後編では、鈴鹿支線(現・内部線)延伸される際の日永駅の経緯について見ていく。 その前に、そもそも鈴鹿支線の計画はいつ頃どのような理由で立ち上がったのか。鈴鹿支線計画の出発点を探ると、昭和11(1936)年出版の絹川太一編『伊藤傳七翁』という書籍に突き当たる。この書内に「日進工業株式会社」という企業紹介項目があるが、この中で 「三重軌道株式会社が経営意の如く終始窮境に彷徨するのを見た翁は、地方に事業を起して右鉄道を救済すると同時に何等か資源を開発せんと志し、研究の結果鈴鹿方面に多量の石灰石埋蔵せんことを発見した。…(中略)…そこで四日市に日進工業会社を設立し事業を開始するに至った。」 とある。1…