Hatena::ブログ(Diary)

月のひつじ

2018-10-21

明治お肉史 part.1

今回は11/17の講演内容に触れようとも思ったけど、チョット浮気。

明治の頃のお肉についてを。


ご承知の通り、明治になって日本は牛食するようになった。

ヒンドゥー教徒ジャイナ教の方が多数のインドなどの国が牛食を、イスラムの方々が豚食を今も基本的に忌避するのとは違い、明治になった日本は海の向こうからやって来た慣習にアンガイ容易にのっかった。

西洋人の振る舞いをコピーした。

日本の牛食のスタートは横浜だけど、といって、彼ら西洋人が日本の農家から牛を仕入れたかといえば、そうでない。

西洋人が当初日本で食べたのは彼らの船に積んで持ち込んだ肉であって、仕入れの先は隣国・清の港だ。

(腐敗防止には氷を使った。ボストン氷といい、はるかボストン港より横浜港まで運ばれた。当然に遠距離ゆえ溶解率も高くて高価だが、やがて医療目的でこれは日本でも販売され、やがて明治20年代にはかき氷に転用される)


大昔、卑弥呼の時代にこの国に牛はいない。馬もいなかった。

魏志倭人伝』は卑弥呼の都に牛馬がいないコトを奇異な光景として記述した。

やがて大陸から運ばれ、家畜として定着をする。平安の頃には牛車に使うなど、あたりまえに存在するものになる。


江戸の時代、日本の農家は、なるほど牛を飼っているし、売買の対象でもある。

けども、それは喰らうものじゃない。

農業にとって牛は労働力として大事なものだから、母屋に住まわせている。

田畑では酷使するものの、夜は、1つ屋根の下、半ば家族的なポジションに牛を置いてるんだ。

だから、それを食べるために売ってくれ〜には、ひどく拒絶した。

ましてや肉食はご法度、いけませんというコトになってもいたから、山くじら(猪肉)や鶏(かしわ)は食べても、牛肉は心理的にも生理的にも食卓に登るものじゃなかった。

肉提供の最大の抵抗者は、牛を飼育している農家だった。


元治元年(明治元年の7年前-1864)に幕府は、洋人の食に対応するため、横浜居留地海岸通に屠牛場を設ける。

しかし、上記の通りのありさまで近隣から牛を入手出来ずで、屠るとは知らせずに神戸界隈から牛を買い取って運んだという。

今のABE政権もそうだけど――いわば外圧に晒されるままに国民を騙す。牛を供給できるカタチにもっていったワケだ。


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けどもま〜、好事家多し……。

一方で日本人は知らないモノへの興味の眼圧も高いんだ。

西洋人を真似てオコボレを頂戴するように居留地で食べてみりゃ、これがメチャに旨かった。

外圧どころか、旨味を知った舌が一変し、今度は内圧となって、「もっと喰いて〜」の声をあげさせた。

その声とほぼ同時期での開国だ。欧米文化こそがイチバンじゃ〜んという短絡で急峻な大波がドバ〜ッとやって来た。

政府自ら、西洋化の体裁を整えるようにして、「牛食は滋養豊富ナリ」と推奨するに至る。

結果としては「神戸のウシはうまい」という、いわばブランドとしての地域特性が牛肉に加わわりもする。

いわば、180度の大転換、ビッグバンが生じたワケだ。


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その明治元年横浜創業した串焼き屋「太田なわのれん」は、炭火の七輪に浅い鉄鍋をかけ、牛肉ぶつ切りを味噌で煮、さらにネギを入れて肉の臭みを消すという方法を産んだ。

店先にのれんを掲げ、「うしなべ」と書いた。

これが牛鍋の最初の事例ではないけれども、文字として登場させたのは、この「太田なわのれん」だったようである。

そう……、ギュウナベではなく、ウシナベと云ったんだ。

で、アレヨアレヨという間に、鍋で牛肉を食べさせる店が横浜から東京へと増えてった。

肉を薄切りするスライサーなんかナイ時代だし、屠牛場も増えはしたが、鮮度という一点は曇ってる。

それで味噌で煮て匂いを消すが、ほぼ定番化した。


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けども、ウシナベという単語は広まらなかったようだ。

明治5年に仮名垣魯文が『安愚楽鍋』を刊行した。

これは東京で大流行の牛鍋屋に出入りするピープルを滑稽な筆致で描き出した怪作で、今となっては当時の生活を知る良い参考書でもあるのだけど、ウシナベという表記は少ししか出てこない。

なんでも縮めちゃって云う江戸の気風がそうするのか、東京ではウシヤと云っていたようだ。

牛店、あるいは牛鍋店と書いてウシヤとルビづけされている。

時にナベウシなる表現もある。

断髪令が発布されたのは明治4年だけど、明治5年の同書の挿絵をみると、髷を結った者、ザンギリにした者、いずれもが七輪に小さな鍋をかけている――。

ご飯は添えない。酒と鍋だ。


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記述を読むに、店の呼称より、もっぱら東京ピープルの関心は、肉の鮮度のようである。

「濱(はま)で屠(し)めたのをニンジンと湯煮にしたのを食べちゃア、実にこんなうまいもんはない」

と同書に、ある。

横浜から東京への距離が、まだ汽車のない時代の物流速度が、そのあたりに潜んでる。

同時に、これは味噌煮でないことも判る。

湯煮た後、醤油をかけたか、あるいは醤油で煮たか、味噌ダレだったか、いささか定かではないけども、少し年数が経って、ルポライターの先駆者とも云われる明治のヒト篠田鉱造の『明治百話』には、

 明治二十年頃の四谷三河屋(牛肉屋)へ、月四回は欠かさず、掛取りや注文取りの帰りがけに押しあがって、杯一を極めるのが、番頭の約得、三河屋のおかみさんはよく知っていまさァ、ある日押登るなり、女中に向かって「姉やん、鍋に御酒だ。ソレからせいぶんを持って来てくンな」と吩咐けたら女中は怪訝な顔をして、帳場へ往ったものだ。おかみさんも解らないので、こりゃ解らないのが本統さ「何でございます。せいぶんと抑しゃいましたのは」と、ワザワザ問い合せに来たので、大笑いだった「ナニサ、玉子のことだよ。せいぶんをつけるからさ、この山の手では流行らねい言葉かい」と言ったもんだ。

※ 岩波文庫・下巻「集金人の約得」より抜粋。


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ここでは生タマゴの活用が新規なものとして描写されている。

たぶん、明治20年頃にはもう味噌煮でなくても大丈夫な、鮮度を持った牛肉が市中に出廻っているのだろう。

ナマタマゴを使うことは、明治20年代になってやっと始まったらしきコトもこれで判る。


我が岡山で牛肉を食べさせた第1号は、可真町(千日前付近の旧名)の『肉久』と云われる。

肉久と書いて、ニクキュウと読む。

開業は明治8年頃で、珍しくもこの店では椅子に腰掛けるカタチで座敷ではない。それで「座敷スキ」と後に呼ばれもした。

牛肉にネギやその他を含め、タマゴ1ケがついて1人前5銭。

「すきやき」の名と、ネギ以外の諸々を一緒に煮る方法は関西がスタートなので、『肉久』はその関西スタイルだったろう。

この店を紹介しているのは当時出版された『岡山商工往来』だけど、当時の様子を描く別の本では、上之町(現在の天神町)の『和久七』が第1号と書かれていたりもして、どっちが1番だか2番だかよく判らない。

『和久七』は今は実に瀟洒で感じの良い写真館『島村写場』になっていて、2階のスタジオでパチリと写真を撮影してもらえるけど、同家には、明治の『和久七』時代の鉄鍋が現存する。


ウシナベ→ウシヤ→ギュウナベ

この名前の変遷を、ボクは面白がってる。

この岡山じゃ、そこはど〜だったろう?

というのが『亜公園』の中にも牛鍋屋があったんだ。

『和久七』から直ぐそばだ。いわば競合店だよ。

ご両者、鍋を当時、どう云ってたか、ウシナベかスキヤキか、そこを想像してるワケだんわ。


それともう1つ――牛丼のみがギュウドンといってウシドンじゃないのに、豚丼や鶏丼はなぜブタドンにトリドンなのか?

