dilettantism 語源はイタリア語の「dilettare(楽しませる、楽しむ)」。18世紀にイギリスで設立された「ディレッタント協会」によって広まったとされている。衒学 道楽化・道楽主義のこと。衒学趣味ともいう。 人の場合は「ディレッタント」という。
「ため」にする主張。「口だけ番長」。 知識と権威をふりかざすだけの非生産的行為。
思想・哲学・芸術・文学とジャンルを問わず 思考が堕落して知識と淫した先の最悪形態。
これを克服することで人は高い次元の思考に到達する。
趣味らしい趣味がない。やはり「老後の趣味」が無くては何かとよろしくないのではないか、今のうちに何か夢中になれる楽しみを見つけておかねば、と妙な切迫感めいたものがわく。 まず、何を以って「趣味」と言っていいのかがわからない。幸か不幸か莫大な人生の時間を費やしてきた「会社員生活」がそれなりにいろいろな意味で面白いのだけれど、これはさすがに趣味ではなかろう。 本を読む、勉強会に顔を出す、花を植える、お菓子を作る、ウオーキングに出かける・・・これらもそれなりに全部楽しい。特に「学ぶ」「知る」という感覚には心躍るけど「趣味」と呼ぶには薄っぺらく、認定には至らない。 しかし、茂木健一郎さんの本(「ど忘れを…
日常の殆どは無意識の動作で出来ている。朝起きてから夜寝るまでの間に自分がなす活動の全てを意識的に、自覚的にやっている人はいないだろう。まるで上手くプログラムされた機械のように、正確に、日々の厖大な雑事をそつなくこなしている。この普遍的な事実を目にするとき、我々はしばしば驚嘆の溜息を漏らす。このように、元来人間の意識と云うものの大部分は潜在意識であり、それは顕在の意思とは全く違うような領域で、しかしそれと蜜月の関係を保ちつつ活発に動作をし、それで初めて我々は而今の生を謳歌することが出来るのだ。 ここから、人間の脳の大きさを甘く見てはいけない、と云った一つの箴言が導き出せるはずである。太古の、外敵…
ディレッタンティズムの時代は過ぎた。今や野獣の生きるべき時代である。
芥川の全集を経年順に読んでいると、大体「偸盗」あたりでこの作家もここまで成長をしたのかと感心をし、「戯作三昧」になると堂々とした風格に、――作品の善し悪しとはまた別としても――うたれたような感覚になる。と同時に、芥川龍之介がどこまでも芥川龍之介であるのに変わりもなく、若死にした作家ということもあり、どこか気安くなってしまう、文学に触れる脅威に、スリルに足らないところが出てくるのは、こちらも年輪を重ねたのであったから、仕方のないことであったのだろうか。どうもそういう問題ではない、そんな筈はないのだ、という気がする。ならば、三十で死んだエミリ・ブロンテを引き合いに出せば、それは卑怯、とでもなるのだ…
教養とは何ぞやみたいな記事がホットエントリに上がっていたので便乗します。そんなに難しい概念ではないと思うんですけどね、まあパパっと定義してみましょう。ただし、ここで定義する「教養」は、あくまで我々がこの言葉に対して抱いているイメージからつくりあげたものです。歴史とか本来の意味とかそういうのは考慮しません。そもそもここ日本ですからね。日本語としての、日常語としての「教養」を考えます。 博識としての教養 まずは、教養の範囲をできるだけ広くとってみましょう。我が国を代表する教育者である新渡戸稲造さんは、教育の目的について次のように述べています。 それに就いては、ただ専門の学に汲々としているばかりで、…
たしかにこの2冊は結構つながっていて。今度の本で社会契約っぽい比喩を使おうと思ったかというと、民権新書の焦点だった「私立国会論」というのが念頭にあるからなのですね。 https://t.co/6LzNucVTm2— yusaku_matsu (@yusaku_matsu) May 12, 2022 この投稿をInstagramで見る 日本評論社(@nihon_hyoron_sha)がシェアした投稿 ただ結局自分の案件・執筆との合理的関連性のある書籍を買ったほうが長い意味ではサステナブルなんだよなぁと。単に分野で全部買いしていくと、結局あんまり見なかったりする。— anonymity (@bab…
三木清『読書と人生』のつづきを読む。 nainaiteiyan.hatenablog.com 三木清は読書法について語る。 濫読 (らんどく) は読書の入口として重要である、と述べる。 しかし、濫読にハマり専門性を持たない人はディレッタンティズムだ、と語る。 多読は読書家の条件ではあるが、多読は濫読でもある。 つまりは、一貫性が大事との主旨であった。 また、三木清は図書館についても語る。 図書館は調べものをする場所であり、本は所有するべきだという主張であった。 個人的にも本を買うこと、所有することはいろんな意味で大事だと考えている。 例えば、立花隆は一回の買い物で2、3万円分の本を買うと書いて…
写真はキジ(2020.6撮影) 戦時下、わたしたちのいるところ。あるいは「歩け、走るな」。 プレイリスト「2022.04_Walkin: No More Runnin」 戦時下、わたしたちのいるところ。あるいは「歩け、走るな」。 どのような途方もない無理無体、非人間性、不条理が姿を現すのであろうか、とその私は心ひそかに待ち受けてもいた。……それらはここに存在し、必ずあからさまに出て来るはずである。形式的にはもう私は「一匹の犬」であるにしろ、それらの出現がより実質的に私をそれにしてしまうであろう。そしてそのことをこそ私は覚悟して来ているのではないか。(中略) やはり私は歩いていた。新砲廠の表は、…
マルクスは「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として。二度目は喜劇として。」と書いてますが、この考え方を成立させるには歴史の切り出し単位の妥当性が求められます。今回のロシア-ウクライナ戦争と対比させるべきはフランス2月革命が欧州全土を巻き込む3月革命となった時の…https://t.co/NfRZK2FXSx — Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月24日 帝政ロシア介入でしょう。この時、欧州に亡命していたゲルツェンは「ロシアがやって来る、ヤァヤァヤァ、ドイツが妥協すればするほど奥深く踏み込んで来る‼︎」と言いました。これ「ビートルズがやって来る、ヤァヤァヤァ…
ーー家庭料理は民藝である。 料理研究家の土井善晴氏(以下敬称略)の言葉である。 そして、土井の近著で今話題となっているのが、『一汁一菜でよいという提案』(新潮文庫、2021年)である。ただこの本はいわゆる“料理本”ではない。まぎれもない思想の書だ。 一汁一菜でよいという提案(新潮文庫) 作者:土井善晴 新潮社 Amazon 民藝とは民衆的工藝の略語である。料理は工藝ではないから厳密には民藝に含めて考えることはないが、ただ、手仕事、日常、民衆、多産、廉価といったキーワードを共有するという意味で民藝に近い。また家庭料理が供される時に用いられる器こそ本来民藝とみなされるものだ。その意味で、家庭料理と…