自由間接話法という言葉を便利に使いすぎているのではないかという疑念はもちろんあります。だけどもうどうしようもなくそうとしか思えないのです。大変、大変遅ればせながら読み始めた、そして読み進めながら震撼とさせられている『苦海浄土』(石牟礼道子・著)という、およそ小説らしい顔をしていないのに、いや、たぶん、してないからこそ、これぞ小説、としか言いようがないこの小説は、小説ではなくてドキュメンタリーであると思われても仕方がないような書き方、語り方をしているからこそ小説なのです。
それは岩井俊二の映画も同じです。そしてそれは彼の仕事の、映像のテーマそのものでもあります。表現と名のつくものならどんなものでもとわたしは書きました。つまりはなにかについて書かれているもの、語られているものならどんなものでもそれ相応の、そして独特の自由間接話法が作動している(リリイ・シュシュのすべて=All about lilychouchou)。いまのわたしに言わせれば、図鑑や辞書も自由間接話法によるものです。wikipediaであっても同じです。フィクション/ノンフィクションなどという区別は必要ありません。重要なのは、なにか「について」書かれていること、語れていることです。
つまり自由間接話法とは、なにかについて書くための、語るための方法である。ただし、書かれているのは、語られているのはその「なにか」ではありません。あくまでもそれは「について」でしかないのです。もちろん「について」について書かれているのではありません。「について」に「について」はありません。それは不可能なのです。なぜなら「について」は、目に見えるもの、書かれたものでも語られたものでもないからです。それは世界に属していない*1。つまりは「なにか」ではない。ものではないもの。それはなにだと、これだと答えることができないもの。要するに、主体のことです。意識のことです。自己です。
主体とは、自己とは「について」である。つまりは意識のことであり、意味であり、他なるものへと向かう/帰る運動のことです。わたしはそれを自由間接話法と呼んだり隣人愛と呼んだりしているのです。他なるものへと向かう/帰るとはすなわち責任をとることです。それを「主体化」と晩年のフーコーは呼びました。なにか「について」語ることは、その「なにか」という他なるものによって/において主体的に振る舞うことであり責任をとることです。自己の自由にならないものと共に自由になることです。愛することです。だけどわたしはほんの数ヶ月前に、イタリアの作家アントニオ・タブッキの短編集『逆さまゲーム』についてのエセーの中でこう書きました。
この本の前書き(「はじめに」)の中で語られている作者の言葉を使えば、《こうにちがいない》と思っていたことが、そうでないということに気づくために、わたしたちに与えられたただひとつの方法、それは語ることである。なにかについて語ることだけが語ることであるなら、そんなことは元より不可能であるどころか逆に《こうにちがいない》を強化することにしかならないだろう。
だがもし語ることが、なにかについて語ることではないとしたら? つまりは、ありとあらゆるものに先立つものとしての、いや、ものではないものとしての語ること、言葉の運動、意味それ自体としての語ることは、わたしたちの《こうにちがいない》を解体せずにはいられないだろう。
あくまでも結果的にですが、つまりは考えたことを書いたのではなく、書くことによって/において考えたことなのですが、語られているのは「なにか」ではなく「について」であるという認識と、語ることはなにかについて語ることではなく、ありとあらゆるものに先立つ運動であり意味である、つまりは脱構築であるという認識は、同じ絶望に貫かれているような気がします。
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5.631 思考し表象する主体は、存在しない。
5.632 主体は世界に属するのではなく、それは世界の限界である。……ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』どうして主体は書き込めないのだろうか?
思考し表象する主体(書く主体)とは、思考し表象する人間(書き手)のことではないからである。思考し表象する人間(書き手)のことならば、いくらでも詳しく本の中に書き加えることができる。しかし、どんなにその人間(書き手)の詳細を書き加えても、その「詳細を書き加えること」そのものについては書くことができない。いや、その「詳細を書き加えること」についても、さらに記述を加えることはできる。しかしその場合には「さらに記述を加えること」そのものについては書くことができない。
このように、どうしても書き込めない主体とは、思考し表象する人間(書き手)のことではなくて、思考する・表象する・書くということそれ自体である。そのような「行為それ自体という主体」は「思考され・表象され・書かれた」内容の中には登場しえないが、しかしその内容を成立させている「不在」としてはある。「思考し表象する主体が、世界の限界である」とは「書くことそのものとは、書かれた内容の全体をぴったりと覆っている不在としてある」ということと同じである。
……入不二基義『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』
*1:5.632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。……ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』