音読み、訓読みのこの分別化がわからない。

さらには、「親子丼」や「他人丼」や「木の葉丼」といったやや美しくって優しげな響きある単語を編み出した方々の俊才っぷりにも興味をもつ。

親子丼」をオヤコドンブリじゃなくオヤコドンと命名したのは、どうも明治17年頃の神戸を起源とするようだけど、ふ〜〜む。

どうでもヨロシイことだけど、ちょっと、どうでもヨクもない。


〜続く〜

2018-10-16

岡山神社 − 社報

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岡山神社さんの社報『さかおり』に、寄稿している。

10月の秋期大祭に併せて刊行配布の最新号だ。

今回は、甚九稲荷の石門についてを書かせてもらった。

岡山神社に出向く方あらば社務所で頂戴できると思う。ご一読あれ。

ここでは、その石柱について補足的に触れておこう。


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この石門(柱)は今は甚九稲荷玉垣の一部と化して、あまり注目されていないけど、大まかにいえば、これはかつての「亜公園」内にあった天満宮の”鳥居”(石柱)で、当時は独自に立っていた。

「亜公園」の基礎構想には岡山神社内の天満宮と密接にからむ諸事情があって、だから巨大な複合娯楽施設だったとはいえ園内に神社天満宮)を設置することは、最初から計画されていた。

その後およそ10年、同園は市内最大の観光スポットとして盛況だったが、明治38年には閉園となり、園内天満宮甚九稲荷移設された。

石柱も移動し、上の写真の通り、稲荷入り口にある。


鳥居というのは、2つの柱を結ぶ「貫(ぬき)」と「笠木(かさぎ)」が頭上にあるのが基本だ。

参拝者はその下を潜り抜けるというのが通常の構造だ。

しかし、この石柱にはヌキもカサギもない。

だから、細かにいえば、これは鳥居じゃ〜ない。

が、鳥居として”機能”するという門柱だ。


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※ 岡山神社の鳥居「随神門」を例に解説 ♥


鳥居のない神社というのは、実はとても少ない。

ボクが知る範囲では全国に2例しかない。

群馬県太田市の石原賀茂神社と、さいたま市浦和区の調(つき)神社が、そうだ。

石原賀茂神社のは甚九稲荷と同様に石柱だ。

調神社のは巨木に育った2本のケヤキを柱とし、注連縄で結んでいる。

ご両社ともに鳥居のない事を逆に”誇り”にしておられ、たしか太田市では観光スポットのスタンプ・ラリーの1箇所に同神社を指定していたと思う。


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※ 太田市の石原賀茂神社


だから実は、甚九稲荷に立つ2柱はとても稀有な存在なんだ。

これが「亜公園」内にあった頃の明治時代を思えば、訪ね寄ったヒトは皆さん、まずはこの石柱のところで足を止め、

「今よりお参りいたします」

一礼したに違いなく、神域の境界として今よりはるかに重要な役を担っていたと、これは断言できる。

鳥居らしきカタチじゃないけど、それでもコレは鳥居だろう……、かすかな訝しみをおぼえつつも参詣した筈だ。


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※ 「亜公園」で販売されていた「亜公園之図」の一部分。石柱が確認できる。

何故にこのカタチとなったか……、もはや空想するしか手がないが極めて稀れな門(鳥居)だというコトをご理解いただきたい。


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※ 模型再現による天満宮。このカタチがそっくり移築されたのが甚九稲荷だ。

今の甚九稲荷は戦後に造られたもので赤く塗られているけれど、焼失前、明治から昭和20年8月まではヒノキの木目がよく映えた社(やしろ)だったんだ。

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※ 「さかおり」表紙。亜公園の集成閣と天満宮の模型を大胆にあしらって斬新、クール♥


ちなみに寄稿した記事では、鳥居の色についても言及している。

鳥居といえば誰もが赤(朱)色を思いがちだけど、実は全国神社を統計的にみれば大半は白系列なのであって、それは木造構造物たる本殿や拝殿のヒノキの白に呼応して……、と、そのあたりの消息は11月17日のシティミュージアムの講演「岡山木材史」の中で多少、触れようかと思う。

なぜに日本人はヒノキ造りの家を好むのか……、どうも、その木目の白さに秘密があるようなのだ。


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11/17講演のチラシはこちらからダウンロードできます。

2018-10-11

11/17-講演のお知らせ

11月17日の土曜に岡山ティミュージアムで講演します。

今回のタイトルは『明治大正昭和 岡山木材史』。


木材を通して、明治から今にいたるまでの文化的諸事情を、3部構成でお話しようという企て。

ボクは明治の時代を担当。

大正から昭和にかけては、岡山市立中央図書館の前館長・大塚利昭氏が担当。


第1部となる明治時代は「亜公園」がらみでもって話をします。

なぜなら、亜公園を創った片山儀太郎は木材商だったから。

岡山木材商・久志屋に嫡子として迎えられ、豊島から儀太郎さんが12歳でやって来たとき、時代が変わります。

江戸の時代が終焉明治になります。

そう、儀太郎さんは12歳までは江戸時代のヒトだったんですな。

彼が生まれた頃に桜田門外の変があったりもします……。


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幕藩体制から明治新政府への移行は、大転換です。

ハチャメチャといってよい激変は日本中振動させます。

この時期、実は木材商は川面の木の葉のように、揺すぶられ翻弄されています。

収入の大半は武家やお城関係の建造や修築で得ていたのが、その肝心の武家がなくなったワケで、途端に木材が売れなくなります。

そうでなくとも幕末頃からの政情不安定で家屋が新造される割合もメチャに減っていました。

岡山の場合、多数あった木材商は明治10年頃には、なんと9軒にまで激減します。

市内に、たった9軒ですぞ……。


その大難な時代を、若い儀太郎さんはどう乗り越えたのでしょう?

何をどうやって、アッという間に巨大な収入を得たか?

この大転換の時期、彼もまた木材業としての大転換を率先して行います。

ん? それはどんなの? ———

ま〜、そういうトコロから話し出す予定です。

自分で云うのもオカシイですが、結構、おもしろい話です。

もちろん、木材そのものが話のキーですよ。

大塚氏との対談で進める予定の第3部では、桃太郎のおじいさんの話も登場し、

「あらま〜! そうだったの〜」

という気分も味わえると思います。

この講演は、シリーズ「知らない岡山」という流れの中で企画されてますくらいで、世の中、あんがいと気づいていない事、知らなかった事が多いんですね。

詳細は後日にまた紹介しましょう。


日時 2018年11月17日 土曜

   午後2時〜4時 

場所 岡山ティミュージアム 4F講義室

料金 無料


前回の講演では定員オーバーとなって複数の方々がロビーのモニターで聴講ということになってしまって、申し訳ないやらアリガタイやらでしたが……、開場は1時半からです。少しお早めにお越しくださればお席があると思います。


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 告知フライヤーNo.1 - 市内に配布されるチラシはチョット異なる予定。まだ本日の時点で出来上がっていないワケで…… ^^;

2018-10-07

ジャズ・アンダー・ザ・スカイ

昨日。6日。下石井公園の広大なグラウンドに大きなステージと客席が出来、大勢の賑わいの中での音楽イベントを行っていたハズなのだったけど……。

台風接近だ。

どう影響が出るか判らない。先週のイベントをはるかに上廻る規模のイベントゆえ慎重さもまた増加し、これはもう伏せてなきゃいけないコトでもないから記すけど、開催2日前には「中止」が確定した。

行政との共同事業なので開催有無の最終決定は行政サイドがおこなうワケなのだ。


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自然の振る舞いには抗えない。その振る舞いの中で右往左往するっきゃない。

