Hatena::ブログ(Diary)

月のひつじ

2017-02-21

本能寺の変 …の変 ~火事場泥棒~


茶の湯のことをオモシロがっている内、本能寺で足止めをくらう。

誰もが知る「本能寺の変」。

けども知らないコトもまた、多。

興味の本スジが「信長VS光秀・どうして?」に絞られ過ぎて、そこからこぼれた史実が、埋もれぎみ。


なぜ、その日、信長京都に、本能寺にいるのか?

事件前日、彼はそこで茶会を催す。これを含め諸々な用あっての上洛、本能寺滞在。

前日はもてなしとしての会食をし、茶を点て、収集したいわゆる"名物"の数々を、九州の2人の実力者に披露していた。


神屋(貞清)宗湛(かみや そうたん - 神谷とも記す)

島井(茂勝)宗室(しまい そうしつ - 宗叱とも書く)


この2人が主客。

京都在住の複数の茶関連者も同席したろうけど、方々は宴が終われば引き出物をもらって帰れちゃう。

信長一行と九州の客人はお寺にお泊まりだ。

で、心地良さげに就眠した翌早朝に襲撃を受けて、誰もが知る"本能寺の変"となるわけだ。


会合は、おそらく、この両名から申し出があったと思われる。当時、島津家勢力を拡大し、地域(博多豪商だった彼らは色々おいしい既得権を奪われかねないと危惧し、信長の庇護を受けようとしたというのが通説だ。

それで茶会がセッティングされた。

信長としても、九州方面の3大豪商といわれた内の2人からのラブコールなんだから、大いに喜んで(政治的かつ経済的に)の謁見なのだった。

信長は、ここぞとばかり、収集していた茶道具を安土城から持ち込んで、彼らにそれを見せびらかし、いわば権勢を示し、

「ボクについておいでよ」

ウィンクを投げ返して歓待を示したわけ。


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その翌朝早々の不意打ち。1万2千か1万3千人の兵であったらしい。

信長は、小姓を中心に側近300人以下の無防備。しかも大半は馬方衆など日常的スタッフだったから、お寺で寝るコトが出来ず、門外にいる。

平成19年の京都府の再調査で、当時の本能寺が四方は2町(およそ220m)に及び、全域に堀をめぐらせた、かなりな防御的砦の様相を呈したお寺であったことが判明したけど、多勢に無勢の極例だ。

東西南北3重4重5重に光秀軍に囲まれちゃって、一挙怒濤で攻められたわけなのだから、後のカスター将軍の大隊全滅よりはるかに激烈。

わずか220m四方の空間に1万2千人… とんでもない密度。

かつて信長は、戦場で、浅井長政の突然の離反でもって超絶な窮地に置かれたものの、僅かな家臣と共に逃げのびた事があったけど、本能寺ではその脱兎も出来ない、1分の猶予もない状況に追い込まれた… ワケなのだ。

前日の茶会を実務面で仕切ったと思われる一雲斎針阿弥(しんあみ)も、信長や蘭丸ともどもに落命する。


ところが、その苛烈な状態にあって、脱出した人もいる。

信長がかわいがって武士身分をあたえたらしき黒人の弥助(ヤスケ - ポルトガル宣教師奴隷だったのを信長がもらう)は、信長本人から逃げ出せと云われ、成功。その足で、やはり襲撃されていた信長の息子信忠の元に駆けつけ奮戦している。(その後の消息不明)


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※ 朝日新聞社刊『週刊 日本の歴史』より。


それから、信長の日常の世話をしている複数の女性も脱出できた。

うち1人は、のち江戸時代になって小倉藩に仕える津田家という200石取りの藩士の総祖母となる人だけど、当時は信長の女中(女房役という)だった人。

織田家とは遠縁にあたるらしい。(織田家の出自を辿ると津田性になる)

この人の証言は今に残り、流血しているらしき信長に駆け寄ろうとするものの、女の出るまくではないと部屋から押し出され、そのあと、中間(ちゅうげん)だか誰かが信長を背負って裏門に向かうのを目撃したという…。

その信憑はともあれ、彼女と他数名の女性が脱出したのは確かなようである。


で。

もう2人、脱出したのがいる。

それが主客だった…、神屋宗湛と島井宗室の両名だ。

2人は茶会のあと、そのまま本能寺に逗留し、すなわちお布団を敷いてもらって眠り… 早朝に、難に遭った。


この時(天正10・1582)、博多最大の豪商に成り上がっていたとはいえ宗湛は31歳だから… まだ出家はしておらず、坊主頭ではないはず(宗湛の名は出家してから)。

かたや宗室は43歳。こちらもまだ出家しているワケではなさそうだから頭髪もあったろう…。

寺の坊さんなら殺害される可能性はチョットだけ薄くなったかもしれないけど、この2人、髪を結わえ、その場にいりゃどう見たって信長関係者なんだから、即行で殺されてもいいのだけど、どういう次第か、逃げ出せた。

お客として本能寺に来てるんだよ、廊下や部屋の構造を熟知しているワケもなかろうに…、どうやって早朝の暗中を、脱出不可能ないわばアルカトラズから出られたか、これが判らない… んだ、ボクには。


しかも、両名ともども、前日に信長が自慢して見せたお宝、"名物"を持ち出しての脱出だ。

神屋宗湛は、宗時代の中国の僧牧谿もっけい)が描いた水墨画を軸に仕立て直した 『遠浦帰帆図』(えんぽきはんず)を。

島井宗室は、空海すなわち弘法大師直筆の巻物『千文字』を。


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この2品は、はるか後の江戸時代、松平不昧(ふまい - 松江藩7代目藩主松江を茶湯文化の町にしちゃった茶道楽のヒト)が所有することになる。

おそらく不昧は高額で買い取ったのだろうが、ま〜、それはどうでもよろしい。

ボクが判らないのは、先に書いた通り、なぜこの2人は無事に脱出できたのか?

また2人ともに、信長のお宝を、なぜ持って出たか?

この2点で足踏みさせられてしまうワケなんだ。

普通、まず状況的にいって逃げられないでしょ。信長ですら逃げ出せなかったんだから…。

その上、"名物"の持ち出しだ。まさか就眠した部屋にそれがあったワケはなかろうから、彼らは「探した」には… 違いなかろう。

掛け軸を巻いてフトコロに入れちゃって… るのは、茶器だと、それは箱書きが座った豪奢な桐箱に入ってかさばるから、ドサクサでは無理だったんだろう。

しかし、この振る舞いはまるで、火事場泥棒じゃ〜ござんせんか。


身長1m90cmほどで真っ黒い弥助が切り抜け出られたのは、おそらく、その異形ゆえに対峙の兵士側がビックリ竦んだと思えるし、複数の女房役が逃れられたのも何とはなく判る…。ま〜、事件が夕方とかなら違う展開になったかもしれないが夜明け前後のことだし、場所が場所、天皇の住まう御所からわずか1800mに満たないお寺さん、当時最大最先端の街のドマンナカだ。逃げる女性を乱暴するような時刻でも場所でもなかったろうゆえ…。

けども2人の豪商はどうだ?

今と違い、兵士と民間人は別という概念有りの修羅場じゃない…。討ち取ったヤカラの首を提出して、"価値あり"と判ったら恩賞がもらえるだよ、この頃は。攻める方もだから我が手で手柄をと必死。

ああぁ、それなのに何故2人は脱出出来たの?


