誰しも、短歌の詩性を強調することはする。しかし、非・詩が五句三十一音の姿をとったとき、それを非・詩だと断定することはない。五句三十一音の定型性が、今日もまた、ひとりの人を、短歌へ誘うのだ。 非・詩が三十一音によって、短歌の形をとりうること、これこそが、まさに短歌にとっての恐るべき微量毒作用なのである。(『天刑病考』)また原田禹雄はこうも語る。「(…)短歌における二つの死が、内部と外部に、深淵をひらいている。道は、ひとつしかない。短歌の五句三十一音を、そこから逃避することなく、詩によって克服する」ことと。原田禹雄にとってなによりも重要なことは「短歌は、詩でなければならない」ということだった。そし…