北条時輔(宝治2〔1248〕年5月28日 - 文永9〔1272〕年2月15日)は鎌倉時代の六波羅探題南方。鎌倉幕府五代執権北条時頼の長子。母は側室の「将軍家讃岐」とも「三河局」とも言われる。幼名は宝寿丸。初名は時利、後に時輔に改名。
文永元(1264)年、六波羅探題南方に就任、南方は22年間廃絶していたこともあり、京都に追い払われたという見方と、訴訟拡充のために六波羅探題南方再興のために遣わされたという見方がある。六波羅探題北方の北条時茂が死去した後は時輔一人が六波羅探題であった。この点から、必ずしも時輔が冷遇されていたわけではない、とする見方もある。
文永9(1272)年、名越時章と名越教時兄弟が追討の対象になると、京都にいた時輔も追討の対象となり、六波羅探題北方に就任したばかりの北条義宗に討たれる。いわゆる二月騒動である。