で。もう1つ、妙なことがある。

島井宗室は本能寺の変の5ヶ月前(天正10年1月25日)に、堺の浜辺で催された茶会に招待されているが、この主催者は、な〜んと、明智光秀なのだった。


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※ 晩年の鳥居宗室像


これら史実説明してくれる親切な本やら記事に、まだ、出会えていないのが残念だ。

ま〜、あんまり深く考えすぎると陰謀説めいた袋小路に堕ちちゃうから、ここは今のところ、緒事実のみの列記で終える。

2人の"火事場泥棒"は女装して逃げたんか? などと余計な詮索もしつつ。


こ〜いう場合、岡山県北の津山界隈にゃ、便利な方便がある。

「どういう、まぁ…」

と、ヒトコト云って黙り込むんだ。

あとを続けず、ただもう感歎なり感嘆した状態でもって意識的に固まるんだ。

「どういう、まぁ…」のあとの無言がこの場合、ビックリ効果増幅の要めなんだ。なかなか便利だよ、これは。

西洋式なイエス・ノーの二分化がこれにはないの。

取りようではイエスであり、またノーでもあるような、アイマイが肝心。

だから、こういう語法の地域からはトランプのような人物は産まれにくい。

それが良いか悪いかは、判りませんけどね。


ま〜、ともあれど時代かわって2017年の今現在。

『千文字』は明治になって松江藩終焉したさい、博多駅から15分の東長寺に寄贈されたらしきで、今は同寺所有の"宝物"だ。

『遠浦帰帆図』は京都国立博物館が蔵し、重要文化財に指定されている。

遺体探索も困難な程に焼けきった本能寺から、この2品、よくぞご無事で… としかいいようがない奇っ怪数奇だけど、事の実相を… 知りたいもんだ。

2017-02-15

ケッパンジータッ


この年齢になると、どうも政治のニュースに耳がとがり、知見もないのに何か云いたがりそうな自分がある。

それで、遠方の石を眺めて感想するよりは、足場の小石をば眺めて感慨するというアンバイ視線を変え、自分も使う方言について、ちょっと電流の流れを切り替えるコトとする。


表題の「ケッパンジータ」は、その方言の一節。

ケッパンズイタ… とも云う。

岡山地方南部に広く分布した方言。

これ以外の地域の方には意味不明だろう。イタリア語ではない。

何かにつまずく(つまづくはマチガイ)かして、転ぶか、転びそうになったコトを云う。

実のところ、その"ケッパン"が意味するトコロを使ってるワタシらも、知らない。

去年の10月。下石井公園にて朝10時頃、夜のジャズフェス・イベントの準備にいそしむスタッフが集って休憩してるさい、この「ケッパンジータ」が話題になって、大いにゲタゲタ笑ったもんだけど、

「ケッパンって何ぁ〜に?」

誰1人、コトバの意味あいを知らなかった。

知らないけども使ってる不思議…。だからま〜、余計に大笑いなわけでもあったけど。


本来、方言はとっても限定された空間の中にのみ存在したり生息するもののハズなんだけど… それが妙なアンバイ拡散するというのも、またありうる。


岡山の場合、明治19年に岡山懸尋常師範学校(市内藩山町・天神山文化プラザのすぐそばに今も池などの遺跡あり)というのが出来たけど、これが拡散の発端、だろう。

そこは校長クラスの先生を養成する学校。生徒は県内外アチコチの優等生で、全寮制。食費も制服も全部、県費でまかなわれるというスペシャル優遇。

明治という時代は、西洋に追いつかなきゃと… 急速充電のドタバタ時代。学校教育という新たな場の設置がこの優遇の正体だよ)


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で、当時のこのエリート青年らの寮生活から、誰も予見しなかった"師範言葉"が生まれた。

いわばアチャコチャの方言がこの寮でミックスされブレンドされ、岡山コトバではない、彼ら独自の”言語”が出てきたワケなのだ。

意識されたものでなく、自然とそうなったコトバ。

生徒らは卒業するや若い校長や指導者として県内各地に赴任する。

そのコトバで教育指導するから、田舎というか地方は当然に感化される。

"師範言葉"が拡散してしまったのだ。


たとえば、「ボッコウ」というのがあるけど、これは漢語の「勃興」だ。

鎌倉時代に入ってきたらしき単語で、一般的なもんじゃなく漢詩の中のみに生息の単語だった。

それを師範学校の生徒たちが、"大いに盛ん"という場合の用法として面白がって日常に使いだし… やがて文字通り「勃興」拡散し、これが現在の岡山弁として定着してしまう… のだからオモチロイじゃ〜ござんせんかぁ。

メッチャ怖いわ、の「ぼっけ〜きょうてい」はその活用だ。


「オエン」も、そうだ。

駄目という意味あいだけど、実はこれはお江戸界隈のどこかの方言だ。江戸(関東か)方面では「悪縁」と書く所もあったらしいが、今、手元に資料がないんで出典を明示できないけど、悪(お)・縁(えん)、だからダメ… ということなのかしら?

「手にオエネ〜や」

などと使われてた。

それが岡山師範学校内生徒間で流行り、やがて彼らが教師として市内外に出て、地元の教師や子供らに接して、いわばウィルスを植えるようなアンバイ岡山弁に定着してった。

「ボッコウ」も「オエン」もそれ以前の岡山ビトは使ったことがないのだ、よ。

だから少なくともこの2つは、先生が教え広めたことになる。

言葉が乱れたのか、進歩したのか、それはさておき、全寮の師範学校という小さな閉じた存在が、日常言葉を更新させてしまった次第なのニャ。


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袴姿での女子師範学校の運動会。これは何やってんだろ?


可笑しいのは…、明治35年に初めて女子師範学校岡山に出来たさい(市内大供)、この時すでにベテラン教職員になっているかつての師範学校出身者たちが、岡山での子供の日常言葉が変になっているので、女子師範校ではそのような各地方言ミックスではいかん、

「日本の中心コトバ・東京の言葉を基礎に置くべし」

と陳情してるトコロだ。

いささか反省したんだろう。

けども残念。そうはなっていないね〜。1度沁みてしまうと、言葉というのはなかなか色落ちしないもんなんだ…。

なので相変わらず、明治19年の師範学校言葉を、引きずって、

「そりゃ、オエンで〜」

なのだ。

けども一方で全てがそれに染まる… というコトもないのであって、例えば県北の津山界隈と県南岡山市界隈の言葉は、今も違う。お水に例えるなら軟質に硬質というアンバイで、県北方面では易々には言葉換えが生じなかったようにも思える。


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で、「ケッパンジータ」だ。

何でしょうな、これは。いささか古い、方言を扱った本を眺めてみたけど回答がえられない。

どこか… 内出血としての「血斑」が背景にあるような気がして… しかたないけど根拠を示せない。

が、もしそうであるなら、これもまた師範学校だか、医学校(師範学校の近く、天神山にあった。岡大医学部の前身)の生徒らが、新知識としての「血斑」をオモチロガッて、転んだ学友の脛の辺りの鬱血だか変色を指し、いささかの嘲笑をこめてそう云い出したかも… 知れないじゃ〜ござんせんかい。

血の色にハンコを連想させ、印を突くという感じで。

ま〜、このテキストのトップに還ると… 国家が「ケッパンズキ」そうなアンバイだけは容赦していただきたいワケだけど、方言と思われてるコトバの根っこ探しはあんがいオモシロくって、郷土愛の温度があがるわけでもないけど、ちょっとした息抜きにゃなった、よ。

2017-02-10

冬場は夢が旬 ~ダリ~


眠ってるさなかの、夢。

冬場のそれと夏場のそれとは、なんか絶妙に違うような気がしている今日この頃。

皆さんいかがお過ごし、じゃ〜なくって、思われるかしら?

ボクの場合、どうも冬場の方がオモシロイのを見てるような感が濃い。

目覚めると同時にホボ消えはじめ、数秒後には、

「ナニ見てたっけ?」

もどかしいコト極上だけど、冬の夢の方がチョットなが〜くて、ドラマチックなもののようだ。たぶん、おフトンの温かみのヌクヌクが影響してるとは思うけど、ボクの場合、なが〜いSF仕立てのドラマが多い。

紅い砂の火星の広漠とした光景の中を鉄骨とガラスで出来たスクールバスみたいなのに複数で乗って、だいぶんと先にある音楽会場に向かってる道中でのアレやコレがどんどん脱線的なハナシとして紡がれる… みたいな。

だから、あんがい… 愉しい。

そういう長編を夏に見たおぼえがない。

そう思うと、夢には旬があるのかな? とバカなことを考えもする。

「2月の夢が最高だね〜」

などと云ってみたいもんだ。

云って、得するワケもないけど。


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夢を扱った本や作品は多い。

けども、他人の夢のハナシにつきあいたくはない。

けども、中には、ボルヘスのような秀逸もあるし、これは個人的ハナシだけども某BARのママの夢の中で、

「アンタと一緒に火葬されかけた…」

というような怖い実話(夢のね)もあるんで、全部を拒絶するわけでもない。

夢物語という括りだと小説も映画もいっさいがその範疇に生息するんだから、な。

夢の生息場所は広大… なんだ。


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6日ほど前、某ライブハウスにてOH君がただ1曲のみ歌うというシーンを観覧後、場所換えて数時間(気づくと朝の3時だったね)ヒチャチブリに呑んで語らったさなか、ダリのことが出てきたけど、ダリという人物が紡いだ作品をどう位置づけるかで、ダリの評価とダリを観る人そのもののカタチの輪郭が判るような… 気がしないではなかった。

シュルレアリスムと夢を一直線に結ぶ気はないけども、射程範囲の近似にはあるから、以下を書く。


ピカソがいい!

