Dragan Stojković
セルビア出身でユーゴスラビア代表として活躍した元サッカー選手、現サッカー指導者。愛称は「ピクシー」。
1965年3月3日生まれ。セルビア・ニシュ出身。身長175cm、体重72kg。
現役時代のポジションはフォワード、ミッドフィルダー(セカンドトップ)。抜群のテクニックを持ち、変幻自在のドリブルと非凡なパスセンスで攻撃を彩る司令塔。右足のキックは正確かつ強烈で、プレースキックの名手としても活躍した。
1981年、地元のラドニツキ・ニシュに加入。1983年プロ契約。1985年、兵役でコソボ・プリシュティナに赴任。1986年、名門クラブのレッドスター・ベオグラードに移籍。同年から3年連続でリーグMVP獲得。1987-88シーズンにはロベルト・プロシネチキやデヤン・サビチェビッチとともにリーグ優勝を果たした。1989年5月、「星人」(Zvezdine Zvezde)*1の称号を得た。
ユーゴスラビア代表としては、1983年11月12日の対フランス戦で代表デビュー。1984年、UEFA欧州選手権で初の国際大会出場。ロサンゼルスオリンピックでは銅メダル獲得に貢献した。1988年にはソウルオリンピックに出場。1990年FIFAワールドカップでは、イビチャ・オシム監督率いるユーゴスラビア代表の一員として出場し、ベスト8進出に貢献した。
1990年、フランスの名門オリンピック・マルセイユに移籍したが、すぐに左膝を負傷し、シーズンの大半を棒に振った。1991-92シーズンはイタリア・セリエAのエラス・ヴェローナへレンタル移籍した。怪我のため出場試合は少なく、イタリアの守備的な戦術にも戸惑って活躍できないまま、ヴェローナはセリエBに降格した。また、ユーゴスラビア代表は1991年のユーゴスラビア内戦の影響で、翌1992年3月25日の国際親善試合対オランダ戦を最後に国際舞台から締め出されることとなり、代表・クラブ両面で不遇の時代をおくることになった。
1992-93シーズンからはマルセイユに復帰したが、1994年にマルセイユの八百長問題が発覚。このためヨーロッパを離れることを決意し、1994年6月にJリーグの名古屋グランパスエイトに入団した。当初は判定への不満から警告や退場処分を食らう事が多く、また味方選手との呼吸が合わずチームにフィットできなかったが、1995年に名将アーセン・ベンゲルが名古屋の監督に就任すると、かつての輝きを取り戻し、ワールドクラスのプレーで観客を魅了した。1995年シーズンはJリーグMVPを獲得し、天皇杯全日本サッカー選手権大会優勝に貢献した。1999年にも天皇杯で2度目の優勝を果たした。
1994年にユーゴスラビア代表の制裁措置が解除。1998年FIFAワールドカップ・フランス大会の欧州予選では、毎回日本から駆けつけ、最終的にプレーオフを勝ち抜き、見事本大会出場を果たした。W杯本大会ではノックアウトラウンド初戦でオランダに敗れ、ベスト16に終わった。
2001年7月4日、キリンカップサッカー対日本戦で代表引退。7月21日の対東京ヴェルディ1969戦を最後に現役引退。10月1日、豊田スタジアムにて名古屋グランパス対レッドスター・ベオグラードの引退試合開催。10月30日、ニシュのチャイル・スタジアムにて引退試合を行った。同年9月、ユーゴスラビア(後にセルビア・モンテネグロ)サッカー協会会長に就任した。
2004年3月、日本外務省より西バルカン平和定着・経済発展のための「平和親善大使」を委嘱。
2005年7月6日、レッドスター・ベオグラード会長に就任。
2008年より、名古屋グランパスの監督に就任。コレクティブなサッカーで躍進し、クラブの定位置だった中位から脱してリーグ戦3位でシーズンを終え、AFCチャンピオンズリーグへの出場権も獲得した。
2009年はAFCチャンピオンズリーグでベスト4に進出したが、リーグ戦では9位に終わった。同年10月17日には、日産スタジアムで行われた横浜F・マリノス戦において、相手GKの榎本哲也がタッチラインへボールを蹴り出した際、ベンチから駆け寄って革靴を履いた右足でダイレクトシュートを放ち、大きな弧を描いたボールが52m先のゴールにワンバウンドで入るという現役時代さながらの美技を見せた。このプレーは遅延行為および審判への侮辱行為とされ退場処分を受けたが、YouTubeを通じて全世界で視聴され、欧州サッカー連盟(UEFA)会長のミシェル・プラティニからも賞賛された。
2010年は田中マルクス闘莉王、金崎夢生を獲得するなど大型補強に成功。尻上がりに調子を上げ、3試合を残して悲願のJリーグ初優勝を果たした。Jリーグ最優秀監督賞を受賞し、Jリーグ史上初の最優秀選手賞と最優秀監督賞の両方の受賞者となった。
2015年4月29日、外国人受勲において「日本・セルビア間の相互理解の促進及び我が国のサッカー界の発展に寄与」したとして、旭日小綬章を受章。
*1:レッドスターに大きな貢献をした偉大な選手に贈られる称号で、クラブの歴史10年に対して1人の選手にしか贈られない。