双子座殺人事件

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17-10-17

[]平日の記録


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コーヒーチェーンのチョコもの

ドトールにて、二、三度の売り切れを経てようやく食べられたパリパリチョコミルクレープ。美味しいけど普通のでも十分。

ニューヨーカーカフェでは、系列銀座ルノアールが55十周年とのことで、コーヒー一杯分の値段の「復刻ルノアールブレンド」とミニエクレアのセット。エクレア昔ながらの味の小ぶりなもの。名古屋の喫茶店の中でも豪華なところ、に来たみたいで嬉しい(笑)


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行動範囲内にやって来たお店。

フードショーにこの夏オープンしたずんだ茶寮にて、ずんだシェイクエクセラ。「エクセラ」の部分(生クリーム)はいらなかったかな。

東武池袋店の入れ替わりの激しいエリアに開店していたハンデルカフェは「月額制飲み放題システム」を取り入れているそうだけど、しょっちゅう通るわけじゃない私は一回毎のお客さん。コーヒーと瓶入りのデザート、後者はどこかのお店のものらしいけどどちらも美味しかった。


[]ル・コルビュジエとアイリーン 追憶のヴィラ


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最後を締めるのはアイリーン・グレイの「創造の素晴らしさは愛の深さによって決まる」という、「ありふれて」聞こえる言葉だが、この映画彼女にとってのその意味を全篇を通じて伝えてくる。98歳で「大往生」するラストシーンとそれに続くエンドクレジットを見るに、その「愛」とは生に対する愛じゃなかろうか。カメラが倒れた彼女の足元を映す時、その靴やパンツの裾がいかにも快適そうで、ずっとそんなふうに生きてきたんだなあと思わせられた。


映画オークションにおいてアイリーンの手による「ドラゴンチェア」が1950万ドルで落札される、かしましく目まぐるしい一幕に始まる。大金をはたいた女性がその理由として原題「The Price of Desire」を口にし、タイトルの後に再び、今度は屋外でのオークションの場面となる。「E.1027」をオナシスと競ったル・コルビュジエ(バンサンペレーズ)が辛くも、無理やり、自らのものにする。


コルビュジエは「E.1027」の壁に絵を描きながら、そんなものアイリーンは望んでいないと言うジャン(フランチェスコ・シャンナ)に向かって「(何も無い壁が)地味で陰気だから」と言い放つが、アイリーン…確かに演じるオーラ・ブラディ自身にも陰気なカトリーヌ・フロといった感じがある…にそんな必要はないのだと私には分かっている。冒頭から見てきた、恋人達とベッドに居る時、ジャンと暮らすのはどんな家にしようか考える時、あるいは屋上に土を入れる作業の時でさえ輝いている、根源の「あれ」は彼女の内部にあるのだから


建築家としてはいまいちだが編集者として活躍していた」ジャンよりも、作中のコルビュジエの言葉の方がそりゃあ面白い。尤も初対面時のアイリーンに他人言葉を借りたことを指摘され「女の割には知識がある」とこちらに(その時にそう思ったと)語りかけてくるなんて場面があるように、建築に関しては案外と俗っぽいが、アイリーン周りのことについては陳腐じゃない(笑)「二人の別れ方がまたよくなかった、何のドラマもなく、彼女毅然と去っていった」なんて、何てことないけどいいじゃないか。ドラマなんて要らない。


出会ったばかりのジャンに「なぜ男と付き合わないのか」と問われたアイリーンは、はっきりと「自由必要から」と返す。女達とは一緒にいるのに。作中のコルビュジエ以外の男性は特に暴力的ではないが、力を持つ「ボーイズクラブ」はそれだけで女にとって害である。アイリーンとジョンの家について話し合う時、男三人と彼女がつくテーブルの足元に若い女性二人(それこそコルビュジエが言う「お飾り」)が座っている、あれが差別的な図でなくて何だろう(加えてこのシーンはジャンの「女癖の悪さ」も示している)