マティスがいい!

というのと、ダリがいい! というのとでは、どこか、何かが、決定的な違いがあるような気がして、いけない。

そこを確信的に語りきれないのが、ま〜、ダリのダリたる由縁なんだろう。

OH君も最近どこかで作品に接したらしきだけど、ブログに書きにくいと… にがく笑ってた。

そこはとても共感だ。ダリというのは描写しがたい属性がある画家なんだから…。

ダリは、深いようで浅い。

洗練されているようで、ダサく、うさんくさい。

鋭敏なようで鈍感な直情だったりする。

都会的? い〜や、だんこ田舎っぺ〜である。

以上はボクの感想だけども、その逆も同時にヒッソリ温存する。

ダリは、浅いようで深い。

ダサイようだけど、洗練されている。

直情にみせかけ、実は多感かつ繊細である。

都市の空気を呼吸し、吐く息はメトロポリタ〜ニャである…。

それら切り口の見極めがかなり曖昧でわかりにくいのが、ダリなんだろうとも思うし、ボクが好いているポイントのような気もする。

決定的にわかっているのは、ダリが、実にマジメなヒト、時に保守的な程に勤勉なヒトということ… だろう。

彼の著作、たとえば「天才の日記」などをめくってみると、扇情な記述の根底にマジメ過ぎの硬い人物がいて、グンニャリした時計を描くヒトには思えぬところが多々あって、衝撃させられる。

たとえば––––––––––––––––––

女性の腋毛のこと。

自分のウンコのこと。

部位的観察と考察が、真摯かつ高らかで、対象に向ける視線のピュア〜な度合いはちょっと部類がない。

ピカソにもマティスにも、そこまで露骨な正直はない。

ただ、そのピュア〜を絵画でなく文字で綴ってしまったところに、ダリのほころびがあるような気もするし、また、そうでないとも… とれないでもない。文字を連ねるダリの中の、虚実の分数配布が徹底して巧妙で惑乱させられもするから余計に。


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夢という括りでもって彼のシュルレアリスム画を眺めるボクの感想は、だから未だ定まらない。

定まらないけど、ただ1つ、彼の描く空の色だけは、これは別格と思って久しい。

その色合いには、夢の朦朧がない。

彼が描いたカダケス、ポルト・リガート、フィゲラス辺りの空の色は、日本や英国のそれでなく、スペインの空、それも地方の夏場のそれ… そのものに見える。

とても深く、とても濃く、とても透明。紺碧という1語じゃ括れない、ダリの絵にのみある色だ。

どうもそこに、夢が入る余地のないダリの現実があるよう思える。


ダリの実物をボクが直に見たのは、はるか昔の大学生の頃で、大阪の大丸だか三越での規模大きな展覧会だったけど、思った以上に小さなキャンバスだったそれらの中の、濃く深い青を見た刹那の、吸い込まれるようなブルー感覚ったら… なかった、なっ。

いまだ、その時に相応する感覚を味わったことがない。


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※ フィゲラスのダリ美術館で昨年に開催された真夜中のイベント。その告知ポスター。チケットは数分で完売だったらしい。


なので、いまさらに気づいたんだけど、ダリという画家を彼の画法に見合わせてシュールな空間に置く必要はないのかも知れないのだ。

彼の"浅い夢"とは切り離し、彼が無自覚に切り取っていたスペインの空気(とくに空)を味わうべき作品群… なのかも知れないのだ。

空は、ある意味では無だし、無は夢とも語呂合わせ出来ちゃうし… というのは過剰だけど、ダリもまた、夏と冬では違ったタイプの夢を見てたかしら? などと思ってみるのも一興だ。

その夢の中にも、彼の"空"はあったろうかも知れないし、その青さのみは、たぶん、ドリーミーなもんじゃない真実でしかない色彩だった… ような気がするわけなのだ。

少なくともボクは、彼の多くの絵に、"夏の暑熱"を感じる。汗ばみをおぼえる。


内乱の予感」やら「記憶の固執」やらやらのタイトルも内容も実はさほど… 自分が毎夜に浴びる夢同様に意味はなく、それはあくまで手段で、彼は一貫して自分が吸っている空気の色、わけても、空模様を描いていただけかも知れない。

そう考えると、ボクはますますダリが好きになるなぁ。

ダリは、空を、カラッポを描き、かつ、演じ続けたんだ。…と。


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ダリの作品中、イチバンに好きなのがこの『パン籠』。

1945年の油彩。33×38cmと小さいながら、ダリ宇宙が詰まってる。

フェルメールの『ミルクを注ぐ女』に登場のパン籠にいわばインスパイアされたもので、多くの評価はその描写に眼が注がれるようだけど…。

けども、そのスーパーリアルな技法に感心してちゃ〜いけない、と思うのだ。

それはダリの口実。


この作品の以前1926年にも同じタイトルでパン籠を描いてるけど、それとこの作品では作家ダリの心の在りようがまったく違う… とボクはみる。

本作の画面全体2/3を占めるダークな部分こそが命。

この絵を紹介するさい、黒部分をトリミングした例が多々あって、無茶をやるなぁと呆れもする。

1枚の絵として、この黒の占める割合と配置は、絵としての構図をあえて破綻させてもいる。

いるけれど… そこが要め。

空につながるカラッポがここに置かれているワケなのだ。その暗がりをジッと眺めてると、本当にカラッポなのか… と絶えず絵の方からこっちに問い合わせてくるから、これはとても空恐ろしくもある。

プラネタリウムを体感した方なら判るだろう、明かりが落ちるや、コンクリの丸天井が突然に無限大の空虚に変じる… あの闇に吸い込まれる感覚。

その黒は、どれだけ精度があがろうが印刷では再現出来ないだろう性質の、直筆の深みだ。

ダリは空間そのもの… への畏敬をここに籠めた。


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量産といってもいい程に似通う絵を描き売って拝金主義と嘲笑もされたが、またそれを逆手にとってDALIとDOLLARを組みあわせた造語まで創って自己弁護でなく、ただもうヒトをケムに巻く手法に徹したダリだけど、この『パン籠』は終生手放さなかった。

そこのところに、「天才の秘密」があるような気がしてしかたないし、また同時に、彼の、彼の中の限界もまた感じないわけでもないのだけど、すくなくとも、この絵は画家ダリをダリたらしめて永劫の香気と光輝と宇宙的意味合いでの熱気を放ってると… 2017年2月のボクは思う。

そう、この絵は、"冷暗ながら尋常でなく熱い背景放射"を感じさせてくれる、唯一のヒトの手による絵画なんだ。

と、ことダリに関しては風呂敷拡げて誇大を申すのがヨロシイようで。

2017-02-05

抹茶に連想されるまま


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土曜の山陽新聞朝刊に載ってるボクの顔写真は、お爺さんのようで… いただけない。記事になるのはありがたいけど、締まりなく笑い、なんだか模型愛好の好々爺という風情。赤裸を晒して、哀しい気がしないではない。

ま〜、しゃ〜ない。

実際、お爺さんの年齢ではあるんだし、ことさら今さら、若さを主張したってシカタない。逆に… 若さからは遠いトコロにいる自分を誉めてあげよう… くらいに思って慰めにかかる。

