後に臣籍降下し源経基。
平安時代中期の皇族、武将。清和源氏の祖。
父は清和天皇の皇子である貞純親王とされる。子に源満仲がいるとされる。
承平の乱での平氏一族の内紛の最中、武蔵介として現地武蔵国に赴任するが在地の豪族と衝突。調停に入った平将門に殺害されるのではないかと考え、迎えに来た将門の部下を射殺し京まで逃げて将門謀反と訴える。これによって将門は謀反の意思がないことを訴えなければならなくなってしまう。しかし将門の釈明が通り、経基王は投獄された*1。
承平の乱で後に将門が朝敵とされると許され、評価が一転。「経基王に先見の明あり」と評される。
征夷副将軍に就いて将門討伐に向かうも着いた頃には既に平貞盛、藤原秀郷らが将門を討ち取っていた。藤原純友が起こした天慶の乱についても討伐に向かうがこれも着いた頃には純友は捕らわれており、経基王自身のしたことは残党処理にとどまる。
晩年、臣籍降下し源氏を賜り源経基となるが本人は不服だったという。
両乱を鎮めたとされたことから彼の子孫、清和源氏は武門の名家として栄えることになった。
異説の一つに、『尊卑分脈』における家系記述のおかしさなどから、経基王の親は貞純親王とされるがこれは詐称であり*2近代まで暴君として有名だった陽成天皇の子である元平親王が親ではないかという説があり、論争がある。
このため、中学や高校の日本史で清和源氏の家系図が載せられると清和天皇と源経基の間が伏せられてしまっていることがある。
*1:従来は誣告によるものとされてきましたが、律令制下の裁判では告訴が取り上げられると告訴した人物も拘禁されることから、経基の告訴が正式に取り上げられたことを意味する、という指摘がなされています。川尻秋生『平将門の乱 (戦争の日本史4)』