近衛・ルーズベルト・賀川−日米外交秘話

 賀川豊彦は1960年4月23日、昇天した。当時、明治学院大学教授だった園部不二夫氏は、4月27日付けの毎日新聞で次のように書き、賀川をめぐる太平洋戦争前夜の秘話を公開した。 


 十カ月前、毎日新聞社から『宇宙の目的』という最後の快著を出版した賀川豊彦は、ついに四月二十三日夜昇天した。ノーベル平和賞候補のうわさ上りながら、それでも実現できなかった。昨年もだめだったので、ことしこそはと張り切っていたところであった。

 賀川が平和論者であったことはまだ明治学院の学生であったころ、日露戦争の最中に非戦論を強調したので、とうとう硬派の級友から鉄拳(てっけん)制裁を加えられ、校庭でぶっ倒れたという有名な逸話でも分かるくらいである。

 賀川は平和論者であると同時に愛国者でもあった。民族人であると同時に世界人でもあった。日米戦を防止するため異常な努力を払った点を、改めて再認識してほしいと思う。それは政治家や外交家の正面切っての工作ではなく、一宗教家の全く埋もれた裏面工作であった。

 一九四一年春−太平洋戦の始まる半年前−筆者が米国で勉学していたときのことであった。賀川はその年の四月に平和使節として渡米、三百余回にわたる伝道講演旅行を行った。ロサンゼルスの講演会の時、賀川は湯川秀樹氏のことに触れ、やがて湯川はノーベル賞を授与されるであろうと予言していた。私などこの時、はじめて湯川博士の名に接したほどであった。大戦後そのとおり実現した。

 その講演のあと、賀川は立派な白絹に墨でかいた、等身大のルーズベルト肖像画を二幅持っていた。大統領におみやげに上げるのだといっていた。一つは正面の顔、他は横顔で羽根ペンで署名しているところだったと記憶している。そのときは何のためかわからなかった。

 やがて七月、サンフランシスコで長老教会の年会が開かれ、筆者もそれに出席した。そのとき、賀川は全米の伝道旅行を終え、風雲急であったためロサンゼルスの白人協会のカガワ・サンデーをも断って竜田丸にかけつけた。これを逃すといつ船が出るかわからなかったからである。そして最後に日本人協会でお別れの説教を行った。終わってほかの牧師たちと一緒に午さん会によばれた。私は賀川にいった。

 「何か取っときのお話を残しておいていただけませんか」
 するとしばらく考えていた賀川は、つぎのような驚くべきことを語り出した。

 「実はいままで誰にも話さなかったが、諸君は牧師さんなのでお話しておこう。こんどの渡米のも公的には一つの大きな使命があったのです。近衛公からひそかに依頼されて、ルーズベルトに日本とシナとの間の調停をしてもらうためにきたのです。いま日本は日シ事変で勝った勝ったといっているが、実は四年間も戦っていて収拾がつかないで弱っている。終止符を打つためには調停者に頼まなければならない。蒋介石と近衛さんとの間に立つものは、ルーズベルト以外にない。そこで私に説き落としてくれというのです。おみやげに大統領も立派な肖像画を上げたらとても喜んでいましたよ。最初シアトルに上陸しようと思ったらトラホームのため検疫が通らない。仕方なく大統領に電報を打ったら、早速上げてやれという。ただし伝染してはいかんのでほかの人と握手まかりならぬという。とにかく上陸が許され、ルーズベルトと会って彼をとうとう説き伏せたのです。そして近衛さんと洋上会談するなり何なりして、日シ間の調停役を引き受けてもらうように、チャンと取りきめてきたのです。ところがどうですか。一カ月前の六月二十二日には独ソ戦が開始され、つづいて一週間前、七月二十三日には突然日本軍が仏印に進駐し出したではないですか。私の計画は全く水ほうに帰してしまいました。ルーズベルトから“カガワ、これではどうにもならない。近衛さんとの会談の件は取り消してくれ”といってきたのです」

 賀川はいかにも残念そうにいった。

 賀川はこうなったら日米戦争が遠からず起こるのではないかとおそれ、牧師たちに極力米市民と融和を計るように助言した。米国は日本の資産凍結を宣して報いていたからである。

 私はこの話を聞いた時ほど、賀川の偉大さに打たれたことはなかった。日本の外交官、政治家百人よりも、一人の宗教家カガワをルーズベルトは信用したのであった。日本郡部の無思慮の攻撃のため、近衛・ルーズベルト会談は失敗に帰した。しかし大統領をここまで動かしたのは賀川の人格であった。

 帰国後も、賀川はスタンレー・ジョーンズを通じて、再度、近衛・ルーズベルト会談を開くようにと計画した。ジョーンズからは

「ここ一週間があぶない。ワシントンでも徹夜の祈とう会を開くから、東京でも開くように」

との打電があった。賀川は同志たちと連夜祈とう会を開き、一週間つづけた。ロウソクの火が消された十二月八日の早朝、ラジオは真珠湾攻撃の報を高らかに報じた。

 賀川は、軍部の侵略戦争そのものには絶対反対であった。しかし、リンカーンがドレイを解放したように、日本は東亜民族解放のために、アジアのリンカーンとならなくてはならないと主張した。日本は敗戦という大いなる犠牲を払ったが、そのためインド、ビルマ、タイ、フィリピン、インドネシア等々、アジア諸民族は独立をかち得た。自らを殺して他を生かすキリスト精神を、日本が体験したことを、賀川は神に感謝したのである。(明治学院大学教授)