この前の講演時の写真が届いたので、ここに数枚載せ、さほどお爺さんでないよと主張する…。


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ぅぅむ。

ううむ…。

という次第で、内なるお爺さんを意識しつつ… 茶話を。


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中国4千年の歴史、だなんて云うけれど、幾たびも興亡が繰り返され、けっして連綿な正統、連続国家としての中国があるワケでない。何かのCM用に某高名なコピーライターが作った造語としての4千年に過ぎず、極めて乱雑に「中国」の2文字を4千で括ったに過ぎない。

むしろ、「中国大陸」と書いた方が判りよい。そうすると、実は伝統的に歴史が定着しない強者蛮勇にして跋扈なだけの場所じゃあるまいか? いずれまた大きくヒックリ変えるんじゃなかろうか… とも思えてくる。大地は確かに硬いけども、表層の砂塵同様に人身もまた揺らぐ土地柄な感が、する。


抹茶は、その中国大陸にはじまった。

茶葉をダンゴ状にした団茶という喫茶法からスタートし、やがて抹茶に変じ、それを栄西(ようさい)が日本に伝えた。

以後、日本は抹茶を頂点にした茶文化を成立させ定着させていく。でも大陸はそうならなかった。

多数の詩人や茶人を輩出させ独特な良い香りもたった唐(悪しき楊貴妃もこの時代だけど)から宋への興隆期を経て、栄西帰国したチョット後、モンゴル帝國の侵略でルネッサンス的香気は途絶した。

強硬に元(げん)に姿を変えさせられ体制も変わった。拡大主義の元は日本にも侵攻したけど断念したのは承知の通り。

侵攻者はたいがい自身の文化を押しつける。ほんのこの前、中国台湾に侵攻した日本もそうだった。あちゃこちゃに神社を建てて日の丸に拝礼をさせ、そこにあった文化を壊しにかかった。

ご同様、いやそれ以上に、宋の、生活慣習を含む文化は極めて徹底的に潰され、モンゴル流の慣習を押しつけられて、抹茶も失われた。

元の時代が過ぎて、明となって民族的復興期になったさいには、もう茶をたてるさいの茶筅(ちゃせん)のカタチすら判らないホドだったと、岡倉天心は例証をあげて自著に書いている。


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かわって、この大陸に定着するのは、茶葉を粉末にするのではなく、煎じて飲む、いわばガブ飲みする喫茶法だった。

砂塵舞う乾燥した大陸風土は喉が渇く。そこにこのガブ飲みは実によく見合った。禅思想をからめた少量摂取な喫茶でなく、客人の椀にはたえずナミナミ注ぎ… 水分補給の実利を共なった今に至る飲茶手法

だから、ある視点から見れば、中国は茶の発祥地ではあっても、抹茶による茶湯の本場とはいいがたい…。

といって、日本が本場と云いたいワケでない。

地理的な幸運条件と、国土の90パーセント以上が山で人の密集度が高かったゆえの定着と発展… であっただけかも知れないのだから。

何事かを契機に何事かが失われ、同時に何事かが生まれるという次第は、昔も今もかわらない。


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しかし、「茶」というのは不思議なほどに拡がりがあって、オモシロイ。

元にあるのはチャノキ(茶の木)のみ。

そこから抹茶やら煎茶やら緑茶やら紅茶やらヤギのミルクと一緒にグツグツするのやらやら、多様に拡散しているんだから壮観。

米国を造った、英国から分離の方々はどうしてコーヒーに向かったのかしら?

さほど考えるまでもなく、インドセイロン経由の物産英国がしっかり押さえてるんだもん、手に入らないワケだ。なので大陸続きな南米コーヒー豆で代用という次第が、しだいに定着し、気づいたら、それがなけりゃ朝がはじまらない… となったに過ぎない。

実際はヨーロッパ圏では紅茶よりコーヒーの時代の方がながいけど、米国はその建国の代償として紅茶を失ったというワケなのだ。


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北アメリカ大陸には、方々が入植時、空が真っ黒になるほどハトがいた。

集団で移動するので、リョコウバトの名をつけた。少なく見積もっても、50億羽いたと推定される。これのお肉が柔らかで実に美味しい。

そこで獲りにとり喰いにくった。脂っぽくなった口を洗い、かつ呑み込むのに、薄いコーヒーがこれに実に見合った。

コーヒーは肉にぴったりマッチし、ここでもガブ飲み。大量消費の先陣がここにはじまった。

だけど、気づくとリョコウバトは激減。

保護にかかった時はもう手遅れだった。

悲しいかな、リョコウバトの産卵期は年に1度きりで、しかもタマゴは1ケのみという、もろい種族だった。それを喰いにくいしたワケだ…。


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映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3』は1885年が舞台だけど、マーティのご先祖一家マクフライ家)の食卓シーンは野ウサギだった。その頃にはもはやリョコウバトはひどく減少し、買うにしても高額で、貧しいマクフライ家のディナーには登場しないというワケなのだ。


保護されていた最後の1羽は1914年の9月1日のお昼1時に、老衰で死んだ。

1つの種がヒトの欲望で絶滅した、記録に残る最初にして唯一の事例だ。

最後の1羽は雌でマーサと名づけられ、今は剥製となってスミソニアンに展示されている。

ま〜、コーヒーを悪者にする気はないけどね、絶滅の目撃者だったとは云えるかもしれない…。

(マーサは建国の父ジョージ・ワシントンの奧さんの名)


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古代エジプトの食物誌を眺めるに、ミルク、果汁、ビールワインはあるけれど、休息や安穏を意味するところの"茶"に類するものはない。

文献の多さから察し、おそらくはビールホップは入っていなくって苦みなく、ドロッとした低アルコール、逆に度数が高いのもあったようだけど、ストローで呑む)がそれに該当していたろうとは思うけど、分別しちゃえば酒なんだから、かなりニュアンスが違う。

もしそこに茶があったなら古代エジプト文明もまた相当に変わったものになったろうとも思うけど、なかったんだから、ま〜、しゃ〜ない。

エジプト文明中国黄河)文明の最大の違いは、チャノキがあったかなかったか… という一点で括ってみるのもオモシロイ気がする。

2017-01-31

ここ最近 〜プリデスティネーション〜


1月終わり。2月が来る。

早いな〜。

ババ抜きトランプがイスラム圏7カ国からの入国禁止を指示し、あちゃこちゃで混乱が生じてるさなか、アベコベ総理が、

「コメント出来る立場にない」

だって…。耳を疑うね。


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昨年8月末に亡くなったジーン・ワイルダーを偲ぶ。

この人をボクはズ〜〜っと等身大で崇拝していたよ。今もそう。スクリーン上のそのカタチを模倣しているようなトコロもある。

出演した映画はいずれもジーン印とでも呼ぶべき独特な芳香があって、それはヒョウキンと真摯が格段の精度で1つの歯車になってる彼の演技から出てた。だからホントは真似ようとあがいたって遠く及ばないのだけども、スタイルの指標として彼は今も強い磁場をもったパルサーであり続ける。

『ヤング・フランケンシュタイン』、『大陸横断超特急』、『チョコレート工場の秘密』、『スタークレージー』などなどなど。愁いの上に塗布された諧謔、あるいは滑稽の上にコートされた憂愁… その2面が時に鏡のように向かい合う瞬間の演技が彼を電波天体めいた独特な存在にしている。


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しかし、傑作なのにいまだDVD化されない複数の作品があって、亡くなったさい、発売されるかとも思ったけど、期待だけに終わって早や半年…。

上記の『スタークレージー』をはじめに、『ハンキー・パンキー』、『ウーマン・イン・レッド』、『見ざる聞かざる目撃者』… いずれもVHS時代のレンタル・ショップにあったものが、DVDの時代になるとプレスされず、いわば淘汰されて今にいたってる。

