双子座殺人事件

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17-04-23

[][]週末の記録


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練馬区立美術館で開催の始まった「19世紀パリ時間旅行」へ。「大改造」以前・以後のパリを描いた作品(「地図」や「ドレス」まで)を詳細な解説と共に展示するもので、いかにもこの美術館らしいと楽しみにしており、実際とても満足した。他の展覧会だってそうじゃないかと言われそうだけど、面白い本を一冊読んだというような感じ。解説比重が(私は当時の事をよく知らないから)大きいというのもあるかな


帰りに池袋を通りすがりに、ミスドのto go専門店というのを見つけて限定ギフトセットを購入。小さな揃いの「カラフル・ポン・デ・Jr.」が可愛い


[]笑福亭たま 深川独演会


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古今亭ちよりん「本膳」

笑福亭たま「山寺瓢吉」

ニックス(漫才)

笑福亭たま「お玉牛」

 (中入)

三遊亭歌る多「替り目」

笑福亭たま「ショート落語〜オール電化

 (4/21・深川江戸資料館


独演会の会場が心理的に少し遠いということもあり、好きな噺家さんの一人なのになかなか見られていない。今回は、歌る多さんがゲストとは新鮮な組み合わせだなと思い予約してみた。

この日は全演者に客席から声が掛かっていたけれど(「たっぷり」「待ってました」じゃなくとある事情での「がんばれ!」も・笑)歌る多さんへの期待度もかなりのもので、そのせいだけじゃないと思うけど、高座もいつもより熱かった。「春団治師匠と彼(たま)はいい男だから目を見て話せない」んだって(笑)「お玉牛」を聴いてどうだったろう?


中入前の枕で「落語会における携帯電話問題」についてのアンケート。「自分が鳴らしてしまったことも他人が鳴らした場に居たこともなく、もし誰かが鳴らしても特に気にならないだろうと思う人」にかなりの手が挙がると(私もそう)「そういう人ほど鳴らすので是非チェックしてください!」。確かにそうかもしれない(笑)

ちなみに「自分の会では9割がリピーターなので(鳴らす人はまず居ない)」と言っていたけれど(それは本当だろう)こういう、はっきりと自分仕事管理している感じ、私は好きだな。


普段白鳥さんの、しこしこ作っては山手通りを歩きながら練りに練った噺を聴いてるもんだから、「オール電化」のような、作りがどうというより、これ面白くない?という勢いの方が強い噺(いや、比べたらそうでしょう!)が妙に新鮮で、笑ってしまった。

枕やくすぐりにぎゅうぎゅうに詰まった政治ネタに、普段ニュースで読んでるようなことを大阪の人が取り上げると、全国的問題なのに外国人目線のようなものを感じるというか、東京も地方なんだと再確認するのは、とはいえ名古屋に帰省した時にはそう思わないから、何と言うか、私にとって大阪は特別なんだろうなあ。そもそも上方の落語の方が「ナマ」っぽく聞こえるのは、私が結局は共通語圏の人間じゃなく、江戸の言葉がよそゆきからだと思う。

[]スウィート17モンスター


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主人公ネイディーン小学生の頃の回想に、登校時に車から降りない彼女母親キーラ・セジウィック)が何とかしようと無理強いする場面があるのに、なぜ父親はそうせず母親はそうするのかと思っていたら、中盤、母親には出勤時間が迫っていたからかもしれないと推測できる。

高校生になったネイディーンヘイリー・スタインフェルド)は、車どころか「免許も持っていない」(いわく「試験に落ちた」)。そのことが実際にどうというんじゃなく、運転するようになれば乗せる側にも事情があると理解する切っ掛けになるところが、分からないまま17になってしまった。そんな彼女が、映画最後には自転車で世に漕ぎ出す。うんと時間が掛かる距離なら、うんと早起きして。


ネイディーンに「車を降りなさい」とはっきり諭すのは、ブルーナ先生ウディ・ハレルソンである。親だけじゃなく教師もまた、子どもの成長に大切な役割を果たす。授業での言い間違いを(次の授業時に!)指摘する彼女に「揚げ足取り人生無駄だと思わないか?」と返すのは笑える応酬のようだが、当人は真面目に受け取り「思わない」と言ってのける。先生は「成長を願う」。実はこの物語はここに要約されているのだった。母親も実に真っ当なことを言うが、娘には通じない。先生の妻の言う通り、年月が解決する部分も大きいのかもしれない。

