道の神秘

道の神秘

解説

道に関する章はどれも難解でとっつきにくい。目に見えない物を説明する難しさを理解させるためにわざと難解な文章にしているのかもしれない。そこで道の姿を描いたと思われる神秘的な章をピックアップし、総合的に判断するための手掛かりを用意しておいた。これらの章は人によって解釈が大きく揺れるであろうから、下のまとめは非常時の参考程度にとどめてもらって、直接各章を当たって吟味して欲しいところである。

道がどこから来たか。それは第四章第二十五章にある。

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天地が生まれるより昔、混沌としたものがあった。私にはそれがどこから生まれたかはわからないが、宇宙が生まれるより前から存在した。宇宙はこれから生まれたんだろう。昔から今に至るまで、それは存在している。私にはその存在を上手に形容することはできないが、「道」とよぶことにする。
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ということで、正体不明の原始を道と言うらしい。では、それはどんな姿か。第四章第二十一章第二十五章にある。

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道をあえて形容するなら「大」だろうか。
静かでひっそりとしていて、確固として存在して変化せず、激しく動きまわっても壊れることはない。
道は形をつくるが、おぼろげでとらえようがない。とらえようがないが、その中には眼に見える何かがある。とらえようがないが、その中には物の形が見える。奥深くて暗いが、その中には心がある。その心は本質で、その中には真実がある。
道は巨大な器で、中の水を汲みだそうとしても使いきれない。淵のように深々と入り混じっていて、万物の根源のようだ。そして、たっぷりと溜まっているようだ。
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表現に少しぶれがあるか。無理して一本化すればこんな感じか。
「巨大な液状の球で、激しく対流しながら回転、あるいは円運動している。表面は霧状になっていて奥は見えない。」
これだと雲に覆われた惑星っぽいが、何か違う気がする。ということで、人が理解可能な道とはいい加減なものなのである。そこで第一章となる。

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「道はこうあるべきだ」という道は必ずしも道ではない。「名はこうあるべきだ」という名は必ずしも名ではない。
だから、無理に見ようと思わなければ本質が見える。しかし、無理に見ようとすると本質から外れた上辺だけを見てしまう。
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だから、このまとめが到底「道」を表せているとはいえない。また、よくわからないものへの対応を第十四章のように言っている。

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見ようとしても見えない、聴こうとしても聞こえない、取ろうとしても取れない。
これらは突き詰めてはいけない。最初から混ざり合って一つになっているからだ。
上だからといって明るくなく、下だからといって暗くない。ぐちゃぐちゃしていて表現しようがなく、物のようには対処できないんだという結論にまた帰っていく。
これを状態のない状態、物にはならない形と言い、ぼんやりと明るい状態とも言える。
これを見てやろうと正面にまわっても顔は見えず、背後にまわっても後ろ姿は見えない。
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道が世界に何をもたらしたか。それは第一章第四十二章第五十一章にある。

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名がないところから物事は始まり、名がついたところから様々なものが生まれる。
道は一を生み、一は二を生み、二は三を生み、三は万物を創りだす。万物には陰と陽が付随し、中心にからっぽの部分があってバランスを保っている。
道が「これ」を生み出し、徳が「それ」を取りまとめ、「それ」が形を持って物となり、そうやって道具が完成する。
それは誰に命令されずとも、いつも自分の意志で当たり前のようにはたらく。つまり、道は自然と「これ」を生み、徳は自然と「それ」を取りまとめるのだ。
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道は万物の生成に関わったようだ。道がきっかけを作り、徳が発展させたようでもある。また、何かの意志や命令があって生成したわけではなく、無意識に自然に発生させたようだ。

道はどんな作用を持ってるか。それは第二十五章第三十四章第四十章第四十一章第四十二章第五十一章を見れば良いだろうか。

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無から有が生まれ、有が万物を産む。
道のはたらきは弱者を助ける。道の力はこぼれ溢れるように右へ左へと拡がっていく。
道の動きは無に返る。大は行くことであり、行くとは遠くまで行くことであり、遠くまで行ったなら帰ってくる。
道は隠れたところから作用するから人間には見えない。しかし、道はいろいろ助けてくれて成功させてくれる。だから、すべての物は道を頼りにして命を得、育んでもらう。しかし、何もいわないので、成功しても有名にならない。それでいて、あらゆる物を愛して育て、支配しようとはしない。
道は誰にも従わずとも自分で立っている。
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ということで、道は弱者を助けるが、強者を弱める作用があるようだ。人には姿を見せないで、無→有→無を無意識に繰り返すのが道だ。弱める力は無への回帰でまとめた。

道を見て人がするべきことは何か。それこそが老子が訴えたいことなので全体を通じて読んでもらえばいいが、神秘を基準にピックアップされた中から見るなら、第二十五章第四十一章第五十一章にある。

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道を理解するとはボンクラになることで、道を進むとは後戻りすることで、安全で平らな道とは面倒な無駄道だ。
「道だけを尊敬して徳は貴ばない」などとするはずがない。道は尊敬され、徳も貴ばれる。
だから、人は地に従い、地は天に従い、天は道に従う。
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これじゃ、わからんね。
総合的にまとめるとこんな感じだ。

道には、無→有→無を繰り返すはたらきがある。この力は道から自然に湧き出てくるもので、誰からの命令も何らかの意図も含まない(無為のこころ)。
道から生まれた万物も、陰・陽・中でバランスされており、陰と陽が中を中心に激しく交代していると考えられる。
人間も人間社会も万物の一員だから、同じ動きをしている。つまり、陰気と陽気、成功と失敗を繰り返し、弱者と強者の立場が中間層を軸にして革命で入れ替わる。よって、中間にいれば変化から逃れられ(極と中)、弱であれば強となり(徳について)、強であれば弱に転ずる(失敗する人)。これは弱であるときは不安がる必要なく、強であるときこそ意識して弱に向かう必要がある(無への回帰、谷-低いところへ)ということだ。とはいえ、弱から強に転ずるには工夫が必要だから、逆転の発想も意識する。

その考えを自己修養に応用したのが聖人の心得であり、社会の統治に応用したのが聖人の統治である。