で、こたびフタを開けると……。


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6日の朝7時前。日差し眩いお天気だァ。

前回の台風で吹き飛んだ金木犀の花は、第二陣をいっぱいつけて近寄れば良き香り。日差しに葉を揺らせてる。


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パッションフルーツの葉陰の向こうにゃ、青い空。

あじゃぱ〜」

暴風雨になる予報がこれなんだ……。


ハシゴを外された――これならイベント、オッケ〜だったなぁ、とつい思ってしまうけど、それは結果オ〜ライな感傷だ。

いささかに安全性の確保という点が一人勝ちした感もあるけれど、中止を悔いても詮無い。ましてや6日が仏滅だったから……、なんて〜コトはまるで関係ない。

今から20年後の天気予報なら、きっとより精度高い予測が出来ると思うけど、今はまだ途上、20年後の未来を生きてるワケでなし。


でも、実はコッソリじゃあるけれど、自分の直感は、こうなるんじゃないかしら……、ずっとそう囁いていた。

けども、『直感予報』は根拠なし、科学じゃないし、と嘲笑されるから、あまり役立たない。

こうしてポッカリと1日が、浮いた。


しかし、奇妙にも、このポッカリを悦んでるようなトコロもある。

はるか昔にあじわったフイに休校となったさいの気分に、近い。

先週土曜に次いで、またもの長時間”ワーク”に耐えられるのか、年齢的な衰退をおぼえないワケでもない。

それで、実際は消失そのものなのに、ポッカリ空いちゃってフリーになった浮遊錯覚が、ま〜、ある意味で気分を高揚させもする。

お・か・し・な・も・ん・だ。


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庭池の金魚も、想定しなかった好天に、なにやらボンヤリしちゃって浮いてるような感じがしなくもない。しばし眺めてたけど、水面近くに浮上したまま、ボ〜〜ッを続けてるんで、こっちが見飽きてしまった。


けども、じゃ〜、このポッカリを有意義に過ごす原資に出来るかといえば、これさっぱりチャンメン

「おっ、今日は時間たっぷりンこ!」

目覚めて、布団の中で足をバタバタさせただけで、ヘルシーお野菜たっぷり具沢山どころか、結局は、DVDで映画を1本観る程度……、なのだった。


夜になってOH氏と合流、ライブハウスのMO:GLA へ。

毎度、この音楽祭のたび、楽器手配やら打ち上げ会場などで世話になってる関係もあって、御礼と若干のお詫びをかねて。

とはいえ旧知にして懇意 ―― 遠慮なし、忖度なし、本音な話でケラケラ笑う。

いつのまにやら、へつらい・つくろい・嘘八百・風向き次第、が横行する世になっちまっているけれど、キチリと歯車が噛み合う風情や心地よし。

この心地は科学じゃないし、政治的バカ力学でもない。いわば人情、いわば義侠、いわば仁義がらみ、その好感。

開催出来なかった鬱憤がこの歓談で多少薄れる。

早々の中止決定でガックシな1日となったけど、なぁ〜に、この良き仲間たちとまたチャレンジすればイイ。

リターン・オブ・ザ・ジャズ・アンダー・ザ・スカイ。


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前回、OH氏とのツーショットはないと書いたけど、OH氏指摘するに「1枚あるよ」とのコト。8年前に森山良子さんを呼んださい撮ったという。

ほほ〜、なるほど。

せっかくだ。見比べてみよう。


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歳月に これまでの花 これよりの桜かな  

西川織子 作

2018-10-01

ちゅうぎんまえジャズナイト

土曜の朝の7時にマイ・マザ〜の朝食を用意し、お食べいただき、後片付けが済んだ頃合いにkosakaチャンの車が迎えにやって来て、セブンイレブンコーヒーを車内で啜りつつ会場に運ばれる。

ながい1日のはじまり。

毎年繰り返してきた「ちゅうぎんまえジャズナイト」。

今回17回目。


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イベント済ませて帰路についたのは夜の11時頃。

く・た・び・れ・ま・す

近頃は自転車で出かけるよりバスでお気軽にを繰り返しているから、余計、足腰脆弱。

体力の衰えハナハダシ。

裏方としての音楽イベントの醍醐味を味わう以前のモンダイがジワワ〜っと、体力限界という名で攻め寄ってくる。

身体のアチャコチャから隙間風が入ってくるみたい。哀しや秋の風。

けども、年にただの1度のY事務局長らとの昼食は、我がお・た・の・し・み

中国銀行本店から僅か120m、いつもの「じゅん平」。

勝手に冷蔵庫からビールをば取り出し、グラスに移してグビ〜ッと呑むその旨さ格別。

今回はミックスフライ定食で、Yもボクもアジフライにはソースじゃなくってお醤油タラ〜リ。

いいね〜、アジフライに熱々な唐揚げやコロッケやらやら。

揚げ物は、二律背反の醍醐味こそが命だぞ。

宇宙空間と大気圏のハザカイを味わうがごとく、表面のカリッとサクッとの歯ごたえに対する中身の柔らかジュ〜シ〜さが、熱さフ〜フ〜ッと相まって天上的旨味になるワケだ。

「じゅん平」の場合、揚げて即にテーブルに運ばれるから、旨味率ほぼ100%。

揚げもまた”鮮度”が大事なんだわさ。


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しかしこたびは……、台風大接近。

開場直後まで雨に濡れる椅子席をタオルで拭き拭き、どうなるコトやらと案じてたら、開演と同時頃に雨はピタリとやみ、終演後も落ちず。

「どうなってんのかしら?」

逆に訝しむホドであったけど、結果オ〜ライ、肩の荷の一部がおりた。


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ステージ進行中。


終演後、Eっちゃんに頼まれていた名渡山遼のCDをば、お客に混ざってこっそり並んで買う。

並んでモノ買ったの……、ヒチャチブリ。

で、内ジャケットにサイン入れてもらいましたとさ。

毎度、イベントのたびミュージシャンのそばに付き添ってお客の対応をしてきた身としては、妙に新鮮。並んでるのをスタッフのA嬢が見つけ、「何してんですかフクイインチョ?」声かけられて思わず声が出ず、苦笑した。


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さてと次土曜は、別会場の下石井公園。

また次の台風の接近予報が出てる……。

どうなるコトやら。

とはいえ、イエ〜イエィ♪、会場で味わい吸う空気の味覚というのは、これは特別だ。

ピンと張った弦の綺麗な音色の振幅が、体内で共振するみたいなイベントの醍醐味は、かけがえないお宝時間。

日常にないテンションの張り具合の中に身を置くのは、好きだな〜。

トシをとると、心と身体がうまく連動しなくって、きっと諸君もいずれは判る時が来ると思うがね、そのさいは慌てず騒がず、

「ぁ〜、しんど」

タメ息つきつつ、タメ息ついちゃってる自身を愉しむよう心がけるべし。


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あるようでなかったイインチョとフクイインチョのツーショット。

しかも背景中央では名渡山遼がリハーサル中という、レア極まる1枚。

ドンピシャ・グッドタイミングな撮影はMIEちゃん。感謝。


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台風一過

朝の5時半に庭にでると金木犀の花がほぼ全部…、風にやられてた。

今秋は香りを楽しめないことに。

2018-09-26

パーティ2つ

季節の巡りは、およそ50年前とはまったく違う。

50年前の小学校の絵日記では、8月の朝顔の絵が描けたけど、今や、8月に朝顔は花をつけず…、10月になろうという頃合いで盛りとなる。

気温が50年前とは違いすぎ、8月や9月前半は朝顔には暑すぎる辛抱月ということになるんだろう。

歓迎すべき変化じゃぁ…、ないね、きっと。


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懇意のマリッジを祝う集い。

懇意を偲ぶ集い。

たまたま連続。


2つは一緒でくくれるような性質じゃ〜ないけれど、人を思う気分昂らかは、お・な・じ。

基礎となる母音の「あ」と「い」、そのもの。

なので、それゆえ、『愛』とは安直過ぎ。そんなペタンコとはチョイ、色彩が違う人の集い。


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いずれの会場も初めての場所だったから新鮮が加わりもし、卓上の料理がいっそう美味かった。

かたや小笹が植わった小庭をガラス越しに見る小料亭での、ごくごく少数、ハッピーブラボ〜の酒席。

祝いのブーケとプレゼントにニッコリのご当人は来春には横浜方面のヒトになって、この地からはチョイと離れるけど、な〜に構やぁしない。

新天地での新鮮を充分に味わいつつ、すこやかにお元気に〜〜ィ、と杯を重ね、お箸を動かす。

定番のお刺身とは別に焼きサンマも出ました、な。

ペロリたいらげ2〜3度乾杯。


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近頃の料亭では自家製のお豆腐というのが、流行りだそうな…。仕事の付き合い上、宴席に出ることが多いT君が教えてくれた。

お豆腐そのものよりダシの甘みが美味しかったので、オチョコにこっそり注いで呑んじゃった。

それを肴に別のオチョコで常温酒を、クイっ。

クイっクイっ・クイっ。


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かたや偲ぶ会。

とはいえラフなスタイルでの大勢な集い。


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故人となったマ〜ちゃんに連れてかれた土佐は久礼で、カツオのたたき、その藁焼きを食べさせられたさいの驚きは今も新鮮なまま炯々として体内にある。

