鳥取県西伯郡伯耆町。 平成17年1月1日西伯郡岸本町と日野郡溝口町が合併して誕生。 面積139.5平方キロ、人口12563人、世帯数3711世帯。 (平成16年12月28日現在の岸本溝口両町の合算値)
溝口地区は鬼の町として有名。 岸本地区小町には小野小町の墓とされる墓所も存在する。
旧国名の一つ。現在の鳥取県の西部。
🙇信連を信達と間違えておりました。申し訳ありませぬ🙇 ただちに御所内に乱入した役人は 血眼で高倉宮の姿を探しもとめたが、 もちろん、いるはずはない。 地団駄ふんだ彼らは、 隠れひそんでいた女房たちに悪態の限りをつくしたあと、 信連を縛りあげて、六波羅へ引き揚げたのであった。 報告を受けた宗盛は大床を踏み鳴らして現れると、 庭先に引き据えられた信連を見すえて、わめいた。 「おのれは、宣旨の使いと名乗る男を、 何が宣旨じゃと申して斬ったとな。 嘘とはいわせぬ。 そのうえ、検非違使庁の多くの下郎もあやめた。 断じて許さぬ。 よい、河原に引き出して、 その素っ首を打ち落してやる。 が、その前に宮の行方…
大納言以外に陰謀に荷担した者は、 それぞれ遠国流罪を言い渡された。 すなわち、近江中将入道 蓮浄《れんじょう》が佐渡国《さどのくに》、 山城守基兼は伯耆《ほうき》、式部大輔雅綱は播磨《はりま》、 宗判官信房は阿波《あわ》、 新平判官資行が美作《みまさか》といったぐあいである。 その頃、清盛は福原の別荘にいたが、 摂津左衛門盛澄《せっつのさえもんもりずみ》に命じて 門脇宰相《かどわきのさいしょう》のところへ、 「至急、丹波《たんばの》少将をこちらへ出頭させるように」 といい送った。 「何ということだ、今頃になって、 もっと前にいってくれれば諦めもつくというのに、 又々心配させる気なのだろうか」 …
湯谷城は広島県境に聳える岩樋山から北に延びた支脈の先端、日野川とその支流岩松川に挟まれた急峻な尾根上に築かれており、山麓の高台には城主居館らしい遺構もある。西麓の多里は備後国境まで5kmほど、備後に向かう日野街道の通る交通の要衝に位置する。 背後を堀切で遮断した居館の規模は南北40m東西50mほどの規模で、北西側に小さな腰曲輪が付属する。一般に土居屋敷に見られる土塁は居館背後から両側面にかけて築かれるのだが、本城の土塁は居館背後から東辺に伸びるが、西辺には確認出来ない。 居館跡は土砂採取などによって原状はかなり失われているようだ。現在居館南西隅の土塁脇に開かれた通路は後世の破壊によるものらしく…
土居城のある江府町俣野の尾上原は名峰伯耆大山の北側にあって、岡山県境に聳える金ヶ谷山(標高1164m)から北西に伸びる支脈の先端が、低くなだらかな丘陵となった所に築かれている。 城は四方土塁空堀囲みの方形居館プランだが、城の載る丘の歪みに合わせてわずかに歪み、東西幅70m、南北幅55m~80mの規模。大まかに言えば70m四方程度の規模といえる。これで吸収しきれない南東側突出部は櫓台としている。 城の尾首に当たる東側は尾根筋をわずかに遮断する堀切が確認出来るだけだが、残る三方には横堀が巡る。西辺中央部には虎口が開く。横堀に架かる土橋を渡って城内に入るものだが、単純な平入虎口で横矢などの防御の工夫…