平日の記録



今月末(私の誕生日!)に閉館するホテル西洋銀座にて、名物のモンブランとコーヒー。地下のカフェでも提供されてたのが、閉館前日には二階のラウンジでしか食べられなかった。少々待つも、折角だからよかった。やっぱり美味。
私が馴染み深かったのはやはり、同時に閉館する銀座テアトルシネマ。最初に観たのは何だか忘れてしまったけど、クロージング作品が愛するケン・ローチで嬉しい。ローチといっても明るい内容、というか明るい気持ちになれるよう作ってくれたに違いない作品だしね。


日本橋三越本店で開催されている「ねこ歩き 岩合光昭写真展」。BSプレミアムで放送中の岩合氏撮影のドキュメンタリー「世界ネコ歩き」、私は見たことないけど、TLで評判だから、立ち寄ってみた。犬派の自分でも口角上がりっぱなしだったけど、映像と写真じゃよさの種類が違うんだろうなと思った。写真ならではの面白さというのは、私の場合、でかい写真の中に小さな猫の姿を見る時など。どうやって撮ってるのかな?と思いつつ回ってたので、最後に撮影風景の映像が見られて嬉しかった。

遊雀式 第五回


開口一番(三遊亭遊かり「動物園」)
桂三木男「だくだく」
三遊亭遊雀「薬違い」
 (中入)
三遊亭遊雀「鰻の幇間
 (5/28・日暮里サニーホール)


落語会において、噺家さんが互いの高座の内容をネタにするのを聴いた時に感じる、メタ感による奥行は、子どもの頃に読んでた「りぼん」で漫画家さん同士が言及し合ってるのを見た時の気持ちに近い。落語の場合、「ナマ」ならではのグルーヴ感も加わる。
この会のように前座→二つ目→真打(というかメイン演者)という流れの場合、他をいじれるのは最後に登場する噺家さんだけだけども。この日は遊雀さん、二人のネタを拾いまくり。なんたってネタ下ろしだった「薬違い」の導入部は、直前に三木男が演った「だくだく」と全く同じなんだから(笑)ちなみに「だくだく」は私にとって色々な所作が見どころなんだけど、彼はまだ若いな〜と思うも、やりを持ち出す仕草なんてきれいだった。
「こっちは同じ『先生』でも落語の世界じゃ一番の名医(?笑)薮井竹庵」がくれたのは、「祖父は紺屋の職人に、父は搗き米屋に処方したという」惚れ薬(「あれは解せないな〜と思ってたんですよ!」笑)。枕で「独演会というのは寄席で披露できるかもしれないネタを掛ける場所ですから、笑えるかどうか分かりません」「皆さんも昨日今日の客じゃないんだから!」なんて言い訳で笑いを取って始めたこの噺、初めて聴いたけど、遊雀さんにぴったりで楽しかった。


中入後は、ネタ出ししていた夏の噺「鰻の幇間」。お馴染みの「幇間とは」の枕、正直耳にタコって感じだけど、遊雀さんがやると笑えちゃうんだからすごい。しかも本編中ふとこのやりとりを思い出し、確かに「枕」だと思う(志ん朝いわく「これをやるのはダメな幇間」だけど、これはまさにダメな幇間だもんね・笑)きゅうりのおしんこを食べての「酸っぱい!」に場内爆笑。隣の部屋には「だくだく」の家具が、今の部屋にはやはり「だくだく」の掛け軸が掛かってることに(笑)
遊雀さんのは、騙されたと分かった一八が鰻屋の女中相手に延々と文句を言うのがメイン、とはっきり分かるパターン。お得意の「泣き」も取り入れての一幕は最高。


ところでこの日、事前に同居人と「英語で『文句を言う』ってどういうんだっけ」という話になったのだった。会が終わってみれば、テーマはまさに「文句を言う」。もっとも落語には「文句を言う」ネタが多いけど(笑)ともあれ、こういうのって面白い。

三姉妹 雲南の子



面白かった!なんて豊潤な…豊か過ぎてスクリーンの中の何を見ればいいのか分からなくなるような映画。なぜこんなに面白いドキュメンタリーが撮れるんだろうと思う、人間ってそんなものかもしれないとも思う、そう思わせられてしまう。


「月曜日にお風呂を炊いて〜火曜日はお風呂に入る〜」というロシア民謡「一週間」に、昔から疑問を抱きつつ無性に心惹かれていたものだ。本作で、泥だらけどころじゃない、泥と一体化したような長靴を火で乾かしながら、二女が「お姉ちゃんのは今日、私のは明日やればいい」なんて言うものだから、ふと、こういうところにそういう暮らしがあるのかと思う。
中国の雲南地方に暮らす10歳・6歳・4歳の三姉妹。母親は家出、父親は出稼ぎで不在。着のみ着のままの生活を「悲惨」に感じないのは、「動物」効果にもよる。スピルバーグの「戦火の馬」農場編にガチョウが登場して笑いを誘う場面があったけど、本作では、どんな作為があるにせよ、豚、羊、犬、鶏、更には人間が画面いっぱいに居て、互いのことなど(動物にとっては「当たり前」だけど)考えちゃいないんだから可笑しくなってもしょうがない。犬もロバも「役に立たない」が、それは人間がそう言うだけで、何のことはない。「仕事」のために飼われているので家族から一切構われない犬の様子もいい。


