三国志の英雄。字は不詳。
「容貌魁偉にして怪力の持ち主で、任侠心に富む」と評された。
はじめ張邈(張バク)の武将の趙寵に仕えた。のち夏侯惇の配下となり、呂布との濮陽の戦いで大いに奮戦し、この時の働きから都尉に任命され、曹操の護衛役になった。
建安2年(197)、曹操は宛の張繍を攻め、降伏させた。しかし十数日後、張繍は曹操が張済(張繍の叔父に当たる)の妻を側妾としたことを怨みに思い、曹操軍を奇襲した。曹操軍は敗北し、典韋は曹操を逃がすため門内に残り孤軍奮闘し、壮絶な最期を遂げた。
曹操は典韋の遺体を奪還し手厚く葬り、その後も戦死した場所を通るたびに、中牢(羊と豚)のいけにえを捧げて祭ったという。
「三国志演義」では、曹操に「古の悪来*1の再来である」と評されたことでも知られる。
*1:殷の紂王の臣。剛力で知られる