「神の愛による救い」 エペソ2章1−5節 2018年9月23日(日)港

   「神の愛による救い」 エペソ2章1−5節 

 本来、物質に命はない。しかし仕事上、この線は電気が通っているか、あるいは通っていないかと言うよりも「生きてる」か「死んでる」かと言うほうが伝わりやすく、危険が伴う仕事上適切な言い方である。このように「生きている」か「死んでいる」かという言葉は、生きている私たちには強いインパクトがある。

 ところで、聖書は「死に」ついて曖昧ではなく明確に教えている。
『人間には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。』(ヘブル書9章27節)と書いているが、死は必ず来ることを否定する人はいない。ところが「死後にさばきが定まっている」ということには、戸惑い、あるいは異議を唱える方もあるだろう。
 さらに、聖書は死んでも天国につながる永遠のいのちについて教えている。もし、この永遠のいのちを受けないなら『永遠の滅びという刑罰を受ける』(第2テサロニケ1章9節)と教えている。
 以上は2章2節の『自分の背きと罪の中に死んでいた』とはどういう意味かの説明である。つまり肉体は生きているが、背きと罪によって魂は死後、神による永遠の刑罰を免れない。このような状態を聖書では「霊的な死」と言う。そして、「霊的な死」にある人の生き方についての説明が2節―3節で、まことの神を知らないと、悪い霊の働きに晒され、悪い影響を受けるだけでなく、気づかないうちに悪い霊に従って歩むようになると教えている。

 さらにパウロは3節で、すでに神を信じている私たちもまた、かつては欲望に対しては無力で、欲望に支配されて生きていた者であったと証言している。
 つまりパウロは1−3節において、私たちは神から離れているゆえに、神のさばきを受けることを深く認識させて、4、5節にある神の恵みによる救いの有難さを分からせようとしたのではないか。
 例えば、体に潜む病に気づかないと、適切な治療は受けられない。同様に私たちも、罪は神の御怒りは免れないことを知ってこそ、神に救いを熱心に求めるのではないだろうか。
 では、何故に神は御子のいのちを犠牲にしてまで私たちを救おうとされたのか。

 それは、第1に神は愛なるお方ゆえに、ひとり子イエス・キリストを十字架につけてまで私たちを救おうとされた。
『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛がある』(第1ヨハネ4章10節)

 第2に神はあわれみ深く、恵み深いお方だから。もし憐れみ深く、いつくしみ深いという神の属性がないなら、私たちの救いは永遠になかったはず。この神の一方的な恵みによる救いを受け取るために、私たちがなすべきことは、良い行いや良い人間になろうとする努力は不要。ただ神のみことばを信じるだけである。