「自分語り」と「事実」の相克(相克ってほどでもないか)

オレがインターネットを利用するようになってから今日にいたるまでの12年間にわたって疑問に思っているのは、なぜネットでは「自分語り」が嫌われるのか、ということだ。たしかにネットにかぎらず、周囲の都合を考えずに自分のことばかり延々と語っている人間は鬱陶しいものではある。しかしネットにおける「自分語り」バッシングは、あまりにも過剰であるように感じられるのだ。鈴木謙介『ウェブ社会の思想』(ISBN:4140910844)を第5章まで読み進めて、この理由が何となく判ってきた気がしたので、覚え書きとしてメモする。なお以下の文章が鈴木氏のテクストから自説に都合のいい部分を切り張りしただけにすぎない可能性が高いのは明記しておく。もちろん思い切り誤読している可能性も捨て切れない。
鈴木氏は本書でネットが普及するにつれて、個人的な「記憶」よりもネット上に蓄積された「記録」のほうが重視されるようになっているのを指摘し、このラインに沿ったかたちで、「ネット右翼」と称されるひとびとが「<事実>による連帯」で結びついていると論じている。

 戦後民主主義的な集合的記憶が否定された後に残るのは何か。彼ら(引用者註:「ネット右翼」)に従えばそれは、「歴史的事実」を巡る争いということになるだろう。歴史の解釈ではなく、事実。これは前に述べた、メモリアルなき後の「事実を元手にした連帯」という事態へ、直截に繋がっている。(p177、斜体部分は原文では傍点)

南京大虐殺をめぐるネット上での論争など、まさにこの典型だろう。ここで論点になっているのは虐殺はあったのかないのか、もしあったとすれば何人くらいが殺されたのかという「事実」ばかりであり、歴史観や歴史解釈の問題は前景化されない。
そしてこうした現象は「ネット右翼」だけではなく、その他のインターネット利用者にも当て嵌まる。オレが「自分語り」めいたことをはじめようとすると、「私が知りたいのは『お前なりの見解』や『お前なりの体験』ではない。『端的な事実』であり、『端的な情報』なのだ」といったかたちで批判されることがないわけではない。とにかく「事実」を知りたいという欲望にドライブされているがゆえに、一部のネット利用者は「自分語り」を嫌忌するのだろうと、オレは理解している。
そして「自分なりの体験」や「自分なりの見解」を捨象した純粋な「事実」や「情報」などあるのだろうか、という疑問がオレには残る。彼らの考えかたはエクリチュールや自我の持つ不透明性という問題に、あまりにも無自覚で無頓着ではないのだろうか。それともこんな風に考えるオレが、あまりにも文学的(もっといえば「文学部的」)にすぎるのだろうか。