残念なことだ… 偲びつつ、口惜しさも拡がる。


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某日。お仲間24名でのパーティ。

あんがい良かった「丸屋」のボリュームとお味とスタッフの対応。ただ、これっくらいの人数で着座しちゃうと、向こうの方の人とあんまりオシャベリ出来ない。

れいによって愉しい時間というのはアッという間に過ぎる。

けどもこたびは、祭りの後の寂しさをいささか身に沁ませた。寄せる波よりも退いてく波にボクはのって… そこから景色を眺めているような気がしないでもなかった。


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遠近両用なメガネに次ぎ、作業用に拡大メガネを購入。

メガネの上にメガネをかけて… と考えたワケだけども、むしろ単独使用の方が利便で広角度クッキリ。これは思わぬ拾いモノ。

しかし、ど〜矯正しようともクタビレ易いメダマに変わりなし。近眼(チカメ)な作業では、10分に1度ほどは眼を閉じて休憩させてやらないとイケナイ。

不便な眼。


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拾いモノといえば、この映画。

プリデスティネーション』。

ロバート・A・ハインライン原作でイーサン・ホーク主演のオーストラリア産SF映画

「運命」とか「予定」とかいったニュアンスの"Predestination"。

派手な特撮CGは皆無。

低予算を逆手にとって、ヴァイオリン・ケースのようなタイムマシンが出てくるのが、この映画のカタチをよく示してる。

しかしダントツは、青年ジョンと女の子ジェーンの2つの役を演じたサラ・スヌークという若い女優さん。

青年ジョンに扮しての演技が際立って秀逸。フッとした瞬間に、我がお友達のEっちゃんの表情に似ていたりもして… 大変によろしいというか… 妙な親近もおぼえ、惹かれた。


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しかもあきらかに彼女が主役のイーサンをくっている。その存在で映画が成り立っている。

閉じた輪が次第に収縮し、いよいよ輪が輪として硬化して1つの檻と化すような主題とその運びも、なかなかのもの。タイム・トラベラー映画は数多あるけど、これは異彩異質を放って鮮烈。ボウイ主演の『地球に落ちてきた男』の結末に味わった苦みめいたものを久々に味わう。


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某日夕刻。「天神瓦版」筆者ケン発行者宅にて3者懇談。

濃い話に終始しアッという間に時間が過ぎる。昨年暮れに20号目の「岡山街歩きノオト」を出版の福田忍氏が"ラヂオ塔"を語る。

東京からこの岡山にやってきて、もう…ウンジュ〜ネンと御本人はおっしゃるが、ヘタに産まれ育ったヒトよりはるかに岡山を知ってらっしゃる。この人の行動力と興味の拡がりには頭がさがる。


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一方の「天神瓦版」筆者はまもなくモロッコに出かける。しばし、ディートリッヒが靴を脱いで砂塵の彼方に向かうあのシーンを話題にする。土産話が楽しみ。

彼が帰国したら、3人で、チョットした行動を起こせたらとも思う。その準備をしばしこれから。


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某日夕刻。別な会合。

ミーティングの間中どういうワケか、「春の小川」の一節がアタマに鳴り、さらにどういった連想か、明治になって東京と名が変わった頃の小鰭(こはだ)のにぎり寿司がアタマに浮きっぱなし。眼に銀色がチラチラ。

会合後、移動して酒席。

1月が旬の小鰭は… もちろん出てこないけども、先週はインフルエンザでシオシオノパ〜だった人がすっかり回復で元気に呑んでるのを見て、チョット、ほっ。

けどま〜、小鰭なんて、ボクは過去に2〜3度食べたかどうかという程度に馴染み薄な江戸前なんだけどね。お馴染みさんでないからナイモノネダリ… 余計にアタマに浮くのかも。

解散後、単独で吉野屋。久々味わう呑んだ後のコッテリ。お江戸の頃の小鰭ファーストフードだったよね… などとモグモグ思ったり。


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2017-01-26

茶の本


いつものことながら、イベントが終わると軽度なエアポケットを味わう。

さらなる模型というか、製作途上で中断しているのも有るんで、気にはなるんだけど、ま〜、あと少し、ここ2〜3日はボンヤリしちゃえ… と甘誘に浸透されるまま、何本か連続でDVDで映画をば観賞したりする。

普段あんまりしないけど、テーブルに足投げだして、横柄に。

こういうお気軽な飽和が、実は好き。

怠惰をはむ… とはよくいったもんだ。


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しかし、アメリカ映画ではショッチュウ、足投げだしポーズが出てくるね。

映画に限らず、たとえばオバマの写真など眺めるに、彼も執務室でテーブルに足投げだしをやってたりもする。

かつてのケネディクリントンもやってる。

ブッシュ親子やフォードもそうだ。

リベラル保守もこれは一緒。

アメリカンな慣習なんかしら?

文化とはいうまい。


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真似てみるものの、ボクの場合は5分もやると足しびれちゃう。リラックスできない…。

ま〜、かの国の方々が正座が出来ないのと御同様で、トコロ変われば足の居場所も変わるというワケだろ〜ね。


けども、怠惰時間もそ〜続かない。

S新聞社から取材の申し出。

あわてて毛繕いしてシャキッとしたところを演出… グチャラケになったテーブル廻りを片付けて、いっつもクリーンだよ… なんて顔して写真に撮られる。これにて怠惰な数日終了。ぁぁざんねん。


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岡倉天心の『茶の本』を再読。

欧米人向けに英文で書かれ、ニューヨークで出版され、当時、東洋というか日本文化理解の良書と絶賛されたらしきだけど… 今も評価変わらず。

すごいね〜、この人は。

横浜の、それも外国人居留地の中にある商館(絹糸の輸出)に産まれたから、日々ガイジンと接しての幼年期。

でもって、早や6歳で近所のジェームスさんから英語を学んだというから日本語と英語を両方ナチュラルに話せるバイリンガル少年に育つ。

そんなんだから通常なら眼が欧米に向かい、西洋にカブレてしまいそうなもんだけど、彼はそうならない。日本の古きに着目し憧憬し、そこを大事にしなくっちゃ〜な意気込みと熱意の温度を高めるんだから… すごいというかオモシロイ。文明開化の鐘がなる… の明治にあってだよ。


鹿鳴館が示した通り、何でもかんでも西洋を真似、古き日本はもう要らないと政府の要人ら多くが西洋カブレをおこしてるさなか、彼は流行りの風潮に背をむけた。

天心がいなきゃ、もっと大多数の日本の美術品(主に仏教系のもの。当時、神道がイチバンに格上げされて仏教が疎んじられたから余計に)やらやらが海外に売り飛ばされていたろうから、そこを思うだけでも… ゾッとする。


天心は書く。

大久保喬樹 訳の同書では、巻頭で、

茶にはワインのような傲慢さも、コーヒーのような自意識も、ココアのような間の抜けた幼稚さもない。

と、Tea(紅茶を含む)以外を罵倒する。

でもこれは主題じゃない。

西洋側の東洋への無理解、また逆の東洋側の西洋無理解、その格差を縮めようとの魂胆での、あえて挑戦的に煽った文章上のそれはテクニックであろう。読み手たる欧米人をまずは挑発し刺激し、次いで文化の相異を説いていく。その上で、茶を通じての文化論的東洋を克明に描いてみせる。

"茶碗の中で東西は出会う"

と、説いていく。

ま〜、見事なもんだ…。"コーヒーのような自意識"と書ける文体にも驚くけど、そう記せるだけ彼はコーヒーの味わいを知っているとも当然にとれて、ばっさり切られたコーヒーもタジタジとなるんじゃなかろうか。ココアにいたっては泣くんじゃ〜あるまいか。

ともあれページをめくれば、道教がでてくるし、禅も出てくる。その精神性の結晶というか容れ物たる茶室が出てくる。茶世界の深みに連れ込まれる。

何でもア〜メンの一神教ワールドではない別大系な世界感があることを、天心は茶湯を通して明示する。

茶道の解説本ではない。その精神の真髄を哲学したもんだ。だから濃くて深くて、かなりの透明度の真摯がどの記述にも漲る。

この数ヶ月、やや集中的に茶関連の本を読んだけど、この1書は… 抜きんでて他書とはちがう。メチャな云い方をすれば、原理主義的理論の本… と云ってもよい。

こたびの再読で、このクリスタルめいた、硬い、けども乳白な柔らかみをコートした論調を、いちだんと好もしく思いはじめてる。

第6章の「花」の記述あたりは、もはや詩篇とでも呼ぶべく澄明が挑むほどに凛々として屹立し、

「ふひゅ〜〜」

溜息をつくばかり。


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この人は不思議な人で、自分の服はほぼ全て自分で縫って造ってる。デザインし縫製し、ボストン美術館の館員になった頃もそれで通してる。

