「は」と「が」

 文章をあまり書き慣れていない人は、テニヲハの「は」と「が」の使い分けで迷うことが多いようだ。


 わたしも、普通の人よりは文章を多く書いてきたはずだけれども、時々、「ここは『は』かな? 『が』かな?」と迷う。
 後で読み返してみて、「あれれ、ここは『が』じゃなくて、『は』じゃなきゃ変だよ」などと気づくこともある。


「は」にするか「が」するかは、たいてい、感覚的に決めている。いや、決めているという意識すらなく、テキトーに書き飛ばしていることが多い。


「は」と「が」の違いについて、文法理論上の説明もあるのだろうが、あまり気にしたことはない。
 いちいち「カ行五段活用の連用形は〜」などと考えながら文章を書かないのと同じだ。


 感覚というのは大したもので、たいてい、いい流れを感じる文章は文法的にも正しく、どこか違和感を覚える文章は文法的に何かがおかしい。
 まあ、多少は文章を読み慣れたり、書き慣れたりしないと、そういう感覚は身につかないけれども。


 逆に、文章を書き慣れていない人は、あまり文法上のリクツを気にしすぎないほうがいいと思う。かえって、混乱してしまうだろう。リクツより慣れのほうが近道だ。

はとがで遊ぶ

 あくまで感覚的な話なのだが、「は」と「が」を入れ替えただけで、文章の印象がだいぶ変わることがある。


 例えば、「鉄は熱いうちに打て」という言葉がある。わたしくらいの年になると、「ンな冷たいこと言わないでくださいよ」と手遅れの感を抱いてしまうのだが、それはまあ、よい。


 これが、


鉄が熱いうちに打て


 となると、ただの作業手順の話になってしまうから不思議だ。「蕎麦に水気があるうちに打ってください」というのと、あまり変わらない。


 シーザーに「賽は投げられた」という有名な言葉がある。政敵に決戦を挑むためにルビコン川を渡る際、こう言ったという。勝負に出てしまったのだからもう後戻りはできない、イケイケドンドン、エッサッサーというような意味だ。


 これの「は」を「が」に変えて、


「賽が投げられた」


 とすると、急に客観的・観察的な態度に見えてくる。俳句における正岡子規の「写生」の態度すら感じられる。
 一方で、どこか投げ遣りだ。軍の士気も盛り下がったに違いない(ま、シーザーと部下達が日本語でコミュニケートしていたならの話だが)。


 マリリン・モンロー主演の「ショウほど素敵な商売はない」という映画がある。これも、


「ショウほど素敵な商売がない」


 となると、いきなりハローワーク的な話になってしまう。まあ、なかなか思うような仕事に出会いにくい時代ではある。


 最後は、逆に「が」を「は」に変えて。


生きるか、死ぬか、それは問題だ。


 確かに、それは問題だ。


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「今日の嘘八百」


嘘百六十八 ターミネーター4では、あちこちの故障に悩む老境モデルのターミネーターが登場する。