旅行前にドレスから二の腕について聞く母親への心無い返事、兄ダリアン(ブレイク・ジェナー)にむかつくことを言われての「頭がでかくてバランス悪い」、あるいは憧れていたニックへの「古い車」。ダリアンの言う通り「正し」けりゃいいってもんじゃない、意味が無いように思われる「Have a good day」も大事なんだと、ネイディーン最後に気付く。いや、見えていた向こう岸に飛び移れたと言うべきかな。


本作では、洗濯物が常に男子と共にある(いずれも親の留守に扱っている)。それはネイディーンが日々の生活においていかに甘やかされているかをこちらに伝えるためのものだろう。兄がスムージーを作り妹はパンとピーナツバター、というのも(ヘイリー・スタインフェルドの容姿が全然「いけてな」くないから目立たないけど)「昔」と違って、でもカウンターというより当たり前のように感じられていい。

ダリアンが「冷蔵庫に成績表なんて貼って」いたのは、遠方への進学につき母親が何とかしてくれるかもと期待をこめていたのかもしれない。しかし実現はしなかった。常に家庭を背負っている彼が、犬のおしっこを拭いている時にふと現れて片付けを手伝うクリスタ(ヘイリールー・リチャードソン)に惹かれるのも分かる。二人のこの「改めての出会い」や「翌日に顔を合わせての会話」はとても素敵で、「ラブシーン」以上にときめかされた。

17-04-20

[]平日の記録


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昔ながらのパン屋で手にした動物たち。

HOKUOで見つけた「ひよこのピヨちゃん」はイースター限定商品だそう。外にマカロン生地、中にカスタードクリームでなかなか楽しい

タカセでの休憩には、最後に二つ残っていたうさぎの苺クリームパン。痛そう顔?の方を食べて(なぜこんな顔を描くのか?)笑顔のはおみやげにした。表面がてらてらなのが懐かしい感じ。


[]メットガラ ドレスをまとった美術館


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毎年5月の第1月曜日原題「The First Monday in May」)にメトロポリタン美術館で開催されるメットガラには多くの人々が関わっているが、その中心は展覧会担当の、ガラで「今夜の真のスター」と紹介されながら(作中では)壇上に立たず一人、展示を見て回る服飾部門キュレーターのアンドリュー・ボルトンと、ガラを主催する米ヴォーグ編集長アナ・ウィンターである。二人の心情を、彼のは冒頭、彼女のは終盤に明かす作りがうまいバズ・ラーマンの「彼女にとってガラは商業的なイベントじゃない」に続いて「ファッションはもっと重んじられるべき」というような言葉の入るタイミングが絶妙


METが初めてファッションに関する展覧会を開催したアレキサンダー・マックイーンに話が始まるのが、ボウイ展を見て程無い私にはタイムリーだった。今なお美術館の地下に追いやられている服飾部門スタッフは扱いの悪さを嘆き「ファッションには概念と審美眼と技術必要、それはアートだ」と言うが、後に映るアナ言動には前の二つが恐ろしい程あるように見えた。加えて、これまで映像で見たことのある美術館の搬入といえば仏像や化石などがやって来る場面だから、服が運ばれてくる様子がまず面白かった。


アンドリューは自身の生い立ちにつき、ボーイ・ジョージが表紙の雑誌を皮切りに「初めて影響を受けた文化ニューロマンティックだった」「ファッションでもってジェンダーセクシュアリティ問題に勇敢に立ち向かっているのが素晴らしかった」と語る。それでもって立ち向かえるということは取りも直さず「社会」がそれらを絡めて認識しているからで(「ファッション」といえば「美人モデル」というイメージがつきまとう、といったふうに)、そのこともファッションとアートとの境界に関する問題が生まれる一因じゃないかと考えた。


予告編の「今さら明の壺は無いでしょう」に予想していたように、本作には、数か月前にヴォーグ誌が起こしたのと同じ文化盗用問題も描かれている。「美術展は挑発的でなければ」との信条の元、考えたあげくに仏陀人民服を同じ場に展示したいというアンドリューに、美術監督として呼ばれたウォン・カーウァイは「政府にとってではなく中国人仏教徒に対する侮辱となりえる」「挑発はそのことによって行うべきではない」と反対する。彼は後には、他の展示内容につき中国人スタッフが「なぜ古いものばかりなのか」と詰め寄る会議の席で、「中国には今、展示できるものは無いのだから、これから作らねばならない、そのためには過去を見ることも大切だ」と口にする。この「結論」によって展覧会は前に進む。