いや実は、たたきがまったく苦手で、これだけは生涯ゼッタイにハズレのアメダメだす〜と思い決めてたのが、海を見下ろす丘の上の黒潮工房でいともたやすく粉砕され…、

「ありゃ??!」

喰えるじゃん、旨いじゃん、2呼吸で鮮烈されちまったのを、思い出す。

もう10年も前だ。


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そ〜、あれから一緒に何度も土佐に行った。そのたびに新鮮なたたきと接した。

ボクが産まれ育った山間の津山では味わえない…、要は、鮮度のモンダイなのだった。

プラス、やはり、そのたたきの本場本拠地の空気感が、食べられる下ごしらえの味付けとしてあったには違いない。なので今もって、カツオのたたきは岡山では食べない習癖をいっそう強固にしちゃってるワケだけど、教わるコト大な高知の海を見下ろす御食事処だった。


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で、その新鮮をパーティで、むろん、たたきじゃないけれど、パーティというカタチの中におぼえて、ちょっとタメ息なんぞをついちゃった今日この頃。

この先、共に高知にゃ出向けなくとも、な〜に構やぁしない。

カサブランカ』のボガード風にいえば、

「ボクにはあの日の土佐がある」

ボギーは手巻きシガレットの煙にくるまれてそのセリフを云ったけど、こちらはニンニクからめたワラ焼きの煙をいぶすように思い出しつつ、気分を真似てみるのだった。


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ちなみに、偲ぶ会に出向くバスの中で50円硬貨を拾う。

ゴエンでなくゴジュウエン。

このエンはどういうコウカあり? 

とか思わず黙ってポッケに入れ、帰りのバス代の一部に活用させていただいた。

縁といえば、近いうちに納骨されるマ〜ちゃんの墓所とウチのそれとが同じ分譲墓地ということかしら。20数歩で「こんにちわ〜」な距離が妙に嬉しかったりする。

2018-09-21

聊斎志異

雨中の午後、カサさして、今月29日の「ちゅうぎんまえジャズナイト」のための、地域への挨拶とお願い。

市の文化担当者さんと共に、複数の町内会長やら地域企業を順次に巡る。

全国津々浦々の屋外ライブイベントは、きっと似たような挨拶やお願いを裏方がやっているんだろう。地域の方々の協力なくしては屋外イベントは成立しない。

でもって、お天気が常に問題。だんとつ協調から遠い。

だから、当日だけは降ってくれるな…、との思いが募る。身勝手だけど、ま〜、これだけはしかたないのだテルテルボーイズ。


挨拶廻り後、会場となる中国銀行本店前近場の「倉敷ぎょうざ」で餃子1パックをば買う。

程よいニンニク加減がわが好み。焼き立てをハフハフと口の中で転がしつつビールで流し込むのが好き。

雨中行軍の自分へのご褒美じゃ〜ん、なんて〜コトは思わない。自腹きってご褒美もあるまい。

本場中国では餃子といえば水餃子だけど、個人的には何といっても焼き餃子

麺に炒飯に焼き餃子。この3点でもって我が中華は完結しちまうのだッチュウカ。


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その中国で生まれた…、『聊斎志異』を複数、持っている。

およそ400年前の作家・蒲松齢(ほ・しょうれい)の作品集。聊斎(りょうさい)は彼の書斎をいい、聞いた話やらを書きとめつつ創案で膨らませ、その書斎で綴ったもの。


大きな活字で読みやすいけど全話をギュ〜ギュ〜詰めにしちゃってるからとっても重い大判のは書棚に置き、お手軽サイズな文庫版を別室ベッドの横に置く。あっちでも、こっちでも…、読めるように。なので複数。

実際は500話を越えてるんだっけ?

日本で流通しているのはその内の半分くらいの翻訳かなぁ?

小篇の数は忘れたけど、1分内で1話読めるのが多数なのがいい。

餃子のギョの字は拾えないけど、人がいて、怪異あって、ヘンテコな展開となれども、それを実に淡々と僅かな文字数で記してあるだけ…、といったら過言だけど、その淡々っぷりがいい。

就眠直前に適当にページを開いて、そこにある小篇を1つか2つ読んで、お・や・す・み、だ。


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いっとき杉浦茂にハマってた頃は、彼の『聊斎志異』にも眼を通したけど、とても残念なことに杉浦ワールドと聊斎志異ワールドは、同じ異界ハナシだというのに相性が悪かった。

上中下の3巻描き下ろしの予定が2冊は出たけど下巻がとうとう出版されなかったところにも、不首尾がうかがえる。

惜しい話だけど、しかたない。『聊斎志異』の奔放と杉浦の奔放は方角が違うものだった。原作を杉浦的に翻案しようとすればするほど、両方の魅力が崩れてった…、という感じだった。


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その点では諸星大二郎は天晴、『西遊記』なども含め中国の古典の奇っ怪をよく咀嚼して、実に味わい深い。

たぶん、そのコマ運びの突き放し方がうまいんだと思うが、彼の中国もの、『西遊妖猿伝』を含め、『諸怪志異』も『碁娘伝』も『太公望伝』も…、ベッドの横に置いてる方が、安眠しやすい。これもまたページを選ばず、開いたところを眺めてる内にトロリンコ、お・や・す・み、だ。


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ま〜、そういう本をベッドに置いてると、時折り、影響が夢に出る。

弓の名人がいて、その人の警護でボクを含め複数が彼を取り囲んで、遠方まで旅してる。

途中で敵の弓矢が飛んでくるのを、コルクを分厚く表面に張ったカサでふせぐ。

名人を中心に置いて我らがカサをさして、守るワケだ。

飛んでくる音はしない。ただカサに弓が刺さる感覚のみ。

夢なのに、コルク張りのカサが実にうまく描写される。

けど、押しくら饅頭みたいになって、歩きにくいったらない。

そのうえ、密集してるから暑い。

7〜8人で亀の甲羅の役をやってるワケでボクはその内の1人だ。

「あと6里だ」

誰かがいう。ということは後24キロも…、その状態で歩かんとイカン。

それはいかん。やってらんない。

と、うまく場面変わって、お城の中で弓の名人から、「ごくろうさん」とか云われるシーンになる。

コルクのカサには弓矢がいっぱい刺さってる。

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と、また場面というか印象が変わって、なにやら長老みたいなのが、

「それらの矢は我が方が賜ったもの。だからこの国では矢は作らなくていい、流用して使うべし。で、1本は警護の者が取って持ち帰ってヨシ、イワシを干したのと一緒に玄関に吊って家宝にせ〜」

ワケわからんことを云い、その横手イワシ販売の屋台が出てる。

それでオシマイ。

実に『聊斎志異』的な小咄だと、目覚めてニッタリ笑う。

が、すぐに、も少しパンチが効いたオチが欲しいなぁ、などと残念だったりもする。

けど、そうやって覚えてるのはごくごく時たま。

たいがい目覚めた途端、消えてっちゃう。

ま〜、そこが中国幻想譚の影響っぽいところ。淡いはかなさというもんだ。

消えることを惜しんでもしかたない。


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ハイ、ぎょうざ。写真でちょっとおすそわけ。

1パック40ケだからね…。2夜、愉しめるよ。

2018-09-16

いっぷく

お彼岸。坊さん来たりて仏前へ。

来なくていいとはツユっとも思わないが、先月のお盆法要とは間隔が狭いからね〜。

事前にハガキにて到来予告はあるし、だから、断っていい余地もあるけれど、そうも出来ない性質を帯びてるワケで。

仏教に興味を持ってる方じゃあるけども、車検制度同様な慣習化は、なにやらシステマチックな集金システムに組み入れられているような気がしないでもない。

けどまた、そうでもしなきゃ〜、亡き親族を偲ぶ集いというのも年数が経つと希薄になって…、なかなか悩ましい。


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ちなみに、2年にいっぺん高額費用がかかる車検制度は、他国じゃどうかと云うと、あらま…、あまりの違いにここに書くのもイヤになる。

車検という制度がない国の方が多くって、ドイツに至っては車検はあれども費用は1万とちょっとで、その場で検査完了。30年乗り続けて変な改造なんかしていない車に関しては、「工業文化遺産」を所持しているとされ税が軽減されたりもする。