ジャンの、アイリーンを愛しく感じているが時に疎ましく思ってしまう、ああい気持ちは分かる(私は表には出さないけれど)。しかし映画の限りでは、コルビュジエが何かをすることで害を為したなら、彼は何もしないことで害を為したようにも映る。あの壁画を描かれてしまったのが最たる例だろう(アイリーンは「戦争で燃えしまえばよかった」とまで嘆く)。裏の「小屋」の窓から顔を出したコルビュジエに、彼は「僕が愚かだった」と口にするが、それまでの振る舞い全てについて言っているのだろうか。


「何もしないのは怠惰ってこと」と言っていたアイリーンは、亡くなる寸前まで机に向かって創作に励む。立て掛けられた建築科の卒業証書(だったかな?)何十年も一緒の秘書のような女性が「あなたが(いつ死ぬか)心配から出掛けない」とそばにいる。そういえば作中しきりに、アイリーンの周囲の女達は「あなたもっと認められなくては」と言うのだった。そこには彼女への愛の他に、女の仕事が隠されていること(それこそ「Hidden Figures」か)に対するはがゆさもあったのではと想像する。

17-10-10

[]鶴川落語会


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三遊亭金の助「子ほめ」

三遊亭遊雀「蛙茶番

古今亭菊之丞「干物箱」

 (中入)

古今亭菊之丞「野ざらし」

三遊亭遊雀「くしゃみ講釈」

 (10/7・和光大学ポプリホール鶴川)


初めての鶴川に着いて駅前のドトールに入ったら、カウンターで、つなぎ姿の職員ふうの人がさっきのアレはもう大丈夫、というようなことを言っていた。会が始まったら、遊雀さんが上るなり枕で「さっきドトールに居たら火事があって外に出された」って(笑)

寄席とは違ってここの客は本寸法だから(そういう類の「本寸法」もあるのか!笑)…からの丸出し「蛙茶番」、この噺大好き。「くしゃみ講釈」は、昔は権太楼の演るのにそっくりだと思っていたけれど、ここ数年でまた変わって、違うふうになっていた。


普段出向かない町での落語会では、普段聞けない枕が聞けることがままあるのも楽しい。この日は初めてこの高座に上ったという丞ちゃんが、子どもの頃は小田急の車掌になりたかったと小さい時に覚えた駅名を言い立ててくれた。都内の寄席とかじゃ絶対無い(笑)

枕での、小田急線に乗ると箱根に行ってしまいたいという気持ちと戦うはめになるというくだりは「干物箱」と繋がっていた。それだけじゃなく、偶然なのか遊雀さんの「火事」まで拾うもんだから可笑しい。こちらの「干物箱」も初めて聴いた時から随分変わって賑やかになっていた。


[]アウトレイジ 最終章


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上映前にハイローの新作の予告が流れたこともあり思ったんだけど、年齢層の高い役者によるこのシリーズじゃ、いわゆるアクションの代わりが怒号なんだな(啖呵ってのはちょっと違う気がする)。アクションと違ってカット割りや吹き替えが出来ないから却って難しいやね。ついでに車が走るシーンが多いのも足で歩くシーンの代わりなのかもしれないな、などと考えた。


予想していなかったことに、塩見三省を見る映画だった。初登場時から脇に杖、片方の腕でもう片方の体を支え、後に駐車場で一人だけ座ったままの姿や「兄弟」にまつわる場面での表情など最高だった。ガラケーを閉じたかと思いきや電話しときますよとまたぱかっと開けるなんて、ああいうコミカルな見せ方もいい(笑・対して光石研が「普通に」スマホを使っているのは、そりゃあそうだよなって感じ)


宣伝で武がこの映画について「暴力を除いたら一般社会によくある話」と言っていたけれど、暴力がヤクザのヤクザたるゆえんなんだから、それを言われてもなあ、と思いはする。倫理的にどうこうっていうんじゃなく。しかし彼が暴力を用いる人の映画を撮ってきたことを考えると、この発言には謙遜(あるいはその見せかけ)が含まれていると取れなくもない。