自我の芯が屈強でなきゃ、そんな風体はできまい…。

また一方、ボクは天心の恋愛模様にもチョビリ興をひかれる。

あやかりたい… という次第じゃ〜〜なくって、とどのつまり、嗜好と思考の快楽曲線が螺旋にからんで上昇していくアンバイに目映さをおぼえる次第。


天心はダンコに懐古趣味の人ではない。多くの日本人が捨て去ろうとした諸々の中に大事極まりない根ッコを見いだして、それを摘むなと警鐘し、かつ大胆に、過去にとどまるな… とも論じたような感があって、今、たとえば、大統領令としてTPP永久離脱と決めた国に向けて「説得の努力を続ける」などと牧歌を申してみたり、「米国第1主義を尊重します」とのメッセージをババ抜きトランプ氏に送ったりの… 思考停止しているアベコベ総理やら、あるいは原発事業の最大手だった米GE社ですらが撤退し見切りをつけようとするその子会社をわざわざ大枚はたいて購入して、あげく大損失を出してサザエさんを困らせる東芝などなど… バカな侵略行為に耽った先の戦争遂行と同様、いったい何にしがみついているんだろうかと、訝しむことが多すぎる。

茶の本』は政治経済の話ではないけれど、文化の枝葉の先にそれは確実にあってリンクし続ける。天心の憂いの核心は、今も継続中というより、いっそヒドイことになってるんではなかろうか。


彼は西洋のパーティで大量に用立てられる花々の使用を批判し、茶室の一輪の花とを対比しつつ、花の立場でこうも書く。

花はどれも、侵略者の前に、なんの助けもなくたたずむばかりである。花たちが断末魔の叫びをあげても、私たちのかたくなな耳には届かない。花は私たちを愛し、黙って奉仕してくれるのに、その花に対して、私たちはかくも残酷なのだ。だが、いつかきっと、こうした残酷さのために、私たちはこの最良の友から見捨てられる時がくるだろう。野の花が年毎に稀になっているのに気がつかないだろうか。きっと、花の中の賢者が花たちに、人間がもっと人間的になるまではどこかへ避難しているよう命じたのだろう。

天心ならずとも、"花を活ける"の、その活けるの意味を再認識すれば、も少し呼吸しやすい世の中になるような気が、しなくはない。

他者の眼に粗末に映ろうと、さした一輪に誇りを持てとも。

2017-01-22

ミュージアムと模型


こたび土曜の講演は、過去最高の集客で、席の半分ほどがガラ〜ンと空いているのだった。

だからホントは最低と書かなきゃいけないのだけど、話した内容は最高部類と自負するから、ま〜、これはこれでと、あえて"最高"と称しておきたい。


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内容の半分以上は、60年代、いわゆるスペースエイジ(宇宙時代)の頃の科学技術についてだ。

いみじくも米国大統領が入れ替わり、ケネディ大使が離日し、さらには講演4日前、月に出向いた最後の宇宙飛行士ユージン・サーナンが死去するというタイミングだった。

マーキュリー計画アポロ計画での宇宙飛行士の安全策はどのようなものだったかを、それを模型でどう表現したかといったコトを中心に話をしたのだけども、その発火点こそが、離日したケネディ大使のパパだった故ケネディ大統領の例の、

「私達は60年代の終わりまでに月に行く!」

なのだから、妙なタイミングだと密かに意識して挑みもしたワケなのだ。


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しかし、フタを開けるまえ、まずスタッフ2名がインフルエンザAで倒れた。

正しくいえば当日のヘルプ役だった館の職員もインフルでダウン。なんと欠員3名だ。

なので当初予定の模型の細部を見せるためのライブ映像(カメラによるスクリーン灯影)担当がいなくなって、急遽にiPadでの事前仕込みスチール投影に換えるという、慌ただしいことになってもいた。

どうも… 1月大寒の頃は体調不調が多いらしい。集客の悪しきも、その辺りが原因のようでもあった。

もう1つには、"模型に特化"した講演概要が一般的には馴染み薄だったよう、思えもする。

けど、悔やむ術はない。

余談バナシの脱線も適度に混ぜて、ほぼベストは尽くせた。


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作家・坪田譲治が自宅の敷地に設けていた私設図書館『びわのみ文庫』の模型も、披露した。

括りとしてはそれもまた60年代のもの。

思えば不可思議な躍動に満ちた時代だった。

いわば明日にまだ期待がもてる… 未来を夢みられる時代だった。

それからもう50年が過ぎ… たワケだけども、幸福の度合いは増したろうか?

時代が進むほどに、むしろ、混迷が深まって、未来を夢見られないコトになっていると感じる今日この頃。妙なタイミングゆえに、妙に記憶に残るだろう講演となった。


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模型『びわのみ文庫』は、家屋外観を模したものと、室内全域を作り込んだ2つがある。

この家屋(ホンモノ)は別に価値ある造りだったという次第ではない。平たくいえば60年代典型ともいえるトタン屋根に合板の壁… といった豪奢でもなんでもない、どこにでもあるようなモノだった。けども自費でもってそれを建て、以後10年あまり、およそ2千人ほどの子供たちに本(童話が中心)を貸出し、またそこを基点に若手作家を育てて「びわのみ学校」という児童雑誌を出版し続けていた彼の息吹きと気概が、そこには詰まっていたワケなのだ。

儲かるような仕事ではない。むしろ出費の方が大きかったろう。2階の1室はそのような若手が寝泊まりもしていたようだ。

彼は死去するまで同文庫を維持し続ける。

銭カネに頓着せず動じない、このような人物を好もしく思うし、今の時代にもまた、いや今だからこそ、こういう人が欲しいな〜とも思う次第。

模型に、その息吹きと気概までを注入出来ないけども、そこは務めて意識はしておきたい。そう念じつつ造って披露した模型だ。

ちなみに、室内模型のベースはイエロー。これはビワの実を連想すべく… 使ってる。


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スケジュールの都合で講演そのものには間に合わなかったものの、終了後に駆けつけてくれて模型細部を炯々と見遣ってくれたS女子大のY教授には感謝申しあげる。彼女のご尽力、資料提供と励ましなくばこの模型は産まれなかった。多謝。


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図書室部分-細部

『びわのみ文庫』模型は、岡山シティミュージアムで来月より開始の某常設展で再披露される。

2017-01-18

博士と彼女のセオリー


鍋つつきつつ、土曜の講演の打ち合わせ。

冬は鍋だよ断然に。

こたびの講演では明治建築物から60年代スペースエイジの頃のアポロ宇宙船などなど、複数の模型を持ち出さなきゃいけない。

面倒といえばメンド〜だけど、話すテーマが模型そのものなんだからシカタない。

むしろ、何と何を持ち出し披露するかで悩むというアンバイで、当然に話す内容も多岐に渡るから… そこの交通整理が面倒かつ深刻だ。

ま〜、そのような事を鍋かこんで打ち合わせ。

講演のフライヤーここ


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毎年、お正月にはK夫妻と懇談するのが慣習となって久しいけど、そのK夫妻より新春に頂戴のDVDをば、観る。

博士と彼女のセオリー』。

2014年英国映画。車椅子の学者ホーキングと妻の物語。


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『ローグ・ワン』のヒロインが妻役なれど、この映画の事はまったく知らなかった。

講演が済んでから観ようと思ってたけど、ま〜、いいや… と眺めたら案外に、イイ。

ホーキング役の若い役者がダントツ素晴らしいと思ったら、あんのじょう、アカデミー主演男優賞だった。

ジェーンのフェリシティ・ジョーンズも良いし、エイレン嬢の役者もまた良い。

この介護士の登場でやがて夫妻に亀裂が生じ、離婚し、ホーキング博士はエイレンと再婚するワケだけど、3人ともどもに賞をあげたいくらい良かった。


調べるに、もう1本、ホーキングの伝記映画があるのを知って、これをば取り寄せ、これも観る。

というか、一昨日それが届いたんで観た次第。

BBCテレビ映画で製作年は2004年。ベネディクト・カンバーバッチがホーキング役。

だいぶんと先輩だ、『博士と彼女のセオリー』はだからこのテレビ映画を当然に意識していたろう。

カンバーバッチの熱演は大いに参考にされたろう。

ホーキングビッグバン理論を再構築して博士号を取るに至る経緯は、このテレビ映画の方がはるかにうまく描けてる。

ジェーンとの学生結婚はその経緯過程で生じ、一躍高名になっていく過程の中で介護士エイレンの存在が大きくなる次第ながら、テレビ版映画ではエイレンは出ない。まだ何とか自力で歩ける頃のみに焦点を合わせ、そのぶん、行間が濃い。


