学するとか就職するとかしないとか。

いろんな出来事すべてが"行き当たりばったりだった"と表現するしかないが、それにしても「ため息が出るほどの偶然が今の自分を作っている」と言うことは間違いなさそうだ。

同じ道をもう一度たどって見られるか? と問われると「決して同じにならないと思う」と答えざるを得ないと思う。

 

そんな「偶然に次ぐ偶然」が今の自分の成れの果て、ならばこれからはどうなるのだろうかと考える。

(つづく)

一日であれ一年であれ

*[7つの習慣]改めて、習慣を作る。

毎年この時期になると、まとまった休みを目の前にして「さあ今年は何にしようか」と考える。

そんなことを恐らく社会人になってからずっと繰り返している。(嘆)

さらに言えば、そういう「覚悟」は普段の週末の休みとか、あるいは一日の仕事が終わった後の自分の時間についても同じことだ。

 

つまり「どんな単位であれ、まとまった時間をうまく使う」というのはなかなかに難しいことなのだろう。

「毎日の寝る前の30分は必ず読書に充てる」とか「今週末は必ず新しい仕事について考える」ということと、「何となく遅寝をする」とか「だらだらネットする」ということは相反する行動なのだ。

 

そういうことを「いちいち悩まずに行動できるのが習慣化なのだ」ということにも改めて気づく。

何もキチキチと「自分の自由時間の使い方を計画して管理すること」が目的ではないが、やりたいことを実現していくには、そのくらい時間管理の方法というのは重要なものだと思う。

 

夏休みの宿題よろしく、特に今のネット社会では外部の刺激を遮断することというのはかなり難しい。

大切な連絡だってその中には混ざっているのだから。

なのでネットを遮断するまでもなく「先に立って動ける習慣」を作ることが、かなり大事なことなのではないかと思う。

 

今一度習慣を作りましょう。

 

視点次第

*[ウェブ進化論]見えている自分とこれからの自分。

60歳の自分が2-30代の人と話をしていると、時に「ああこれから色んな苦労をするのだろうな」と思えてしまうことがある。

年の功というやつかもしれないが、若者にとっては大きなお世話ということかもしれない。

そんな「世代間の印象風景」といったものは、これまでもずっとあっただろうし、これからも続いていくのに違いない。

それはともかく。

 

「60歳の自分を70歳、80歳の自分が見たらどう思うのか」というのは十分"想像に値する話題"なのかな、と思ったのだ。

何なら他人である年上の先輩に「今の自分はどう見えますか」と聞くのでも構わないが。

けれど「20年後の自分が見た今の自分」はよほど切実ではないかと思うのだ。

 

今の自分は「これからの自分の中では一番若い」。

けれど「これまでの自分の中では一番の年寄り」でもある。

過去の自分を触ることはできないが、これからの自分はある意味自由でしかない。

 

80歳の自分が今の自分を見たら、果たして何というだろうか。

どうせ「経験値でしか学んでいけない」と何も言わないかもしれない。

けれど20年若い自分を見たら「まだ比較的若く、これからの選択肢もたくさんある60歳」に見えるのではないかと思う。

決して「もう終わりだね」とは言わない気がするのだ。

 

つい「これまでの人生で最長老の自分」のことばかりを考えてしまうけれど、どうしたって今が一番若い、というのが自分たちでもある。

 

ぜひ、これからのことを考えましまょう。

糖質制限サスティナブル(2)

*[健康]毎日心がけること。

糖質を控えた食生活にすることは、かなりの「生活習慣病の予防になる」と思う。

それに定期的な運動+筋トレを加えれば、かなりの年まで思い通りに過ごせる可能性がありそうだ。

けれどそういうことを実践するのは「軽い修行」のようなもので、小さな注意点が日々の生活に必要になる。

 

昨日も書いたけれど、タンパク質と脂質だけで「一度糖質の旨味を知った脳」を誤魔化すのはとても難しい。

無塩ナッツとかサラダチキンでは脳は騙されないのである。

 

ところがやってみると実感するが、少し気が緩んで味の濃いラーメンなどを食べてしまうと「血糖値のスパイク感」はすごいものがある。

そのせいで体調も数日おかしくなることすらある。

 

料理をしない自分がたどり着いた結論は「糖質の少ない副菜を少しづつ摂る」という方法だ。

スーパーなどで買えるお惣菜の中で、煮物とか根菜類のサラダとか、最近はかなりの種類の副菜が揃っている。

この分野はいろんなチェーンやコンビニも開発を頑張っているようで、飽きない商品が次々に発売されているのは有難いことだ。

 

ガマンにガマンを重ねるのではなく、毎日に「少しづつガス抜きをする」ような感覚で食事をすれば、欲望が押し寄せることなく日常を過ごせる。

 

当たり前のことのようだが、長きの継続のためにはとても重要なコツだと思っている。

 

糖質制限サスティナブル(1)

*[健康]継続のコツ。

興味のない方には申し訳ない話題だが、自分はますます「老いとの戦いは糖質との戦いである」と思うようになった。

まだ穿刺しないで血糖値を測るのは難しいけれど、糖質量を気にすることでかなりコントロールできる。

病気に悩む先輩たちを見ていても、糖質との関係が深いと思うケースは非常に多い。

糖分というのは、ある意味習慣性の強い"麻薬的なもの"なのだ。

 

そして他人と生活していると、そんな麻薬を摂取する機会はどうしてもある。

で「糖分の蜜の味」を一旦知ってしまうとなかなか元に戻りづらいのである。

まさに禁断症状との戦いになるのだ。

 

もちろん糖質は世の中では規制されていないから、そこら中で提供されている。

「糖分+脂分+塩分+香辛料+調味料、そして+お酒」なんてことになると、これはもう制御不能である。

 

なので「いかに破綻を招かないか」という対策が重要だ。

自分は「タンパク質中心の食事の後に"ごくごく軽い副菜を摂る"ということを実践している。

 

試してみると分かるがもつ焼きとか焼き鳥とか、タンパク質中心の食事の後。

糖質を欲している脳に対し、さらに「サラダチキン」とか「ナッツ」などを食べるのは胃にかなりの負担がかかる。

 

糖質制限をしている仲間をみると、この理由で続かない人はとても多いように思う。

(つづく)