松重豊演じる繁田は私には一種の魅惑的な謎、頑張って具体的に言うなら「何に依っているのか全く不明の、突如現れる男」だが、先の武の言を踏まえるとさもありなんである。このシリーズはヤクザを社会の中の存在として描いてはいないから、小日向文世が演じた片岡のように「同じ穴」に居るわけじゃない人間は、そりゃあ何だかよく分からないに決まっている。


一作目には武演じる大友に妻が居た。「ヤクザ」って相手兄弟か上か下かでそれに応じた喋りをするけれど、女とはどうやって喋るんだろうと思いきや、目下にするみたいに怒鳴ると奥さんが「こわっ!」と言うのが新鮮だった。そういう処遇が面倒だったのか、二作目からセックス」じゃない女は出てこなくなった。別世界人間との関わりがあると、「一般社会のメタファー」には邪魔だからかもしれない。


このシリーズは「ドライ」だけども、大友の下に必ず彼を慕い命を投げ出す「その場限りの男」(椎名桔平や大森南朋)がいるのが何か、甘いよね。本作なんてそれで始まって終わる。ぎりぎりで嫌いじゃない。

17-10-05

[]平成29年 秋 真打昇進襲名披露興行


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三遊亭わん丈「プロポーズ」

伊藤夢葉(奇術)

橘家文蔵「手紙無筆」

三遊亭天どん「通販」

ホンキートンク(漫才)

古今亭玉の輔「紙入れ」

三遊亭歌る多「松山鏡」

(太神楽)

鈴々舎馬風(漫談)

柳亭市馬「時そば」

 (中入)

真打昇進披露口上

柳亭燕路「狸札」

柳家小さん「禁酒番屋」

林家正楽(紙切り)

柳亭こみち「お見立て」

 (10/1・新宿末廣亭)


[]最近見たもの


ブルーム・オブ・イエスタディ


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「求めるものがある人間自我を越えてゆく」。万雷の拍手の音は激しい雨の音に似ている。登場人物名前ザジ、トト、バルタザール。「ホロコースト関係者といえどもまずは生活がある」ということを描いているのに、結局のところ「全ての根っこに『それ』がある」ことばかりが強調されている。矛盾はしないけど、何かこう、「尻尾」が長すぎてバランスの悪い映画という感じを受けた。


黒人、年寄、障害者だからこそ言える、当人けが言えるギャグというもの(を押し出した映画)があるけれど、ここではいわば「ホロコーストギャグ」とでもいうものが窺える。例えば「妻は獣医なんだ」「そうなんですか」「去勢したり安楽死させたりするんだ」とかね(ただしこのやりとりについては、終盤に振り返ると違った意味が感じられる)。コメディって程のコメディじゃないのでそう目立ちはしないけれども。


ホロコースト研究所スタッフ達が、収容所の大きな写真の前で、明るい陽射しの中、インターンザジアデル・エネル)のお土産を「やっぱりフランスのパンは美味しいなあ」と堪能する場面なんて悪くなかった。食べ物と言えば、ザジとトト(ラース・アイディンガー)が一緒に行くのが「アメリカ(ふう)の飲み屋」「中華料理屋」という「よそ」の国のレストランばかりというのが面白い後者で二人は険悪な雰囲気になり、彼女はいったん注文したドイツのビールにけちをつけて下げさせるのだった。


ブラッド・スローン


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映画主人公ジェイコブ(ニコライ・コスター=ワルドウ)の仮出所に始まり、宣伝から想像していたのとは違って彼の「今」が、並行して「これまで」が描かれる。多くの要素を時間的に均等に扱いどれにもそれなりに重みがある、というタイプの映画だった。オープニング、「今」の彼が手紙を書く目つきが周囲の状況とあまりに似つかわしくなく思慮深く見え、そこで惹き込まれた。


