週末の記録



土曜日は快晴。所用の後に上野公園でお花見。
上野松坂屋のグランドオープンしたばかりの食品街、ほっぺタウンでおつまみを購入。揚げ物やサラダの他、新業態のユーハイムで可愛い箱入りのカットバウムを買ってもらう。
日暮れ前に公園のいつもの場所に着き、ひとまず乾杯。普段は点灯前に帰ってる、ぼんぼりの元の桜も見られてよかった。適度な薄暗さがいい。


日曜日は朝から雨。同居人の提案で、それなら乗り物の中からと、日の出桟橋から浅草までの水上バスでお花見。
この期間は隅田公園の桜が見られるよう、吾妻橋から言問橋までの区間もサービス運航してくれるのが嬉しい。船のしぶきと水滴越しの桜、上の方は消失してるスカイツリーなどの眺めを楽しんだ。立ち寄った墨田公園の桜はきれいだった、けどすごい風!
遅いお昼は葵丸進にて、浅草に来たら、の大きな金龍かき揚と上天麩羅の盛合せ。天ぷらは勿論、桜花塩が美味しかった。


ランナウェイ・ブルース



スティーヴン・ドーフ演じる兄とエミール・ハーシュ演じる弟の「ランナウェイ」。原題は原作小説のタイトルである「The Motel Life」。兄は憧れの車で旅立って間もなく「どこかに落ち着きたい」と言う。それはモーテルで育った彼らが向かう、次のモーテルのことなのか?
二人と後者のガールフレンド役のダコタ・ファニング、親代わり役のクリス・クリストファーソン、皆よかったけど、映画自体がおぼこい感じがして、意識が遠のきそうになることしばしばだった。


警察と一足違いで病院から逃亡する際、作中初めて、ヤケといってもいいくらいの軽快な音楽に演出がなされる。ギャンブルで儲けたお金で手に入れた車に兄を乗せた弟は、病院の車椅子を放り出す。車椅子が畳めないとか、車内にスペースが無いとか、「病院」にうんざりしていたとか、そういう理由なんだろうか?いずれにせよ、車椅子でなくても、松葉杖かそうじゃない杖でもあれば随分助かるだろうに、二人はそういうものを使わない。モーテルで目覚めた兄は、トイレに行きたいと、酔って床でつぶれている弟を起こす。「一人じゃ立てないんだ」


ふわふわのドーナツが並んだケースに弟が映る画が素敵だけど、本人はそれどころじゃない。あからさまなほど、まともな食事シーンが無い。
弟はギャンブルに勝った夜、兄の入院先へスープとマフィン?を誇らしげに持っていくが遠景のみ。二人でモーテルのテレビを見ながらの食事も、もぐもぐする後頭部が映るだけで何を食べているのか分からない。寝ている兄を置いてダコタ演じるアニーのところへ行くと、トマトソースらしきものを煮ており、味見はするが、食べる場面は無い。彼は彼女とのベッドを出て、兄の元へ帰り酒を飲む。最後の「湯気」とパン、牛乳がとても人間らしく見える。食べるのがまさに生きるってこと。


弟とアニーとの作中初めての回想シーンは、アニーが「妄想」を語るというもの。彼女に元々ある癖かと思いきや、次の回想で、そうしたやり方は彼に教えられたのだと判明する。だから、旅の終点であるエルコで再会した際に彼女が語る「今の暮らし」が「妄想」じゃないとその場で分かり、ほっとする。
兄が初めて「物語」を頼む時、「俺がヒーローになって女をものにする話がいい」と言ったから、弟はずっとそういう話ばかりしてきたんだろうか?人の作り話の内容なんて、ましてや映画の中なんだから何だっていいけど、いや映画だからこそ、陳腐に思われて白けてしまった。話の内容が変わっていれば、兄も変わったかも、なんてふと思った。

セインツ 約束の果て



ドラゴン・タトゥーの女」以来険悪なルーニー・マーラとの(私からの一方的な・笑)関係に変化があるかと思い出向いてみた。上記「ランナウェイ・ブルース」同様シネマート新宿にて、日に一度のスクリーン1での上映回を何とか押さえた。ロングショットが多いから、大きなスクリーンで見られてよかった。
舞台は70年代のテキサス、盗みをして生きるボブ(ケイシー・アフレック)とルース(ルーニー・マーラ)のカップル。子が産まれようとしていた時、二人は捕まり、ボブは刑務所へ。ルースは彼を待つ。


こういうテレンス・マリックみたいな見た目の映画、苦手なんだよなあ。まず画面が暗いので目が疲れる。映画か私かどちらかの側、あるいは双方に「科学的」な理由があるのか、「暗いものを見ると目が悪くなる」という説が私の中に染み込んでいるから偏見でそうなるのか、分からないけど。せめて子どもに本を読む場面くらい、明るくしてほしい(笑)
ともあれ今年の「アメリカ映画」なら例えば「MUD」みたいなケレンのあるやつの方が好き。最後の銃撃戦の差よ!


オープニングは「赤ちゃんが出来た」ことを告げる朝、次いで赤ちゃんをお腹に抱えた夜。後のボブと仲間の会話から、二人の間では「仲違い」と「仲直り」がいつものことだったと分かる。
冒頭の一幕で、ルースの「赤ちゃんが出来たの/怒ってる?」というセリフが心に残った。自分だけの意思で「母」になったのだろうか?「男」達が「保安官」「犯罪者」など自らの選択で何らかの役割を生きているのと同じく、彼女も「母」を生きている。だから作中「女」が一人だけでも、嫌な「特別」感が無い。とはいえ、男達がよってたかって一人の女にかかずらってるのは「キモイ」と感じてしまうけど…


逮捕される場面で、引き寄せられるように手と手を絡め合った二人は左右に引き裂かれ、後ろに家が残る。これは「象徴」。彼女が髪を短くしないのは、彼からの手紙に「髪が伸びた君」を想像するとあるからだと思う。彼が脱獄の後に訪ねた仲間の家で、カレンダーの写真に「今はこれが流行りなのか」と口にするのは、「今の彼女」を想像しているのだと思う。何も「説明」されない中、こんなふうに掴めそうな幾つかが浮かび上がっているのがいい。