アンドリューは展示の指示において、真逆概念として「ディズニー」を何度も挙げるが、映画エンディングでは、ガラの翌朝にアナスタッフがレッドカーペットのリアーナ写真を見て「ディズニーみたい!これで表紙は決まり」と叫ぶ。同じディズニー社でも前者はリゾート後者映画を指してるんだろうけど、面白かった。そういうものだと思った、そういう映画だった。

[]人生タクシー


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とても面白かった。映画の始め、タクシーの中から外を行き交う人々をぼんやりと眺めていると信号が変わって発車するのには、何をぼやぼやしてたんだ、見る側に収まってたんじゃ始まらないぞと気持ちが高まった。終わりを明かすのはネタバレになると思うので詳しくは避けるけど、他に例を見ない幕引きである。イランで上映を禁じられている類の「現実」を、あのカメラは映したことになるのだろうか、映さなかったことになるのだろうか。


タクシー運転手に扮したジャファル・パナヒ監督が、急ぎの客を他のタクシーに乗せるのが印象的だった。監督は道も知らなきゃ運転も下手、タクシー運転手としては全然ダメである。でも務まらないってわけじゃない。だけどプロじゃない。彼は客の「あなたがなぜこんな仕事を、宝の持ち腐れだ」に対し「いや(運転手だって普通仕事だよ」と返すが、何事もそう、シームレスだが厳然たる方向性があり、「プロ」が居る。全篇に渡ってそのことが横たわっているようにも感じられた。


作中には多くの映像が登場する。監督のスマートフォンで撮られる遺言や姪が自分のデジタルカメラで撮る映像など、備えたカメラ以外の機器撮影されこの映画の素材となる(という体の)ものや、姪が話す「自分の目の前で起きたこと」の記録や幼馴染みが見せる「自分を傷付けたこと」の記録など、人の口からその存在が語られるもの。それらと「映画」との境界、違いって何だろう?それを象徴的に表しているのが運転席の監督である


監督が待ち合わせる幼馴染みのエピソード面白い。始めの客二人の議論の内容を体で被ったような彼が、特別親しいわけでもない監督に会って映像を見てもらいたがるのは、「君は(製作が禁じられているから)駄目でも誰かが映画にしてくれるかも」と思うからなのである(続けて「君と話すと気が楽になる」というようなことを言う)。このパートは、映画にはそういう、不条理にぶつかった人の気持ちを和らげる役割もあるんだというメッセージに思われた。


「始めの客」のうちの女性が「犯罪は『作られる』もの」と主張するのは、まさに教員の鑑である。そう思わないとやっていられないとも考えられる。それって、「泥棒」にも「映画監督」にも、「こうでもしなきゃ外国の映画は見られない」とうそぶく海賊版業者にも当てはまるのかもしれない。彼が「分かってますよ、映画撮影なんでしょう?」と繰り返すのは、先日見た「ぼくと魔法言葉たち」じゃないけど、世界映画解釈しなければ納得できないというふうにも取れる。


本作には、なんと「思い通りの映像が撮れず苛立つドキュメンタリー監督」まで登場する。この行為には、彼女子どもであることに加え、根底に「上映可能な」映画でなければ上映できないという事情もある。何せ「上映して賞を獲れば、資金を得て次の映画が撮れる」のだから。日本のドキュメンタリーにもこの手の、作者の意図先行型のものがあると読んだり聞いたりするけれど、抑圧の大小はあれ同じ事情が潜んでいるのかもしれないとふと考えた。


映像の持つ力とはまず何かというと、「見える」ことである。「オレンジジュースの人」の顔を見なかった監督は店から戻った姪にどんなだったか聞くが、カメラを置いていくよう言われていた彼女は「普通だった」としか表現できない。ちなみに彼女の撮る映像は、「大好きなおじさん」や「素敵なバラ」など心寄せるものがやたらとでかく映っているのがいい。少年との一件の後に車の外に出る監督の姿が、少し見上げるように、端的に言って「大人」に映っていたのには、彼女の心細さが表れているようだった(そして監督が出て行った理由を知って心を捻られるのだった)

17-04-16

[][]週末の記録


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日比谷図書文化館で開催されていた「学年誌の組み立て付録に見る戦後25年」。量は小規模だけど面白かった。うちらが見たのは後期の「昭和35年昭和47年」の展示で、オリンピック万博を題材にしたものが多く、糸にゴンドラが二台ぶら下がってるのなんて素敵だった。