中盤、ジェイコブがモーテルで起き抜けに運動する姿に、「ムーンライト」の冒頭を思い出した。彼は「外」ではタトゥーの入った肌を見せないよう首まで詰まったシャツを着ているが、鍛える理由、根っこには通じるものがある。「車の窓から手を出して風を感じる」同じ場面の意味するところは、少年のそれが風の通る世界を初めて知る仕草なら、大人の男のこちらは悪の浸食をせめて自分の代で食い止めんと決意した上での、気障な言い方をすれば風の通る世界への別れの仕草である


ジェイコブが「自分から暴力を使う」と決意するのは、同時に入所した怯えた様子の若者集団レイプされたのを見たことが切っ掛けである。そこから出られなかったらそうするしかない(とはいえそれは彼の選んだ道なんであるが)。「ここにはwarriorかvictimしか存在しない」という語りに、戦士?と思うが、確かに戦士とはそういうものかもしれない。彼がアフガン帰りのハウイ(エモリー・コーエン)を「下ろす」のには、戦士から下りる幾つかの方法、なんてことをふと思った。


ドリーム


よく出来た映画だけど、私の心にはあまり響かなかった。作中三人が(これまでは自分達に対して閉じられていた)「部屋」に入る場面が何度もあるが、最後キャサリンタラジ・P・ヘンソン)の場合はかなりの高揚感が伴っているだろうからともかく、いやいや、なんかさ、そんなもんじゃなくない?と思ってしまって。エンドクレジットで実際の三人を見ると、これだけパワーのある人達から出来たんだろうと納得できるんだけども。


三人の見事に化粧された顔に、私はああ、あんなに忙しくても女は更に余計な時間を掛けなきゃならないことがあるんだなあ、「キャサリントイレ」と、時に楽しさもある等の違いはあれど重なる部分もあるよなあと思いそうになるけれど、この映画としては、そういう捉え方は「間違い」だよね。マハーシャラ・アリ演じるジムが「夢の男」であるように、彼女達は「ああいう顔」なんだから


ピンヒールで梯子を上り下りするのは疲れるし危険なはずだけど、実際はどうだったにせよ、この映画はそういうリアルさより「痛快」さを選択している、そこのところが私の好みと違う。会議室の黒板のてっぺんキャサリンの背でぎりぎり届く高さに設定されているのにはかなりの意図を感じた。細いヒールパンプスを履いた女性達の中で唯一、計算室の秘書女性けがペタ靴だったのは、背の高い彼女が男性を「見下ろす」形にならないためにそうしているのだろうと考えた。


エイリアン コヴェナント


私はマイケル・ファスベンダーがあまり得意じゃないんだけど、今年公開の「光をくれた人」とこの「コヴェナント」の彼はよかった。どちらも肉体の魅力が存分に出ている。いいと思うのがメロドラマの主人公とアンドロイドってのが面白い(笑)


映画はファスベンダー演じる一体のアンドロイドの目覚めに始まる。私にとってこの映画の一番の謎は、何が見える?と聞かれた彼が「白い壁の部屋、椅子ピアノ、絵画」にのみ言及し窓の外の景色に触れないことである。なぜだろう?違う意味不思議なのが、その後にピアノで何を弾こうか尋ねられたウェイランド(ガイ・ピアース)がワーグナーを挙げるところと、それを受けてのアンドロイドの選曲ピアノで弾くような曲じゃない)。その後に彼は自分を「デヴィッド」と名付ける。なるほどこの曲が「テーマなのだと思う。


「I'm your father」の一幕の後にタイトルが出て、場面が替わり、「servant」のウォルター(ファスベンダー二役)の第一声は「了解、マザー」である。「エイリアン」で一行が進路を変更するのはマザーの指示によるものだったが、ここでは乗組員の総意による。いや、意見としては少数派のダニエルズ(キャサリン・ウォーターストン)とウォルター以外の総意と言うべきか。彼女進路変更にもデヴィッドの話にも「納得できない」と意を唱えるので、考えるとこの物語における彼女存在意義は、少数派が反対したところで人類はダメなのだ、ということの表れなのかもしれない。終盤にとある惨状を目にした際の一筋の涙は、それに対するものなのかもしれない。