無名性の美 ー芸術の社会性についてー



学生の頃、駒場にある日本民藝館に行ったことがあった。初めて沖縄の紅型の染めの美しさに触れ、民芸の美しさに打たれた。今回、創設者である柳宗悦を師と仰いだ棟方志功の企画展があり、棟方志功の才能を認めた柳宗悦との関係を知りたくて訪ねた。柳宗悦は市井の生活の道具にこそ無名の美があるとし、民芸を発見した。私も美術制作における無名性に興味があり、一度向き合ってみたかった。
民藝館に入ると棟方志功の有名な版画作品がずらりと並んでいた。とても多作な人だなという印象が最初にあった。元々画像等で見ている鮮やかな色彩や棟方志功の画面に張り付くようにして制作している情熱的な写真が記憶にある。キリスト教のステンドグラスを思わせる装飾性が仏教のテーマを伴っているといった印象以外はあまり自分の関心を惹かなかった。ただし、柳宗悦が興味を持ったであったであろう“屈託の無い明るい美しさ”は理解出来た。
 私は比較として、所謂民芸を見たくなった。次の展示として河井寛次郎益子焼きの濱田庄司の焼き物と出会った。どちらも著名な工芸家である。河井寛次郎は趣味人として有名であり、その自由な芸術性が遺憾なくその造形に現れていた。それに比べて濱田庄司の焼き物は慎ましく、芸術が何であるのかを言わないように抑制しているような佇まいがあった。言い換えれば、河井寛次郎は民芸を超越しようとしたのに対して、濱田庄司は民芸を越えないようにしたように感じた。どちらの作家も有名な工芸家を自負しつつ、その制作姿勢が工芸と芸術に対するスタンスの違いがはっきり出ていて興味深かった。
 では、所謂民芸は?どんな造形美なのだろうと私は思った。次の展示に、江戸時代の丹波焼の器があった。全く今までの造形と一線を画していた。何だろう、これは?この緊張感のある輪郭線は、と思った。この予期せぬカタチの歪みは何なのだろうと。それは意図した焼きの歪みから来る輪郭線では無い。実用性として必要の無い精巧性はそこには無く、必然性から来る歪み。その輪郭を決める指から放たれたカタチを決める稜線の無名性の緊張感。名を持たぬこと。比べて、現代の我々の生活を支える工業製品に見られる“均質な有名性”とは違う質感。
次に興味を惹いたのは所謂“壷”。大きくて観賞用として作られたもの。考えてみれば、器とは何かを入れるものであり、大きな壷は特に富を所有するイメージとしての入れ物として第三者に見せる格好のものだ。なるほどと思いながら、所謂無為な民芸との比較に感じるものがあった。
 ここまで見て来て、民芸の“無名性の美”を発見した柳宗悦に対する私の敬意と、冨に象徴される造形の有名性の美の違いに少し触れたような気がした。分かっているようでいて、実感できないこうした社会のヒエラルキーに隠されたものを見抜いた柳宗悦に改めて感心した。我が家では彼の家族である工業デザイナー柳宗理のデザインしたサラダボウルがある。美しいけれど、外見的な装飾性ではない用途から来る美しさが外見に表現されている稀有なデザイン。インターネット社会において、市井の人の無名性と有名性が不明瞭な現代。柳宗悦が投げかけてくれた“無名性の美”は今も新鮮な輝きを我々に放っている。