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2本ともども、だから甲乙つけがたい。

ホーキングのカタチ、妻ジェーンのカタチとしては『博士と彼女のセオリー』に軍配があがるし、宇宙論に熱中する学生が博士号を取得するくだりはカンバーバッチの『ホーキング』に軍配があがる。それも圧倒的に。

ま〜、だから、両方を眺めるのが得策だろう。

どちらも、ジェーンさんが書いた伝記を元にしているようだから、似通うセリフもまた多く、どこでど〜使ったのかを見比べるというコトも出来るワケで、両方をあわせ見ることでホーキング理解が深まるような感もなくはない。


しかし、『博士と彼女のセオリー』という邦題はいただけない。

原題は、"The Theory of Everything"。

『すべての理論』というところか…、それをわざわざ博士と彼女に限定して平坦なラブ・ドラマ・タイトルにしなくともイイじゃないか。

理論物理学者のプライベートを扱い、その人がテーマとしている「統一理論」とを引っかけ合わせた原題タイトルなんだから、も少し、考えて欲しいなぁ。綿が詰まったフトンからわざわざ綿を抜いて客に出してるようでヨロシクない。

マット・ディモン主演の『MARTIAN』を安易にも「オデッセイ」と邦題した愚かさにこれは近似する。

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写真左が「博士と彼女のセオリー」で右2枚はホントのホーキング夫妻。


で、もう1つ思ったのだけど、映画というのもまた、真実と嘘を混ぜ合わせた"表現"だというコトね。そうすることで、いっそう真実に近寄ろうとしてるワケなのだ。

実は模型も… そうなんだ。

そこのところを含めたお話をば、こたび土曜の昼にやろうとしているワケ。

ま〜、あんまり深く掘ったハナシはしないだろうけど。"模型表現"をそのカタチでなく音声でお伝えしてみたいとは… 思ってら。

2017-01-15

一期一会集


昨年の手術いらい初めての、強い眼精疲労。

眼の周辺に発熱をおぼえ、ボワワ〜ンと視界が澱む。

翌朝、眼科に出向いて診てもらうに、

「年齢の許容を越える酷使…」

と、ま〜、予想通りな回答。

模型の細かいパーツ組みが、このボワワ〜ンをもたらしてる。

けどもこたび、術後しばしはダメと云われ続けてたメガネの新造が許され、メガネ屋さん用の処方箋が出たので、ちょっと嬉しい。

受信後、ただちにメガネのミキに直行。

仕上がって来るのは、次ぎの講演日の直前というコトだから、真新しいメガネで話すという次第になるだろう。

老眼メガネを鼻先にずらして上目遣いに四方を見る、いかにもジジイっぽいカッコ悪さから解放されるのは嬉しいけれど、かかった費用が… チクチク痛い。


翌々の土曜夜。

3年連続で小学校同窓会に出席。

3年前に味わった「故きを温めて新しきを知る」の新鮮は、もうない。

懐かしみも薄れ、心躍るようなトコロもない。

けども馴染んだTシャツを着けるような、お気軽で気さくの、だから遠慮もないバカを云えるお愉しみもまた、ないではない。

ま〜、そんなもんだ。

21日の次土曜の講演を一応紹介し、オチャケて笑う。


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そうこうする内、模型作業が概ね済んだのでチョットだけテーブル廻りを整理でき、気分も軽く、数日前から「茶湯一会集(ちゃのゆいちえしゅう」をひろい読んでいる。

一読、その徹底に… 苦笑した。

ごぞんじ、「一期一会」なる単語はこの本で初登場する造語

元の大意は利休の高弟子・山上宗二が残した文にあるが、井伊が短縮した。

茶会での主人と客の心得をといた本ゆえ、笑うようなものではないのだけど、あまりの徹底に逆に口元がほころんだ。

数行おきに、

「○○○すべし」

「×××すべし」

作法心得所作がときにとかれる。

客を招く側の心得と同時に客側の心得もしっかり細部までが綴られる。


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茶会の開催約束がまずオモシロイ。

5,6日前に日取りを決め、定日の前日、

『主客互いに参を以て挨拶に及ぶ事、これを前令という』

要は、わざわざに先方に出向いて、「いよいよ明日に」を再確認せよ… という次第。

その後に、もしも書状を使う場合は、こ〜すべし、あ〜すべし、実に事細かに指南が続く。


客人を迎えるための雪隠掃除のくだりもまたオモシロイ。

水洗トイレじゃないから、その御苦労もまた大きいだろうけど、描写が徹底しているから、ま〜るでホントに雪隠に接してるような感も生じる。

客として招かれ、もしもウンコをしたなら、懐の紙でそれを覆い、主人が用意してくれている新鮮な藁でさらに覆え… との記述もある。

茶会で生じる、ありとあらゆる事態と気配りを徹底して描き出し、この場合はア〜して、その場合はソ〜してと、実にまったく細かい。


なので当然に本番たる懐石と茶席の部分はいっそう拍車がかかる。


これだけの指南書を30代で書いた井伊直弼という人物は、しかし… ボクには不可解な人の筆頭だ。

桜田門外で暗殺された彼と、この「茶湯一会集」が、線で結べない。

画家を志した男がナチス帝國の君臨者になった大変貌と同様、井伊にも似通う空気を感じる。

幕府大老として吉田松陰ほかを刑死させる冷酷の中の大雑把さ、方針の先が見えないやはり大雑把としかいいようもない政治手法などなど… 繊細の極地たる「茶湯一会集」の作者とはとても思えないワケで。

人の内部には、両極端がすくっているという証しなんだろうけど、城主になるアテもなかった頃の部屋住み時代の井伊が、茶の世界に心酔し、そこに自分流の哲学をば見いだして一書にした、そのオタク的邁進の深度には、ひたすら感心をするがゆえ、逆に後半生の諸々に啞然とする。

偶然が重なって城主となり、幕府大老指名されて、あげくに激烈な最後を彼は遂げるわけだけど、もし万が一、城主になれず、大老職など遠い夢物語のままの人であったなら、彼は澄んだ眼を保持した幕末期最大の茶人として文化系の諸々で常に紹介されてやまない人になったような気がして… ある種の悲運と悲哀をおもわないではない。

けど、ま〜、それはどうでもいい。


同書の末尾「独座観念」は、客が帰った後の気分の有りようを描いていて、そこはとてもいい。

"祭りの後"の満足と寂寥のバランスを、

一期一会済みて、ふたたび帰らざるを観念し、或いは独服をもいたす事」

と、一人で茶を点てて呑むもよし、それを一会の極意と学べ… ととく。

ごくごくアタリマエのようなコトだけども、そこの気分を文字で顕わにした井伊直弼は、いっそ、この書をもって語りつがれるべきとも… 思わないでもない。


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文中には数々の引用があって、彼が茶関連の数多の書物に親しんでいたというか、より濃くそれを血肉化している様相もわかる。

「南方録」、「茶経」、「喫茶養生記」などなどを踏まえた上でのこの一書…。

それゆえまた余計に、茶を呑んで抽象すべき人が時代の具象に呑まれたという感じの悪さが井伊直弼には、つきまとう。

惜しいなぁ。

2017-01-10

笛吹童子

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上写真は7日土曜のライブ前のリハーサルの様子。

音が編まれゆく現場にいるのは幸いだ。な〜かなかの緊張感が味わえた。


さてと。

『笛吹童子』を読む。

橋本治の脚色バージョン。

「ヒャラ〜リヒャラリ〜コ♪」

の、あれ。

鉄仮面」や「義経伝説」や「里見八犬伝」やらやらを混ぜこぜた上で独自なカタチにした北村寿夫原作ラヂオドラマの、その小説版。

前半部のゆったりした感触が、最後半でもって急峻な説明的記述になって、流れとしてはクエスチョンがあるものの、愉しめた。


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魔性をおびた"されこうべの面"を顔につけた途端に悪に身が染まる件りは、なにやらダースヴェーダーを思い起こす。

