一九一九年、パリ講和会議に日本委員が持ち込んだ「人種差別撤廃提案」と、それが結局、否決に至るまでの間。一連の流れというものは、当時に於いてもかなり注目の的だった。 ほとんど固唾を呑むようにして。──実に多くの日本帝国国民が、その動静を窺っていたものである。 まるで「悲願」といっていい、視線の集中ぶりだった。 なればこそ、該提案が「内政干渉」の謗りを受けて、どうも居並ぶ列強の賛意共感を引き出し難いと知ったとき。 反応は蓋し強烈だった。知識人らは目を吊り上げて、彼らの持ちうる最強の武器、ペンとインクをひっつかみ、「何が内政干渉か」と反駁文を書いている。 わけてもたまらぬ切れ味は、内田定槌の仕上げて…