「物語」は何幕かに分かれている。冒頭、三女の「お父さんに言いつけてやる!」なんて言葉で存在を匂わせるも姿を見せなかった父親が出稼ぎから帰ってきて、映画は一気にドラマチックになる。三女の擦りむいた手を桶の湯で洗ってやる場面に、色々なことをするのを見てきた、この子達の手はこんなにも小さかったのかと思う。枝を折って火にくべるだけの仕草も、大人と子どもじゃ違うのが分かる。下の二人と違って「お祖父ちゃん・お父さんに言いつけてやる」などとは決して口にしない長女が、祖父と父が久々に揃った食卓の横で見せる、何とも言えない笑顔に心打たれた。
父親(身近な「大人」)の出現により、私の見方が変わるのも不思議だ。再び出稼ぎに向かう朝、後ろを着いて坂道を歩く二女がつまづくと、それまではあっ転んだ〜と思っていたのが、不意に心配でしょうがなくなる。
本作に「インタビュー」などは無いが、父親のみ、映画の作り手に向かって「(来るのが)早かったですね」などと話しかける場面が採用されている。作中なぜか男性ばかりが、カメラを意識しているところを撮られている。長女の通う学校の教師(「イケメン」風)がついしてしまうチラ見や、宴席にゲーム機?を持ってくる男の子の視線など。


三姉妹が羊を追う仕事から帰ってくると、大人達が何やら議論している(のかな?)、長女が二女のしらみを取ってやった帰宅後に二女がそのあたりを掻く、なんて場面は、もしかしたら違う日のものを繋げたのかもしれない(何せ毎日同じ格好だし)と思う。しかし例えば、翌朝離れ離れになる二女のしらみを長女が取ってやる時、二女の裸の背中をしらみが一匹這っていく、なんて画が撮れるのは、とにかく量をたくさん撮影しているからなのか、ロマンチックに映画の神様のおかげなのか、それとも監督ワン・ビンの何らかの手腕なのか。
カメラはほとんどの場面で彼女達に合わせて動くが、時には離れた所で長時間、ただじっと見ている。長女が鎌で草を刈ってカゴに入れてしょう、父親が下の二人をかついで小川を渡る、長女が一人で蒸した芋を食べる、どれも素晴らしく見応えがある。


父親が二女と三女を出稼ぎ先に連れて行った後、長女は祖父と二人で暮らすことになる。ここに来て、本作は「長女映画」でもあることが分かる。下の二人が居なくても彼女は「長女」らしい。カメラは一人で羊を追ったり、長靴の足で意味もなく地面を踏んづけて時間を潰したりする姿を静かに捉える。松ぼっくりを集める場面なんて、数分で籠が満杯になってるけど、実際には一人でどれだけの時間、黙って働いたんだろうと思う。
学校から帰ると何をするにも一人。馬糞をいっぱい背負った友達の男の子に「あんたんちに遊びに行ってもいい?」と言うも「なんでだよ」と返され、彼をつついていた枝で山羊を叩くなんて場面が抜群に面白い。「恋」じゃないにせよ、少なくとも「暇」なんだろう、その後、夜に火の傍らで煙草を吸う祖父の横で、作中唯一の彼女のあくびが見られる。


最後には父親が、二女と三女の他に新しい家族を連れて戻ってくる。わいわいうるさい、妹が自分の文句をわめいているような食卓で、ただ新しい髪留めとシュシュを着けて黙って食べている長女の顔がいい。
この場面をはじめ、食事がどれも…芋以外(笑)すごく美味しそう。宴席で山のように用意された白米や豚肉(「いい豚だったわね」)より、湯気とがっつく顔に彩られた、とろみのついた野菜炒め?や白菜の煮汁に茹でた麺を入れただけのようなものにそそられた。
冒頭、長女は叔母さんに「(じゃがいもを籠で洗った後)水を切ってないね」と注意されるが、最後の方でも結局、水を切ることをしない。子どもというものはおそらく…私もだけど(笑)一度言われただけじゃ行動に繋がらないのだ。父親が一時帰宅した際、子ども達に色々な「やり方」を指示していたのが印象的だったから、これからは、大人が一緒に居ることによって、生活が少し変わるだろうと思った。もっとも映画は、その「生活」が、抗いようのないものによって左右されていることも示唆しているけれど。