日本は高額な上に罰則ありの強制だから、ね〜〜。

ある意味、”良く出来た徴収システム”の典型だけど、システムというよりカラクリだな、これは日本独自な。

このお手本となったのは、お江戸時代に確立された寺と檀家というカタチ上での上納的取り立て縛りの制度だったかも、と邪推する。本題じゃないんで書かないけど。

読経終えて茶をすすり、ちょいと世間話して、お坊さん袈裟をゆすらせ次の檀家さん宅に、GO〜〜。


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さてと近頃、コーヒー食滞気味。

朝イチの2杯くらいは良いとして白昼何杯もオカワリする気がしなくなった。

米国映画に見られる艦船の士官みたいに、たえず身辺にマグカップを置き、時に部屋から部屋へ移動したり庭に持って出たりもしたけど、飽きというか停滞というか、なんだか飲み続ける気が失せた。

それで夕刻前あたりからは煎茶を、呑むようになった。

もちろん、そのへんのスーパーで売ってるやつだよ。


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茶器に凝ったりも、しない。

湯呑はあえてダイソーの100円とセリアの100円だ。

ま〜、それで「いさぎ」を自己演出というワケでもあるけど…、なんで2つかといえば、手持ちの急須が2杯採れる分量なので、湯呑〜みフタツなんだ。

1杯は熱いのを、も1つはやや冷めちゃったのを。

で、二番煎じ作って、またフタツ

トータル4杯呑んだら急須を洗い、あとはアルコール・アワー。


茶は変化が大きいのがイイね。

すぐに渋くなっちまうのが欠点でなく利点に思えだした。

茶の湯的なおすましは今のところ不要。ガボガボ呑んじゃう日常な茶。


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聞いたハナシだと、急須のない家庭がこの頃はかなりあるそうな。若いカップルとかだろね。

茶はペットボトルという次第が定着しちまってるんだろね。

良くは…、ないな。

炭酸飲料じゃないんだから、ペットボトルのはあくまで代用でしょう…。

それでナルホドと思ったのは、茶筒を売ってないんだよ、この頃。

むろん専門店にいきゃナンボでもあるけど、ちょいっとした大型なショッピングセンターでも、ひどく品数が少ない。あっても変に民芸っぽいデザインのものだったり、おせっかいにもTEAの三文字ロゴをでっかく入れたのとか、デザイン面においてもハリとツヤがないの。チカラが入ってないんだね商品としては。

100円ショップダイソーにはないし、セリアでは僅か1種だったよ。

それっくらい需要が今はないのだね。


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でも一方でスーパーじゃ各種の茶葉が並んで、それはけっこう賑やかじゃね。

皆さん、買った袋のまま使ってるんだろうか? それともかつて誰かから贈られたりした静岡天竜茶とか京都利休園の高そうな茶が入ってた筒を流用して、安い茶葉をキモチ高そうに見せる努力をば、なさってるんかしら。

ま〜、よそさまはどうでもよろしい。流用大いに結構だ。


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1つ面白いのは、そうやって煎茶を呑むようになってからね…、なにやら夕刻の4時頃が待ち遠しくなったことだよ。

茶葉の分量のサジ加減を密かに愉しんで(すなわち悩んで)たりもする。

変ですねっ。

たかがお茶、されどお茶。茶の時間が自分の中に生まれたのが嬉しいような…。

幼年期の終わり」をもじっちぇば「老年期のはじまり」という変化の時なのかもしれないっチャ。

2018-09-10

朗読の午後

前回のを読んで、湯迫温泉白雲閣に泊まったコトあるよん、とT君がメールをくれた。ありがとね。

会社の親睦会という流れで終業後に出向き、翌日の朝10時前にはもう退館したから、温泉の後ろにお寺があるなんて〜知らんかった、というコトのようだった。

ま〜、そんなもんですな。


灯台下暗し

この頃は、自分の立ってる所から、そうだな、半径5〜6Kmの円を描く程度でのアレコレをここに記すという趣旨を、ひとつ、こっそり掲げてたりもしているんだけど、近場には知らないコトが多々あって、遠方への一泊旅行の見聞よりオモチロかったりする。

白河の関を越えるどころか旅行もしないまま自宅に潜んで旅の詩を詠んだ能因法師じゃないけど、すぐそばの風景やらアレやコレの中に、かなりの醍醐味と想像のネタが埋蔵してるんだから、面白くないはずがない。


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※ JR高島駅の近く。新幹線の高架下。雨で霧がかった写真に…。

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※ 意外な場所に意外なものが生息しているもんだ…。高架下を人が未使用なら自然がそこを利用するというか、もはやこういう場所でしか生きられないんだね。


しかし、多いね、大災害…。

地球イチバンの頻度じゃないかしら。

馴染みきった日常と風景が瞬時に一変する修羅を経験した方々には、日常って何だ…、の喪失もまた大きいはずで、そこを思うと落ち着かないなっ。

けどもまた一方で、この国に住まってると、災いが日常の当たり前になって愛想に哀想が拮抗して感覚が麻痺し、知らず鈍感になるんじゃなかろうか。

いや、もう相当に鈍感になって、覚悟じゃなくって、

「こんなもんでしょ」

な澱んだ諦観さえおぼえるね。

「電気、ぁ、戻ってきた、灯ったよ〜ん」

慌てたのを直ぐに忘れちゃえるような。

とどのつまり、

「今回は自分の地域じゃなくて、ホッ」

運を天に任せてるみたいな。

重源の勧進のことをこの前書きつつ、従順な民の心象を不思議に思ったけど、なんだかその背景にこの災害連打の国土が影響してるような気がしないでも、ない。

ちなみに勧進を勧めてる頃、富士山噴火中だ。

奥州平泉に砂金の勧進に出向いた西行は、

風になびく富士の煙りの空にきえ ゆくえも知れぬ我が思ひかな

と、綴る。


生活の背景にいつ来るやも知れない災難災禍が常に潜んでると、大きなビジョンより細やかで刹那の情動のほうが働いて、大きな俯瞰での視線と視点は持てなくて、その点では鈍感だけど、ほんの刹那のアレコレには過敏というような。

「ゆらぎ」、「そよぎ」、「さやぎ」、「ぞよめぎ」、「やすらぎ」、そういう『ギ』態な感覚語は、この風土が研いでったんじゃないかしら…。

『ぎ』は『気』と当て字したって通じるわけで。


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雨の日曜。午後。

B3共(ビーサンキョー)で催された『古市福子朗読の午後』に出向く。

今回でもう19回目。

近年は足を不自由されて芝居の座からはおりてらっしゃるけれど、年1度のペースでの朗読会開催は、たいしたもんだでフクちゃん元気。

前回はスケジュールが合わずで出向けなかったが、今回はちゃんと聴いた。

眼ではなく耳で物語を愉しむというのは、いいもんだ。

イーストウッド監督の『ヒア・アフター』でも、主人公のマット・ディモンがディケンズ作品を読む朗読の場で嬉々としていたし、『カポーティ』では本人が自作の一部を聴衆の前で読むというシーンがあったね。

セーヌ川左岸のブキニストやカルチェラタン古本屋では毎週のように朗読会が、もちろん小規模なもんだけどもが開催されている所をみると、眼で文字を追うのと同様に耳で直に聴くというのは、あんがいと定番な、詩や物語への接し方なんだろね。


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思えばこの国だって、かつてはそうだった。

歌会はポエジーを声に出してが基本だったし、琵琶法師という存在あって初めて、『平家物語』とかは市民権を得たというか、広く知られていったワケで、今や文庫本でぜ〜んぶお手軽に読めるけど、大正時代の終わり頃まで『平家物語』の一部は秘曲十九句とか大秘事とかいって、文字として書き記すのを禁止されてたくらいに…、声で読むが基本だったりした。


と、それにしてもこの9月は何かと忙しないな。会合あり、法要あり、祝う会あり、偲ぶ会あり、週末土日に加え平日もアレコレあって、最終土曜にゃジャズフェスもあるし、気持ちチョイと…、ぞよめくと。