けども、その『スターウォーズ』がライトセーバーという武器でもって善が悪に対峙するのと違い、『笛吹童子』の主役は武装を放棄するんだ、ヨ。

剣を捨て、能面師となるべき精進し、その過程で笛を奏でる。

笛吹きが他者への慈愛であり、かつ、自身に対しての無心というトコロが、この小説のカナメちゃん。


ラヂオドラマ『笛吹童子』は昭和28年に放送され、大ヒットになった。これは日本初のマルチメディア的作品の最初の事例で、あるらしい。

ラジオドラマ→映画化→小説化・マンガ化→たびたびのTV映画化 という図式。東映はこの映画化によって屋台骨を頑丈にしたというホドの大ヒット(3部作)であったらしい。


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時は応仁の乱のころ。だから足利幕府が瓦解し、戦乱で京都が丸焼けになってるころ。

主人公の菊丸は丹波の国・満月城の城主の息子(次男)だけど、明(今の韓国あたりね)に渡って面作りの道を歩もうとしている。

やがてアレあってコレあって、彼が産まれた満月城は武装集団の手に墜ちる。

彼は兄の萩丸と共に日本に帰国

兄は、殺害された君主たる父の敵討ちと城の再興に躍起になる。

けれど、菊丸は… 眼の前の敵へではなく、悪そのものに関心し、武装集団が仰ぐ"されこうべの面"に対抗すべくな面(能面)を作りたいと苦心腐心を重ねる。

彼は武装しない。

面を作りつつ、手にするのは愛用の笛のみ。

事あればそれを、吹く。


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主役を演じた中村錦之助(のち萬屋錦之助・彼の最後の映画出演が『本覚坊遺文 千利休』


敗戦後に制定の、例の9条でうたわれた平和国家の宣言的憲法に、主人公の武装放棄はみごと重なる。

笛吹けば人踊るは「ハメルーンの笛吹き」で実証済みながら、この物語では、"悪者への憎しみよりも悪者を気の毒に思う”、という180度回転した発想で貫かれる。

したがって… チャンバラ的時代モノという範疇では"戦闘場面"が実に希薄。

悪者はバッサバッサと斬り殺されない。ただひたすらに笛の音によって悪者のフトコロに飛び込み、改心をば願う。

いや、それは違う…。改心を願うのではなく、笛の音に浄化を託して接っしようとする。

これは容易ではない。同時代の『赤胴鈴之助』君だって、

「剣をとっては日本一の…」

と、刀を用いた。

『笛吹童子』はそうしない。

殺意ある者を前にしつつも、ただ笛を吹くのみの無防備

相手の心に音(ね)で訴えかける。

『ヒャラ〜リヒャラリ〜コ』の主題歌は俗っぽいけども、容易でないからこそ素晴らしさも増す。


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こういう作品が昭和28年に作られ、今も、いささか希薄になっちゃ〜いるけど、リメーク小説が編まれていることは心強い。

リメーク(1998年刊)した橋本治をして、「今だからこそ、この『笛吹童子』を読んで欲しい」とあとがきに書いている。

たんなるチャンバラ活劇物語でないのは明白。

いきり立った敵対者に向けてただ懸命に笛を吹くという行為は、ある視点からみれば自殺行為に等しい。

一見、非論理な情緒的行動に見える。

けども、実はそうじゃ〜ない。

武器を持たず笛のみで対峙する姿勢は、たえず死をも覚悟の背筋の伸ばし方。

情緒で動いてはいない。むしろより堅牢な論理行動そのものだと思う。

いかんせん… 昨今、そこの取り違えが甚だしく、怖いほど。

2017-01-05

年のはじめに

年が明けて早くも5日。

三が日は例年通り早朝から熱燗を愉しみ、餅をば食べる。

とくに限ったワケでもないけど自宅で日本酒を呑むのは正月だけなので、毎度のことながらトッテモおいしく味わえる。

で、当然にツイツイ呑み過ぎ、午後になるとお昼寝というアンバイで過ごすんだけども、今年2007年のスタートは元旦から実は作業もしてる。

模型造り…。


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1月21日の講演披露される家屋模型。

図面があるワケはない。

かろうじて何枚かの写真が提供されているんで、それを頼りに、極力に嘘が入り込まないよう自戒しつつ、チョメチョメ… 作業を繰り返す。

模型というのはローマがごとくに一夜じゃ〜出来上がらず、チョメチョメの繰り返しで積算していかなきゃ〜完成しない。

そこを面倒に思うと余計に進まないから、年末も作業デスクは掃除もされず、散らかり放題で年明け、そのまま継続のチョメチョメを繰り返してるワケなのだ。

だから、新年おめでとう… という感覚がチッと今年は薄い。


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○ 1月2日午後の岡山神社。拝殿まで長蛇の列。これには加わらず社務所に直行でアイサツ…。


とはいえ、年末年始、幾つか小さな集いに顔を出しちゃ、イッパイ呑んで…

「ニャハハ」

笑ったりもしてる。

一升瓶のワインという珍しいのやら、「夜の帝王」なるベタな名ながらメチャにおいしいお酒も頂戴し、

「ニャハハ」

も増加した。


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○ 明治23年創業の丸藤葡萄酒(山梨)の一升瓶。


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イチバンに驚いたのは、某所でのミニミニな忘年会にての生牡蠣の殻だった。

写真じゃ判らんけども、殻の外についたフジツボ(?)が生きてるんだ。

これがニョコニョコ顔を出す…。

それでツイツイ呑むのを忘れ、同行者と顔を見合わせちゃ、

「ほれ、動いた」

「キショク悪ぅ〜」

うなったり感嘆したりしつつ、指先で触ってみたりした。

むろん、フジツボにしてみれば、迷惑なハナシだろうけども。


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ともあれ、模型作業… 進行中。

もう幾つ寝ると出来上がる… はず。

そこでやっとテーブル廻りが落ち着き、片付け掃除も出来るという次第。


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2016-12-28

訃報多すぎな1年

この数週は、ずっと引き籠もって模型と格闘して過ごす。

年明けて、1月21日の土曜の午後2時から、岡山シティミュージアムで講演する。

その講演時に、模型は登場する。


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諸々あって作業は遅れ気味…。

焦りはしないけど、進行状況の遅延に気鬱をおぼえないワケでもない。

ま〜、たいしたこっちゃ、ない。

講演詳細はまた後日にお伝えするけど、次回は、明治期のオハナシではなくって、模型そのものがテーマだ。

タイトルもずばり、

ミュージアムと模型』

なのだ。


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フライヤー・オモテ面

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ウラ面(フライヤー岡山市内の公共施設にて頒布中)


当然に、このたびもオモシロイ話になる。

自分で云うのは何ですが… そう仕掛けてもいくつもり。

そのためにも、早く、いま手がけている模型作業を完了させたいワケなのだ。

けども、な〜かなかそうそううまくは事が運ばないのがジレンマ。

『ローグ・ワン』のラストシーンでの若いレイア姫は、あれはCGのようだけど… 模型作業はCGというワケにはいかない。

身は1つしかない。


デヴィッド・ボウイ、アラン・リックマン、レオンラッセルナタリー・コール、プリンス、りりィ、千代富士……、そしてキャリー・フィッシャー。

いささか逝くのが早過ぎやしないか。

『ローグ・ワン』を観た直後ゆえレイア姫の訃報は、いたい。

同作の最後に聴ける彼女の呟き、

「あらたな希望よ」

が、沁みる。


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ミレニアム・ファルコンの大型模型の下側金属骨格


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エースコックのワンタンメンのカップ版。

湯を注ぐと、うまく、ブタどもが顔を出す。

うまい演出だ。

それでチョットだけニヤリ笑う。


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Sawane さんがくださったポストカード。

HIsao Sakai作品。

我がEっちゃんが、この2匹のネコを見るや、

「女性の眼、だ」

と呟いた。

なるほど。そういうミカタがあったか…。

いささか感嘆した。