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世襲親王家

(一般)
せしゅうしんのうけ

天皇宗家と血統が離れているにも関わらず代々、その当時の天皇の猶子になることにより親王宣下を受けて親王を世襲してきた宮家

世襲宮家の成立

 院政の展開に伴い、八條院領などの大規模な荘園領が形成され、天皇や皇親の私有財産として継承された。
 このような経済的基盤の確立を背景に、鎌倉時代後半から室町時代前期にかけて、相続財産としての殿邸 ・ 所領等を繼承した男系皇胤が、家號としての宮号を継承することにより、世襲宮家が成立することとなった。
 世襲宮家の一部は、代々、天皇または太上天皇の養子または猶子となって親王宣下を被り、所謂「世襲親王家」としての体裁を整えた。

世襲宮家の衰退

 しかし、室町初期から中期にかけて、岩倉宮と四辻宮は源朝臣を賜姓され、また、南朝系の宮家は政治的に断絶させられた。
 それ以外の宮家も、荘園の有名無実化によって経済的基盤を失った。五辻宮や木寺宮は地方に下ったことが知られているが、その後の消息は不明である。
 かくて、室町時代の末期に至るまでに、南北朝時代の北朝・崇光天皇の皇子・栄仁親王を祖とする伏見宮家を除く世襲宮家は悉く消滅するに至った。

「四親王家」の成立

 戦国時代を生き拔くことができた世襲宮家は伏見宮家のみであった。
 天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉の奏請により後陽成天皇の弟宮である智仁親王によって八條宮(のちの京極宮、桂宮)家が創設された(なお、後陽成院の二宮が「七條宮」となっているが、後、仁和寺御室に転じた)。
 さらに、江戸時代に、後陽成天皇の第7皇子・好仁親王を祖とする高松宮(のちの有栖川宮)家と東山天皇の皇子・直仁親王を祖とする閑院宮家が創設された。これら「四親王家」と称される各宮家は、皇統の備えとして、朝廷・幕府から歴代の継承を認可されて、幕末に至った。
 これら「四親王家」の継承は、男系子孫による世襲を旨としつつも、名跡の相続という側面が強かった。現に、宮家の開祖の男系子孫が幕末 ・ 維新期まで続いたのは伏見宮家のみである。その伏見宮家にしても、二度、血統の断絶の危機があり、第十七代を継承した貞行親王は桃園院の男子であった。

幕末・明治維新期における新宮家の成立と明治期前半の宮家

 幕末、国事多難となるに及び江戸幕府が『公武合体派』の朝廷の有力者を増やす必要性から、青蓮院宮が還俗して中川宮(のち賀陽宮、久邇宮)となり(朝彦親王)、ついで、勸修寺宮が還俗して山階宮となり(晃親王)、幕末には『六宮家』となった。(※「伏見宮家」「桂宮家」「有栖川宮家」「閑院宮家」「中川宮家」「山階宮家」の6家)
 さらに、「王政復古」に際し、法軆の男子皇族(門跡宮および門跡新宮)は、悉く還俗し、仁和寺宮(のち東伏見宮、小松宮)・聖護院宮(照高院宮を繼嗣とする)・華頂宮・梶井宮(のち梨本宮)・照高院宮(のち北白川宮)の各宮が成立した。
 これらの新立の宮は、二代目からは臣籍降下する一代皇族に定められた。
 一方、舊「四親王家」は、以前通り世襲親王家として代々親王宣下を被ることと定められた(幕末に孝明天皇の親王宣下により新設された「中川宮」「山階宮」の2宮は世襲親王家と認められず、「王政復古の大号令」後に新設された宮家と同じ扱いになった)。
 しかし、一代皇族の制は「特旨」等によって全く機能せず、明治十四年には東伏見宮(のち小松宮)が世襲皇族に、山階宮が二代皇族に列され、明治十六年には久邇宮が二代皇族に列された。
 この時期において、明治十四年(一八八一)、桂宮家が断絶した。

明治二十二年の皇室典範制定

 明治二十二年(一八八九)に皇室典範が制定され、世襲皇族・一代皇族・二代皇族の制は廃止され、永世皇族主義が確立した。
 皇族の臣籍降下は認められておらず、よって、皇族は、男系子孫が絶えぬ限り、無限に人數が増大することとなった(後に嫡男以外で宮家の相続権のない皇族については臣籍降下を認めることに一部の例外を除き緩和)。
 その一方で、皇族の養子が禁止された。そのため、継嗣たる男子を欠いた宮家は廃絶することとなり、後に、小松宮・有栖川宮・華頂宮の各宮家が廃絶するに至った。
 また、親王宣下の制は消滅し、舊四親王家も、地位の上で新立の宮家と変わりなくなり、これにより事実上世襲親王家の制度は廃止されることとなった。


なお帝の猶子になることによる親王宣下(親王宣下の制)の最後は、東伏見宮依仁親王が親王宣下を受けた1886年(明治19年)が最後と思われる(これ<=明治22年の皇室典範制定>以降は、その当事者の皇族が生まれた時の天皇の男系2親等以内が親王・内親王で、3親等以上が王・女王と、自動的に皇族の敬称が決まるることとなった)。

その後の旧世襲親王家

 さらにその後、大正天皇に4人の健康な親王が誕生すると、当分の間皇位継承の心配がなくなったことから、1920年(大正9年)に皇室典範が改訂され、当時の天皇家から血縁関係が室町時代まで遡り遠い(明治天皇の外孫を産んだ、竹田宮家・東久邇宮家、香淳皇后を出し天皇家の外戚になった久邇宮家は例外的に、女系で縁戚関係があった)、伏見宮邦家親王の男系子孫の宮家の人間が全てが例外なく、邦家親王から長子孫の系統4世以内を除き勅旨により家名を賜い華族に列するとされた(※つまり邦家親王から長子孫4世=玄孫までは皇族でいられるものの、それ以降の5世孫以降の邦家親王の後胤や、宮家を継げなかった嫡男以外の弟王などは例外なく臣籍降下し家名を賜い華族に列するとされた。)
鯔のところ、敗戦後の1947年(昭和22年)10月14日にGHQにより、半ば強制的に臣籍降下された当時存在していた邦家親王の男系宮家=11宮家の当主はほぼ2世か3世ではあったが、戦前時の皇室典範ではあってもいずれかの時期には、当時の11宮家(通称:旧宮家)は5世以降は臣籍降下せねばならず、皇族としては消滅する運命であった。(なお、他の親王家<有栖川宮家・桂宮家は断絶、閑院宮家は断絶後、邦家親王の後胤を養子にして復興された為、1947年に臣籍降下した旧伏見宮系皇族と立場が変わらない>は血統的に当時全て断絶していた)

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