2018-09-05

ひっくり返るな大仏さん

稲が育っている。

台風前日の秋色な空。

水田のあぜ道を縫うように自転車で駆け、湯迫(ゆば-岡山市中区)の浄土寺を訪ねる。

うちから近いので、訪ねるというホドのもんでもない…。


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龍ノ口山を背にしたこの寺は、すぐそばまで出向いても存在に気づかないほど、上の写真の通り、クリーミ〜色の湯迫温泉のビル家屋に覆われている。

湯迫温泉に蚕食されているようなカタチ。下写真の温泉歓迎のゲートをくぐって、初めて、お寺があると判る…。

本堂を含めて社殿はいずれも江戸時代以降のものらしいけど、749年に創建されたというから、もう1269年も前からある古刹ということになる。

山裾に向けて墓が居並び、温泉旅館の後ろにこんなのあるのか…、そう思えるほどに意外と広い。

岡山市教育委員会が建てた看板を読むと、創建時は現在の数倍の面積をもっていたようだ。国府(今でいう県庁)のそばだし、それに相応する規模の大寺院だったろう。


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かつてここに重源(ちょうげん)が来て、しばらく滞在し、あれこれと指図したことは間違いない。

奈良の大仏再興に尽力した、偉い仏僧として今に伝わる。

岡山備前焼の地だ。大仏殿の瓦などを焼かせつつ、この浄土寺に湯治場を設け、ここを基地にして大仏復興寄進を薦めた…、ということになっている。実際、東大寺の刻印が入った瓦が出土している。

湯治場があったことを物語る小さな溜まり(泉)もあり、石碑が立つ。


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しかし、あれこれ本をめくるに、重源というヒト、ただも〜偉いヒトという一括りでは語れない人物だ。

座して仏法を語るような僧ではない。

重源の足跡をたどると、あまりに振幅が大きすぎ、等身がみえない。


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等身が見えないというコトでは奈良の大仏もそうだ。

でっかい。

それが丸焼けになった。

1180年の12月。平重衡(しげひら)の軍による近隣への放火が広がり、アレレっという間に燃え移って、見るも無残な姿になった。

父親の清盛の命令での、大衆(たいしゅ・僧兵)を多数抱えていうことをきかない興福寺などを威嚇する目的での進撃と放火だが、重衡自身、まさか東大寺にまで火が入り、大仏殿まで燃えちまうとは、おそらく思っていなかったろう。

結果、彼は朝廷勢から徹底的に恨まれた。

挙げ句、平家憎しと義経に一ノ谷で追いこくられ、捕まって三重木津川に連れてかれて首をちょん切られた。


焼けた大仏は、誰もそれを復活復旧出来るとは思わなかった。

大仏殿そのものが火ダルマになり、焼けた梁や柱や瓦が大仏の上に崩れ、数日かけて燃え続けて、火にくべられたサツマイモ同様なメにあった。

溶けて首が落ち、手が落ち、胴体も火ぶくれて崩れている。イモなら喰えるが、大仏は溶けた銅や水銀などで土壌も汚染した。

で、胴体は座したカタチのまま、炎天下に剥き出され、しかも、後ろに引っくり返りそうになっている。

そこで背後に土を盛った。山を造って、引っくり返らないよう応急された。


重源が復興の最高指揮官として任命されたのは、それから5年後のことだ。

自ら「やります」と名乗り出たというハナシもある…。

5年の歳月が、盛土に草を茂らせている。

焼けただれた末に5年放置されて錆を浮かせた巨大な仏像が、これまた巨大な山を背もたれにして座っている。

もはや誰も、その山は取り除けない…、と思ってた。

けれど重源は、大仏内部に潜り込んで調査し、重心を考慮した芯棒を入れたり溶銅を前方部に流し込むなどで補強を行い、後白河天皇の許可も得ずに山を撤去した。

当時も今も、天皇の許諾なく勝手に事を起こすというのは出来ないハナシながら、重源はそれをやった。

結果は上々で、大仏さんは山の背もたれがなくても座ってる。

結果の上々に、天皇すら文句のつけようがない。そも後白河天皇の命題は大仏復興にあるワケで、文句どころか、褒めるっきゃ〜ない。

重源61歳。強硬だ。

自立自座した大仏は太陽の日差しを浴びつつ、足場が組まれ、山であった背後に3つの炉が設置され、鋳型を起こされたりと、修復作業が進む。


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※ 現在の大仏殿は2度めの消失後に江戸時代に造られた3代目。重源が復興させたものより一廻りも小さく横幅も28mほど縮んでる。


さて一方で、復旧プロジェクトは天皇公家武家の財布だけでは賄いきれない大規模なものだった。

大仏だけでなく、東大寺そのもの、その周辺までの再建整備だ。

そこで勧進という手法がフル活用された。

全国の一般人に寄付を募った。日本全土に向けて、ボランティア活動を募った。むろん、これには

「素直な気持ちで寄付すりゃ、あんたは極楽に行けまっせ」

という仏教的次第をからませてある。

が、重源の言葉はもう少しきつい。

勧進しなきゃ〜、あんた、まもなく白癩黒癩(しろはたけくろはたけ-重度の皮膚病)にかかりまっせ。で、それで死んでも無間地獄に落ちて脱出不可能だっせ」

ビビらせた。

脅しだ。

これは複数の彼の書いた文章にも残っている。赤い羽根を交換に渡したりはしない。


ただ、彼は恫喝しただけでもない。

より巧妙にボランティア活動に仕向ける策を、造った。

初期の鎌倉時代…、当時、一般に、お風呂はそうあるワケもない。ノミやシラミと共存してるようなアンバイが普通で、だから皮膚病にかかる率もずいぶん高い。

そこで重源は、湯治場を設けた。

効能をうたい、湯を使わせた。


以前にこのブログ浄土寺の湯治場のことを書いたことがあるけど、今はも少しオベンキョウしたから、もうちょっとリアルな感触で…、浄土寺のそれを眺められる。


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当時、重源は朝廷から備前国の一部を「知行国」として得ている。

東大寺復興のために彼自身の財源確保の場として備前の一部地域(万富界隈)が彼に与えられたワケだ。

で、そこでは稲や麦が収穫される。古くからの焼き物の産地でもある。

要は税として重源はその収穫を受け取れる次第。公家でも武家でもないイッカイの僧侶が荘園的に地所を取得した初例か?


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で、浄土寺の湯治場だ。

その背後は龍ノ口山。この山に旭川がぶつかっているから、山はその水を吸収し、それが南面の平野の土壌を肥沃にするという効果もあって、浄土寺の周辺を掘れば、良質な地下水が湧いてでる。雄町冷泉はその代表だ。

その湧いたのを沸かせた湯治場だ…。現存する水の溜まりは、そのごくごく一部だろう。湯治場であったと思われる場所は今は湯迫温泉の駐車場だ。


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おそらく地域の小集落ごとに”お呼び”がかかり、湯を使うよう薦められたはずだ。

多少の想像も含めていうなら、この湯治場につかって肩こりをほぐしたりシラミを退治したりした人達は、さらに湯上がりに粥も振る舞われた。

あるいは麦飯のようなものだっかも知れないが、ともあれ、湯と飯でほっこりはさせられた。

米であれ麦であれ重源の知行国の収益から出したものだ。

で、その振る舞いの御礼として、彼ら一般ピープルは重源に…、労働力を提供することになる。ま〜、すなわち労働力をば寄進というカタチで。


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※ 金網の中の”冷泉”。


備前焼の瓦製造には、これは技術が要るから当然にそれなりの対価が、といっても、それはボランティア・ベースにのっとった少額な支払いであったろうが、木材を引く縄のような消耗品、それも頑丈で太くて長いのを作ろうとすると、そうそう専門職があるワケでもない。大勢の人が共同で作業しなくちゃいけない。

縄は、麻苧(あさお)を綯いて造る。麻縄だ。

湯につかった方々は、縄を造る作業を集落総出となって無償でおこなった。

初めて縄作りにチャレンジするワケではない。縄を綯う作業は農家の基本作業でもあったから、別にひどく苦労するわけでもない。ただ、求められるのは日常のサイズでない…。

大仏を覆う大仏殿を造るには、巨木が何100本も要る。1本が16〜20m、太さが1m70cmを越える。

それを引く太く長い縄がとにかく大量に必要だ。

縄不足は深刻で、重源の訴えで、朝廷から二度に渡って全国に督促されたほどだった。


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大仏殿に使えそうな巨木は当時ですら、もう近畿圏にない。

周防国(山口県)でやっと大木が見いだされ、それらを使うことになるけども、遠方だ。

切り倒し、杣(そま)から川に運ぶだけでも大変な量の縄がいる。

川から海に運ばれた巨木は、今度は筏に乗せられるが、筏を頑丈に組み上げるには、やはり縄だ。

奈良では100頭を越える牛が1本の木を引っ張るけど、ここでも大量の縄だ。


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重源は勧進のために全国のあちゃこちゃに湯治場を設けている。だから湯迫の浄土寺のそれも、大仏殿のための縄の確保のためにあったとも、云えるよう思う。

