伊達騒動

(社会)
だてそうどう

江戸時代、寛文11年(1671年)に起きた仙台藩の御家騒動。
伽羅先代萩』『樅の木は残った』など数多くの物語の題材となった。

前章

万治3年(1660年)、遊興三昧だった第3代藩主伊達綱宗が幕命により隠居、当時2歳の息子亀千代(のちの伊達綱村)が後を継ぐ。
一関藩主・伊達宗勝(伊達兵部)が後見人として権勢をふるうようになる。

本章・寛文騒動

宗勝の甥・伊達宗倫(伊達式部、綱宗の弟)と伊達宗重(伊達安芸)の領地を巡る対立に端を発し、宗勝派と宗重派に藩を二分する騒動に発展した。
寛文11年(1671年)3月27日、江戸の大老・酒井忠清の屋敷に召喚された宗重が宗勝派の中心人物の一人・原田宗輔(原田甲斐)に惨殺される事件が発生、原田もその場で宗重派の中心人物の一人・柴田朝意(柴田外記)に討たれた*1
この結果、後見人の立場を濫用したとして宗勝の一関藩が改易に追い込まれた。

後始末

ただし、成長した綱村も後に強権政治に走るようになり、元禄16年(1703年)には隠居、従弟で養嗣子の伊達吉村に家督を譲らざるを得なくなった。

*1:ただし柴田も混乱した酒井家の用人に斬られ程なく息を引き取った

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