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三宅周太郎

(読書)
みやけしゅうたろう

1892-1967、演劇評論家。

明治25年7月22日、兵庫県加古川に生まれた。6歳のとき父親が町に劇場を建て、毎日のように見に行った。少年時代からの芝居好きで、同志社大学付属の中学生になると京阪神の舞台を見てまわり、ときには東京にまで遠征した。明治45年慶大の文科に進学、ますます演劇熱が昂じる。同期に劇作家の水木京太がいて、青春期をもっぱら芝居についやした。在学中改組された「三田文学」(大正6年5月)に『新聞劇評家に質す』を発表、東京朝日の竹の舎主人(饗庭篁村)を痛烈に批判したのが評判になり、小宮豊隆小山内薫に認められ「演芸画報」に執筆するような新進劇評家となった。大正7年卒業、同年5月から「時事新報」に月評を書いたが、社内事情で1年半で終わった。しかし当時最高の権威と言われた「新演芸」の合評会同人に推薦され、10年初代中村吉右衛門が市村座を脱退したとき招かれて新富座の嘱託となり、いちじ演出面にも力を貸した。

関東大震災で帰阪したとき、大阪毎日新聞に入社、同紙の劇評を書くことになる。最初の評論集は大正11年2月に新潮社から刊行された『演劇往来』で、そのころ住んでいた本郷菊富士ホテルで、宇野浩二を知り、谷崎精二、広津和郎を紹介された。その劇評の文体が、従来とちがう独自の描写と、新しい角度から歌舞伎を見る目とを示すのは、そういう交友のたまものである。大阪時代初代中村鴈治郎を批判して松竹から反論された。13年に東京に転任、文芸春秋社が第2次「演劇新潮」を出すときに編集長として菊池寛に招かれ、昭和2年の終刊まで雑誌作りを続け、ここでも多くの文学者と知り合った。すすめられて「中央公論」に「文楽物語」を連載、水上瀧太郎が「三田文学」に『三宅周太郎氏の世界』を書いて激励した。後日『文楽之研究』(春陽堂、昭和5年6月)という本にまとめられたこの仕事が、評論家としての地位を決定したといえる。芸に精通しながらも物質にめぐまれない人形浄瑠璃の人々の人生を紹介して、これは一種の報道文学である。

一方、歌舞伎の批評では、先輩の杉贋阿弥岡鬼太郎と同じように、型に関するくわしい検討をしながらも、まったく新しいスタイルを作り、後進に大きな影響を与えた。その意味で、画期的な存在といえる。劇評集として、以後『演劇評話』(新潮社、昭和3年3月)、『演劇巡礼』(中央公論社、昭和10年5月)など数多い本を作ったが、俳優との対談も多く、一流の話術が面白い。

第二次大戦中、京都の姉の家に疎開、戦後はしばらく上京しなかったが、京都で「幕間」という雑誌発行に尽力、その社から出した書き下ろしの自伝『観劇半世紀』(和敬書店、昭和23年11月)は、私小説的に興味深い。やがて東京に来るが、ある時期は東京と関西を往復して、大劇場の劇評を書いた。昭和39年菊池寛賞を受けたが、国立劇場の舞台をついに見ずに、肺ガンで死んだ。生涯、歌舞伎と文楽とを愛し続けたジャーナリストである。


【文:戸板康二/『日本近代文学大事典』より】

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