と、それにしても、奈良の大仏なんか岡山生まれで岡山に育ってるヒトは見たことはない。当時は写真なんぞはないから、ただもう重源が云うところの巨大な仏像を想像するしかない。

すでに400年ほど前から奈良にそれがあるという話は知ってはいても、見たことがなく実感がない。ましてや、それを修復すると云われたって…、

「この坊さん、話を膨らませて、でぇれ〜ホラ吹きじゃぁ」

信じられないヒトもあったろう、と思う。

けども、そこを重源は、

「風呂にはいれたんは仏のおかげ。忘れちゃ困りまっせ」

冷ややかに薄めを開けて睨みつけ、

「おかげをないがしらにするなら…、あんた確実に地獄行きやっ」

二の句をつかせなかったに、違いない。

そこには偉い坊さんというよりは、ヤクザもビビるような、あるいはヤクザ者すら掌でひっくり返すような強靭なコワモテが、まさに大仏のようにデ〜ンと居座ったヒトという印象を濃く残す。


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重源の活躍…、というか暗躍に近い諸々の行為はまた日をあらためて紹介してもいい。

重源のことを書いた本は複数あるけど、書いてる人の立ち位置で重源の姿はまったく違うものになっている。やはり聖者として書かれているものが多いけど、花田清輝の『御舎利』(『小説平家』収録)と伊藤ていじのは聖者の看板を外して醒めた視点と考察が冴えている。高橋直樹の『悪党重源』はこれは小説だけど、ややヤリ過ぎで疾走ぎみ…。


史実の中の重源は、建久2年(1191)に室生寺五輪の塔に納められていた釈迦の、いわゆる仏舎利が33粒盗まれたさいに、泥棒したと訴えられ、それで彼は東大寺再建を放っぽり出して一時、失踪逃亡したりもする。

森林伐採の重労働をボランティアさせられた周防の地元民とそのまとめ役らが不平不満を募らせるや、

「お〜、お〜、お〜、ワイの後ろにゃな」

源頼朝の名をちらつかせ、平家のように一族もろとも滅ぶで…、強権力の存在を匂わせて相手を竦ませた。

えらい坊さんというよりも、ドエライ怪物のような人物だ。


と同時に、その怪物のいささか理不尽な振る舞いを前にして、日本人は総じて…、おとなしいという印象を濃くする。

重源の「あっち向けぇ〜あっちッ」の号令にいとも容易に従ってるようで、どうもその心魂の根っこが判らない。

ま〜、もっとも、今どことなく東京オリンピックのためなら…、という妙な空気が兆しつつあって、国が大学生に向けて、単位取得の加算などをちらつかせてボランティアを「強いる」ような、国家総動員的方向での流れが加速しているのも重源の時代とそう変わらないし、それに応えようとする心情もまた多のようであるから、国家的プロジェクトのリーダーになった者には、あんがい「助かる」国民性なのかもしれない。

という次第で、重源という存在に興味ありで湯迫温泉の後ろに隠れた浄土寺を訪ねてみたわけだ。


え〜、ちなみに、灯台モト暗しじゃないけれど、湯迫温泉にはつかったことがない。

小学生の時に近隣の地域に転校して来たさい、周辺じゃ〜同温泉ラブホテルとして、いかがわしく見られていた。規模もささやかだったよう思う。

今は湯迫温泉白雲閣といい、ちゃんとした温泉大衆演劇とおいしい料理でもてなされるらしく、京阪神方面からのお客も多いとか。

見栄えのいい送迎バスもあって、よく眼にする。

エエこっちゃね。

いやもちろん、ラブホテル時代(?)にも、エエ思い出がいっぱい造られた場所じゃあったろうけど、背後のお寺さんとこの…、やや昭和レトロな匂いがしないでもない温泉施設の関係までをボクは知ろうとは思わない。

2018-08-31

たまげたカツパン

チキンラーメンが誕生から六〇年という。

60と書くより六〇と書いた方がふさわしいよう感じるのは、郷愁としての昭和の流れを意識するせいかも。

六〇年前とは昭和33年だ。長嶋茂雄がデビュー戦で4打席4三振し、1万円札が発行され、東京タワーが完成し、今の天皇が妃殿下との結婚が決まった年で軽井沢という避暑地の存在を国民の多くが知ってチョット憧れた頃だ…。

とても毎日は食べられないが、チキンラーメンは今も、2〜3週に1度っくらいは朝方食べる。

生卵1ケをおとし、出来上がってコショウふりかけ。

一緒にビール(たいがい発泡酒だけどね)。

馴染みきった味だから、うまいとコトさら思うワケもないけど、馴染みきった安定が無我の妙味を誘う。

何も考えず飲むお水みたいに、いわば時折りに摂取しなきゃ〜な必需な食べものとして。

どう転んでも偉大な発明の1つに違いない。

しかし、そのインスタントなカップラーメンの日替わりメニューみたいな新製品の連打にゃ、辟易だわ。

アイスクリームの味だとか、フジッコ昆布の味だとか、謎肉が入ってますとか、京都だの金沢だのご当地の名を冠にしたのとか、とかとか…。

僅か数週間で店頭から消えていくそれら転がる石のような状況に、う・ん・ざ・り。


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※ チキンラーメンノベルティ・グッズ。付箋のセット。


前の土曜。ルネスホール。

久々に高砂高校のジャズバンド「ビッグ・フレンドリー・ジャズオーケストラ」をば聴く。

ブラスバンドでなく、ジャズバンド。

OJF(おかやまジャズフェスティバル)の関係で、10年ほど前、今は亡きF氏と同校部室を訪ねたことがある。

真っ黒にペイントした壁に張り紙やら落書きなんぞもあって、高校ではなく大学の部室が想起されるような、自由な空気と闊達があって好感だった。

当然に生徒は3年で卒業するから、「ビッグ・フレンドリー・ジャズオーケストラ」のメンバーも入れ替わる。

こたび久々。

残念にも、かつて味わったノビノビが薄かった。枠から外れるダイナミックがなかった。

彼らが悪く、彼らが小粒になったのではなく、たぶんに廻りの大人が、彼らをおとなしく飼育された者にしちゃってるんだろう。

いわゆる”甲子園での高校生らしさ”みたいなケッタイな空気を、彼らに吸わせているんだろう。

3年組の演奏時、1、2年組が踊りつつ客席を練り歩く演出があったけど、大人のおばさん(おそらく父兄)がそれを主導して、何やら生徒はその後をついていくだけというていたらく。

高校生の自主のフリをさせる大人に、う・ん・ざ・り。

タバコの吸い過ぎは害あるというけど、大人のでしゃばりもまた害甚大。子供の健康によろしくない。


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翌日曜、ジャズ喫茶JORDANでTRIO LIVE。

なかだのタカちゃんに藤井氏に佐藤氏。

高校生の初々とうって変わり、こちらしっとり大人あじ

ライブの途中、なぜかキンキンに冷やしたミカン缶を食べて〜〜、と思う。

けど終演の頃にゃ、もう忘れてら。で、数日後の今、思い出した。

ベースの佐藤氏はノッてくると中腰になる。その様子がチャ〜ミング。

良い味が出て好感。


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ライブ後に国体町の某所へタクシー移動。

お線香をあげ、ごくささやかな慰霊の集い。

良い顔の遺影。

帰る直前、”ご近所”でちょっとしたボヤ騒ぎ…。市内中の消防車がやってきたような騒動。

階下に降りると避難した方々もかなりいた…。

でも、オ〜ゴトにならずホッ。


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月曜。自転車で中央警察署に出頭。

OJFがらみの道路占有使用の許可申請

署の近く、RSKメディアコムの建物を壊して新たに造られた中区役所。外周の”石”が撤去されずに区役所の一部となっているのは、喜ばしい。

ただ、それらが寺田武弘という作家の作品だというコトを知る人は少ない。

知ったからといって、ド〜ッって〜こともないけど、路と施設の区切りのただの石じゃないって〜コトを念頭においてチョット考えたりするのも、良いでしょう。

かつて寺田から直に聞いたけど、「蹴ったり上がったり、座ってくれたりすりゃイイんだ」の一言が適切だったよう思える。


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70年代の末だったか、これらの石が配置された頃は周辺はさほど繁華でもなかった…。いわばポツンとメディアコムという当時のIT施設の牙城めくがあるきりで、近場には田んぼもあった。