館内のライブラリーダイニング日比谷はまい泉プロントコラボレーション店舗ということで、ちょこっと中途半端時間に、同居人はお好みセットにビール、私はブリュレ in バウムにコーヒー


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伊勢丹新宿店で開催中のフランス展。すごい混雑の上に目当ての商品は早々に売り切れていたので、ちょこっと買って、これすら最後の二つだったブリオッシュパスキエのエクレアショコラを手に屋上避難

夜はフレンチデリカテッセンカミヤのシャルキュトリー盛り合わせに、ジャン・キルシャーのバゲット・トラディション、加えてオニオングラタンスープと、レタスりんごを切ったものケンタッキーのカーネリングポテトを並べた。どれも美味しかった。


[]わすれな草


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ドイツの映画監督ダーヴィット・ジーヴェキングが、自身の母の認知症に向き合う家族の姿を収めたドキュメンタリー2013年作。


予告編からは母グレーテルの人生を紐解き焼き付けた作品といった印象も受けたけど、これはそういう映画ではない。息子ダーヴィットが彼女過去を「掘り返す」のはまず「意識が覚醒するかも」と考えたからであり、あくまでも資料や当時の恋人が語る内容が示されるだけ、それこそ母のかつてを想像して軽く柔らかな絵を描くような感じである


グレーテルが「僕達の世界から遠ざかっている」こともあり、見ていると「分からない」ことが次から次へと出てくる。例えば父マルテは「彼女は新顔のお前(ダーヴィット)の言うことなら聞く、僕は古顔だから」と言うが(認知症の介護は「相手に無理強いする」ことだと表現するのが聞いていて辛い)、グレーテルの「伴侶への愛は冷めるが子は愛し続けられる」「結婚をやめたかった」なんて言葉を事前に「知って」いると、マルテいわくの「日記を読むと背筋が凍る」じゃないけど、彼女はどう思っているのだろう、あるいは何か思っているのだろうか、と思う。結局のところ、「あるべき姿」なんて無いのだと当たり前の結論に達する。大騒ぎする子ども達に耳を塞ぐグレーテルに、ダーヴィットのナレーション「反権威主義子どもを育てたので孫には困っている」とは俗な言い方だけど、このひとこまにも強くそう思った。


全ての映画メタファーである、というのを逆手に取った?映画も昨今あったものだけど、この映画にはそのことに関して、私が初めて気付かされた、ドキュメンタリーならではの面白さがあった。例えばグレーテルが姉の家で二つのケーキのどちらを選ぼうか迷うが、「昔は必ず二つ食べていた」というのは、マルテいわく彼女がかつては「二人を同時に愛せると思っていた」ことを表しているようだ…と思った瞬間、いや、何事もそうするように努めていたのかもしれない、その人そのもののすることにメタファーなんか無い、と思う。マルテの滞在するスイスに到着し車から降りたグレーテルにダーヴィットが「長旅だったね」と声を掛けると彼女は「これから旅に出るの?」と返す、息子は「もう終わったよ」と言う、なんて面白い会話だろうと思うけど、「面白い」んじゃない、本当にそうだからそんな言葉が出てくるのだ。


「政治活動のためビザ下りず」夫婦でドイツに戻ったグレーテルは緑の党の結成に関わり、女性グループも創設する。その仲間に会いに行くシーンがいい(ここではケーキが一つ、出る)。「男性についてとことん議論したおかげで結婚を続けられた」と一人が言うと、「私だけは離婚したけど」と他の一人が言う、でもって「離婚パーティしたよね」。議論と仲間に支えられていれば、どんな選択だってありなのかもしれない。部屋の隅の、男性のマネキン人形がトレイを持っているふうのテーブルと、その隣の椅子で場面の最後に「起きる」キスもよかった。


かつてグレーテルは、自分の思っていることをもっと口にしなければという仲間の意見に「あなたの言う感情の表出とは、相手をコントロールしようとすることだ」と答えたという。現在、寝てばかり、寝たがってばかりの彼女運動させようと誘うセラピストの「痛いところはある?」に「痛いところは教えない」なんて返すのは、冗談めかしていたけれど、信条の発露のような気もした。一方で添い寝する夫との「ここが痛いんじゃない?」「痛くない」「よかった」なんてやりとりには、グレーテルの新たな優しさの形とでもいうものを感じた。ちなみにダーヴィットの「起きたばかりじゃないか(だから起きてくれ)」に「起きたばかりだから眠たい」と返すのには笑ってしまった、確かにそういうこともありそうだ。