中国後漢から三国時代の人物(? - 231年)。建寧郡愈元県の人。字(あざな)は徳昂。子に李遺。甥に李球。縁戚に爨習(おばの夫)。
郡の役人であり、縁戚の爨習の罪に連座するところであったが、董和に認められ、劉璋に仕えることを勧められた。
ちょうど劉備が進出してきた時期であり、劉備の勢いが盛んであるとみた李恢はそのまま劉備に仕え、当時漢中に亡命していた馬超への使者となり、馬超を劉備軍に帰順させた。
劉備の信頼が厚く、庲降都督・交州刺史となって、呉(孫呉)に通じて不穏な動きをしていた益州南部(南中)の動きを監視した。
劉備の死後、雍闓らが反乱を起こすと、諸葛亮の遠征軍を得て、225年にこれを平定した。
晩年は本籍の建寧郡の太守に任命されたり、漢中への移住を許されるなど優遇された。
『三国志演義』では、馬超を説得する弁舌優れた人物として登場する。