けど、いまやそこは繁華っぽい街の重要な四つ角に変わり、周辺も変わって、「こんなところで座るの目立ってカッコ悪ぃ〜」という状況だから、その変化を含めて、置かれている”作品”をば味わうのも、また一興かと。

この30〜40年の合間の地域の激動をジッと眺めいったモノリスとしての”作品”だ。転がらない堂々こそ、この作品の命の宿りと思えばこそに。


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某日朝、マイ・マザーのお薬をば薬局に取りにいった次いで、コメダ珈琲再訪。

気になってたカツパンをオーダーしてみる。

まだモーニングの時間帯。

やや大きなトーストとゆで卵を喰らいつつ、カツパンをば待つ。

と…、やってきました気になってたヤツ。

メニュー写真に騙された…。

運ばれてきた時にはもう手遅れ、想定外のでかさと厚さ。


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揚げたてのカツのコロモが口の中でサクサクッ。良い音たてる。

音を食べるとはよくいった。

揚がって数分内で音はしなくなるからセミより短命だ。

旨い。

しかし、その分厚さ。10年前ならペロリたいらげだったかも知れないが、ビフォ〜&アフタ〜、10年後のコンニチでは…。

ましてトーストを食べた直後ゆえ、2切れは頬張ったけど、ラスト1切れはもうダメ。

こっそり紙ナプキンに包みいれ、お持ち帰ってしまいましたとさ。

このボリュームゆえ、お昼ごはんは食べずじまい…。

おそるべし、コメダ珈琲のカツパン

しかし、くじけない。

次は「コメチキ」じゃな。

大人は反省しない。

2018-08-26

似た顔

ときに、とてもよく似た顔を見ることがある。

最近だと、『刑事フォイル』のサム運転手と、『007 スペクター』のヒロインが劇的なほどに似ていて、あとで調べてみるまでボクは同じ女優じゃな…、そう思い込んだりもした。

前歯中央の歯と歯の間に隙間があるところ、目元とその視線、プローポーションなどなど…、あまりに似てるんで、同じ俳優じゃな、と喜んでしまったワケなのだ。

映画『影武者』で家康信長の間者どもがたいそう訝しみつつも、ついに「まちげ〜ねぇ、ありゃ信玄公よっ」断言したように、相似としてではなく、本人だ〜ァな見極め確定だったワケだ。

しかし残念にも、違う役者だ。

妙な気分をちょびっと味わったことはいうまでもない。


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※ 『刑事フォイル』のハニーサックル・ウィークス

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※ 『スペクター』のレア・セドゥ


かつて平安時代の中頃、能因という歌人がいた。いわゆる中古三十六歌仙の1人だ。

能因法師と書かれることが多い。公家に産まれ、どこかの時点で出家した。

出家したといっても、公家公家だから、基本は「あそび」の人であったろうと思う。そも、宮中女流歌人伊勢に憧れ、かつて彼女が住んだ摂津に転居したというアンバイだから、日々、歌詠みして過ごせる楽勝の趣味的人生だったような気がしないでもない。

けれどまた、このヒトが思わぬカタチで「努力」していた点で、滑稽というか、愛嬌あるヒトと思えて、それで印象を濃くして久しい。


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※ 佐竹本三十六歌仙絵巻より。伊勢


彼の歌、

「都をば 霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関

は高名だが、ちょいと後に、

「都にありながらこの歌をいださむことを念なしと思ひて、人にも知られず久しく籠もり居て、色をくろく日にあたりなしてあと、「みちのくにのかたへ修行のついでに詠みたり」とぞ披露し侍りける」

と、「古今著聞集」に暴露されている通り、実は陸奥みちのく)の白河なんぞには出向かず、都に隠れて日焼けにいそしみ、さんざん色が黒くなった時点で、

「いや〜、大変でしたよ」

公家仲間らの前にあらわれて、上の歌を披露したという逸話が、なんとも愛嬌あって、ボクは好きなのだ。


京都方面から陸奥を旅したというなら、おそらく1ヶ月ほどは、留守ということになろう。その1ヶ月を自宅に隠れ、行ったように見せるためにこっそり庭で日焼けに努める…、その姿カタチが愛嬌だ。

行ったコトにして、歌にハクをつけてるわけだから、これは大変な「努力」といっておかしくはない。

だから当然に、ご近所の方は、

「あれ? 今の能因さん? でも、旅に出てらっしゃるハズ、他人の空似かしら」

チラッとは彼を目撃し、そのたんびに、似てあらざる人を思ったんじゃなかろうか。まさか本人在宅とは考えもしないんで…。

それに色が黒かった。色の白さこそが公家たるを証す大事ポイント、白い顔をさらに白粉で塗る入念さだ。

色黒の公家というのは、ありえない。

「やっぱ、他人よ」

ここでは、別人だろうと確定的に見極められたワケだ。


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※ 白河神社参道福島県白河観光情報HPより


この可笑しみを歌舞伎にしちゃったのが岡本綺堂だ。

大正9年に帝国劇場で初演された彼の作品は、ずばりタイトルが『能因法師』だった。

現在は岩波文庫の『修善寺物語』に収録されているから容易に読める。

自分の歌にハクづけるために日焼けにいそしむ能因は、お仲間の1人に在宅がばれ、そこからドタバタがはじまり、やはり歌で有名になろうとしている加賀なる女性とその連れたる愛人までやってきて、悲恋を題材にした歌が出来たので、そのハクをつけるために愛人に別れて欲しい、そうでなければ悲恋の歌が嘘っぽくなる…、と能因を上廻る可笑しなことを云い出して、いよいよ舞台は大笑いな座となるというハナシだ。


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岡本綺堂のこの1編でも、「似た人」というのが主題を盛り上げる道具になっているのは云うまでもないことだけど、能因の「苦労」あって、彼の歌は今も残っていると思えば、ま〜、平安時代公家とその周辺というのは、かなり可笑しく、かつ可怪しい。

実の生活よりも、1つの歌にかけた、文字通り、”賭けた”、エネルギーのその使用法が、どうにも愛おしい。


そういう、ど〜でもイイことを、マ〜ちゃんこと茂成氏ともっと笑いつつ話したかった。

先週土曜に贈った本はここで紹介のものとは別なものだったが、マ〜ちゃんはたぶん読まないままに逝ってしまったろう。

南無三こんなに早くとは夢々思っていなかった。

残念でならないが、しばし、彼が残してくれた滑稽な話をば思い出し、クスクス笑おうと思う。

なので今回は能因法師を…。

諧謔を好む人だったゆえ、哀悼しつつたむけとして。


が、以上を書きつつ、ちょっと考えてしまうのだった。能因法師ははたして最後まで隠れ通す気がホントにあったのかと…。

途中でバレることを前提に、どこかの時点でバレるように行動し、自身を笑いの矢面に立たせるコトで話題作りを兼ねさせて、逆に歌の秀逸を目立たせようとしたかも…、と勘ぐった。

行かなかったことで逆に、作者能因と遠い国たる陸奥を際立たせたと。

「都をば 霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関

そうであるなら、この心眼的ポエジーを世に出すために、能因さんはケッコ〜戦略を練ったような気がしないではない。

暴露されることも含めて、大いに笑われようが歌のヒットがためなら何でもヤッちゃうぞな、迫力を感じないでもない。

であるなら、笑われようが飄々として動じないスケールを持ったヒトとも思える。笑いをとるコトで自身の作品に他者を引きつける、いわば捨て身的大転換の戦術を遂行できた人物として評価を変えなきゃイケナイ。

もちろんまったく裏腹に、「ものくさ太郎」みたいなテッテ〜した横着ものだった可能性もまた捨てきれない…。

心情として我が身とを重ねると、こっちの方こそ似てくるワケもあって、親近感も増すます募りマスと。